楓
「おい、夏樹。いつまで泣いてんだ。楓ならとっくの昔に帰ったぞ。泣く暇があったら夕飯の支度を手伝え」
千春は部屋の隅で膝を抱えて座っている夏樹にそう言った。その場にいた美冬利は我関せずと言った様子で食器を並べたりしている。
「楓きゅんが帰ったのがショックじゃなくて今日の夕飯当番が千春姉さんだってことにショックを受けて泣いているんです!」
「あぁ? お前、私の飯に文句があるっていうのか?」
「えぇ、ありますよ。いつもいつも言おうと思ってたんですが、どうやったらそんな塩分濃度の高い味噌汁が作れるんですか?
ちゃんと味見してます?」
「あ、あ、当たり前だろ! …ただ、味噌汁だけは作るの苦手なんだよ」
「なんで数ある料理の中で味噌汁限定なんですか! 他は美味しいのに」
「うるせぇ! そんなに文句があるならお前が作ればいいだろ!」
「いえ、そこは当番の千春姉さんが作ってください」
「て、てめぇ…」
千春と夏樹の睨み合いが始まった。すると、その間に入るように欠伸をしながら秋穂が二人の前を横切った。
「ふあぁ~、姉さん達元気良すぎだよ~
今日は何で喧嘩してるの?」
秋穂は間延びした声で尋ねる。
「こ、こいつが私の味噌汁飲めないって言うから」
「うーん。確かに千春姉さんのお味噌汁は塩辛いもんね。
どうしてレシピ通り作らないの?」
「だ、だって、この味噌汁は母さんが教えてくれた味噌汁だから…
母さん通りに作れてないことは重々分かっているけど、母さんが褒めてくれた味噌汁なんだよ…」
千春の言葉を聞いた夏樹と秋穂はお互いの顔を見合わせた。そして、互いに噴き出した。
「お、おい、お前ら何がそんなに可笑しい!」
「いやー、千春姉さんもそんな顔するんだな~って。
あの日以来ずっと気を張っていて怖かったからさ。何だか面白くて笑えてきちゃった」
「な、夏樹! お前は味噌汁、百杯飲ませてやるからな! 覚悟しろよ!」
「いや、それは流石に塩分の過剰摂取で死ぬって」
姉妹達は和気藹々と食事の準備を進めていたが、一瞬張り詰めた空気に変わった。
「おい」
千春がそう言うと姉妹達は頷いた。
「鬼の気配です。それも、かなり強い」
「しかも、結構近いね~」
「まさか、『奴』か」
「いや、そこまではないと思うけど。でも用心した方がいいね」
「ふん、相手に不足なし。晩飯前の準備運動といこうじゃねぇか。
お前ら準備は出来てるか?」
千春の問いかけに三人とも頷いた。
「よっしゃ、じゃあ、出撃といこうぜ」
千春の合図と共に姉妹達は勢いよく家を飛び出した。屋根から屋根を伝い、鬼の気配を感じた場所までを最短距離で向かう。残り百メートルというところまで来た。
「こりゃ、久々の大物の予感だ。武者震いまでしてきたぜ」
「…なんだか、嫌な予感がするんだよなぁ。私だけか?」
「ん? 夏樹姉さんどうかしたの? 鬼が怖いの?」
「バカ言え。鬼が怖いとか何十年前の話だ。
そうじゃなくて、なんかこう嫌な感じがするんだよ」
「夏樹姉さんの勘は結構当たりますからね。用心していきましょう」
四人は会話を交わしながら、鬼の気配を感じたポイントまで辿り着いた。
「おい、お前、観念しやがれ。私たちが来たからには、もう、にげ…、ら、れ―
お、おい、お前、何でそこにいる…」
千春は啖呵を切るのを止めて眼前に立ち尽くしている鬼を見た。残りの姉妹達も予想だにしていないことに思わず思考が停止した。
話しかけられた鬼はゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは暗闇でもよく分かる真っ赤な瞳をした楓が立っていた。その足元には三人の男が横たわっていた。
楓はこちらを見据えると、夏樹をめがけ、凄まじいスピードで突っ込んできた。「避けろ!」という千春の声で我に返った夏樹は間一髪のところで攻撃を躱した。
「怪我はねぇか?」
「大丈夫。ちょっと掠っただけ」
「…チッ、一体どうなってやがる。
秋穂! そっちで倒れている男達はどうだ!?」
「酷い怪我をしているけど、命に別状は無さそうだよ~」
秋穂はこんな場面でも間延びした声で答えた。
(くそっ、どうなっている。楓の鬼は出てこなかった。今は出てきている感じじゃねぇ。まるで憑き物がいるような―
!!! ま、まさか。いや、そんなはずは―
「千春姉さん危ない!」
「えっ」
気付いた時には楓は千春の眼前にいた。固く拳を握りしめて。とても避けられるものではないと思った千春はガードをした。そのガードの上から楓は拳を振り抜いた。その余りの攻撃の重さに千春の体は吹き飛び、壁へと叩きつけられた。追撃を仕掛けようとする楓。右拳が千春に届く寸前で楓の腕が弾かれた。
楓はゆっくりと左を見た。そこには弓を構えた美冬利の姿があった。
「それ以上、攻撃をするというのなら、私は四郎園さんの眉間を撃ち抜きます」
美冬利の言葉に楓は何も答えず、美冬利の方へと体を向けた。その目は底のない闇のような目をしていた。その目を見た美冬利は思わず怯んだ。その隙を見逃さなかった楓は美冬利との間合いを一瞬で詰めた。振りかぶられた拳を見た時、美冬利は死を悟った。そして、固く目を瞑った。
しかし、いつまで経っても痛みは無かった。恐る恐る目を開けると、拳を握ったままの楓がゆっくりと倒れた。そして、その後ろにいたのは、刀を握った千春の姿があった。
「はぁ、はぁ、私を無視すんじゃねぇよ」
どうやら、楓が攻撃を繰り出す前に、千春がギリギリのところで追い付き、後ろから刀の柄頭で楓の首筋を殴り気絶させたようだ。
「美冬利、怪我は無いか?」
「わ、私は平気です。それよりも、千春姉さんこそ大丈夫なんですか?」
美冬利はそう言って千春の左腕に目をやった。先程の楓の攻撃を受けた箇所が酷く腫れている。
「骨は折れているだろうな。こんな怪我はどうってことない。死ななかっただけマシだよ。
しかし、油断したな。まさか、楓がこうなるとは思わなかった。
…このことは教訓にしよう。
とりあえず、美冬利は楓を家まで運んでくれ。私と夏樹は、そこで怪我をしている人たちを連れて病院に行ってくる。
秋穂は楓の家に行って事情を説明して、しばらくウチで預かるように言ってくれ」
三人は頷くと、それぞれ行動を開始した。みんな散っていき現場に残されたのは美冬利と気絶している楓のみとなった。美冬利はゆっくりと楓に近付く、先程みたいに恐ろしい感じは一切なく、玄関先で別れた時のような可愛い顔をしていた。
美冬利は楓の頬を突いてみたが起きる様子はない。仕方なく思った美冬利は楓を抱え上げた。楓の体は思っていたより軽くて、”ひょい”という表現が一番似合う感じで持ち上がった。
美冬利は楓を抱えたまま現場を離れ自宅へと戻った。