団欒
脱衣所から出た楓はひたすら長い廊下を歩き、食卓へと向かった。食卓に辿り着くと姉妹達は談笑しながら食事の準備をしていた。
「すみません。お待たせしました」
「おー、早かったな。ゆっくりできたか?」
「えっ、い、いや、みんな待っていると思って慌てて出てきました」
「あっ、お前もしかして、私が早くしてくれって言ったから急いだのか。
あれはこの馬鹿を少しばかり教育してやろうと思って出た言葉の綾ってやつでな。
…とにかく申し訳ないことをしてしまったな。今度からは気にせずゆっくり風呂に入ってくれ」
「は、はい」
楓が返事をすると千春はバツが悪そうな顔をしながら席に着くように促した。
楓が席に着くとそれを見計らったかのように目の前に料理が並べられた。今日の晩御飯はハンバーグの様だ。とてもいい匂いに食欲がそそられる。楓は「待て」を命じられた犬のようにハンバーグを凝視しながら待った。
「これで全員分揃いましたか?」
美冬利はエプロンを外しながら尋ねた。千春が「揃ったぞ」と言うと美冬利は席に着いた。
「ふぅ。すみません。お待たせしました」
美冬利が座ったのを確認すると夏樹が号令をかけた。
楓はハンバーグを一口食べた。口の中に広がる肉汁がハンバーグにかけられたソースとマッチして、口の中は幸せな空間になっていた。
そんな楓を見て秋穂が話しかけてきた。
「うわぁ、楓君。凄い顔になってるよ。
その顔はちょっとやばいかも…」
「へっ、なにがですか?」
「うーん。遠回しに言えば放送禁止なレベルの顔かな」
「じゃあ、遠回しに言わなければどんな顔なんです?」
美冬利は横から興味がなさそうに聞いてきた。
「うーん、ブサイク?」
「楓きゅんがブサイクなわけないだろ!
こんな、ほっぺにソースをつけて可愛い顔をしている、この顔のどこがブサイクなんだ!!」
夏樹は秋穂のブサイクと言う言葉に過剰に反応を示した。
「もー、冗談に決まってるじゃん。
夏樹姉さんはなんでもかんでも真に受けすぎ。そういうのを馬鹿正直って言うんだよ?」
「お姉様に向かって馬鹿とは何だ! 馬鹿とは!」
そこから二人の言い争いが始まった。
「はぁ、また始まりましたか」
美冬利はため息をつきながら食事を口に運ぶ。
「ちょ、ちょ、ちょっと、食事中に喧嘩は止めてください!」
楓は二人の間に入って喧嘩を仲裁した。それでも、喧嘩が収まる様子はない。
「おい、いい加減にしろよ。喧嘩なら飯が終わってからにしろ。こっちの飯まで不味くなる」
千春が静かに一喝すると二人は大人しくなった。
食卓には喧嘩の後の嫌な空気が漂っていた。この状況を打破しようと思った楓は、何かを思い出したかのように千春に話しかけた。
「あっ、そうだ。千春さん、昨日はお風呂に入れてもらってありがとうございます」
誰も予想していなかった話題にみんな一斉に箸が止まった。
「は? お前、急にどうした?」
「い、いえ、さっきお風呂に入る前に夏樹さんにそう言われたのを思い出したので…」
「いや、それにしてもタイミングってもんがあるだろ」
「た、確かにそうですよね…」
楓は顔から火が出そうな程恥ずかしくなった。そんな楓を見て千春はクスリと笑った。
「ぷっ。
まぁ、いいよ。気にすんな。
…ありがとな」
「えっ、いや、こちらこそありがとうございます」
楓が頭を下げると千春の心の中で一つの悪だくみが浮かんだ。
「あっ、風呂で思い出したけど、楓、お前結構いいもん持ってるじゃねーか。
今まで見た中で一番を保証してやってもいい」
千春の言葉で夏樹が飲んでいたお茶を噴き出した。楓も顔を赤らめて口をパクパクさせている。
「ブーッ。
ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待って。…まさか、千春姉さん。…見たの?」
「あぁ、そりゃ、嫌でも目に入るだろうが。風呂に入れてんだから」
「ノーーーーーーーーー!!!
そ、そりゃ、ずるいでっせ、姉貴!!
動画は? 写真は?」
「そんなもんあるけねぇだろ。ましてや、本人が要る前でなんていうことを言ってんだ」
当の楓はこの世が終わったかのような哀愁を漂わせていた。千春はそれが可笑しくて堪らなくなり、思わずにやけた。
しかし、その一瞬の隙を見逃さなかった人物がいる。それは秋穂であった。秋穂は千春のその表情を見て全てを悟った。これが全部千春の嘘であるという事を。
そして、秋穂は千春の優位を揺るがす言葉を思いついた。
「えっ、ちょっと待って。千春姉さん、彼氏いたことないのに、どうやって楓君のが一番だって判断したの?」
秋穂の発言に場の空気が固まる。
「は、はぁ?
そ、そりゃ、彼氏がいなくとも、介護の手伝いを一時期、していたんだぞ? (自主規制)の一つや二つぐらい、見るだろ」
千春はしどろもどろになりながら答えた。それよりも、しどろもどろになっているのは楓であった。本人の目の前で、ましてや、異性がそんなぶっとんだ話をしているなど思いもしない。これはもう、新手の拷問なのではないかと思った楓は何故自分がこんな拷問を受けているのか、一生懸命理由を探していた。
そんな楓を余所に秋穂は次の手に打って出た。
「ダウト」
「な、なにがダウトなんだよ」
「千春姉さんが、介護の手伝いをしていたのは一ヵ月ぐらいでしたよね?」
「あ、あぁ、それだが、それがどうした」
「覚えてらっしゃらないのですか? その時のご自身の発言について」
「い、一体何が! はっ…」
「思い出しましたか? 一ヵ月の間、介護の手伝いをしていたのは事実ですが、食事の補助しかしていないと発言したことを。
まさか、忘れたわけではありませんよねぇ。千春お姉様?」
秋穂は悪意たっぷりの笑顔で千春に詰め寄った。
「あ、あぁ、もちろん、忘れてねぇよ。ただ、一つ訂正させてくれ。
食事の補助だけってのは嘘だ。入浴の補助もしている!」
「ダウト! この期に及んで往生際が悪すぎます!」
「往生際もクソもあるか!
じゃあ、逆に聞くけど秋穂は私が食事の補助しかしていないという確たる証拠でもあるのか?
現に昨日、楓を風呂に入れたのは私だろ? 入浴の補助をしたことがないと、こいつを風呂に入れることは困難だ」
千春はそれはもう勝ち誇った顔をしている。万策尽きたかと思われたが秋穂がここでトドメの言葉を放った。
「分かりました。確かに、千春姉さんが入浴の補助をしたいたことを証明するのは無理です。
じゃあ、千春姉さん。教えてください、楓君の(自主規制)がどれぐらいの大きさだったのかを」
秋穂は勝ちを確信した。何故なら、千春が絶対に楓の裸を見ていないと言い切れるからだ。理由は簡単で千春は父親以外の異性の裸を見ることができないからである。確かに、昨日楓を風呂に入れたのは千春で間違いない。しかし、異性の体を見ることが出来ない千春は自分で目隠しをして楓を風呂に入れていた。
なぜ、このことを秋穂が知っているのかというと、昔、千春が手伝いをした介護施設の職員から教えてもらったからだ。
そのことを知らない千春は頬をかなり赤らめながら両手で幅を作った。
「え、えっと、こ、これ、くらいかなー」
その作られた幅を見て、その場にいた全員は大きな口を開けた。何故かと言うと、その幅は余りにもデカすぎる。
普通、そういうのは人差し指と親指の幅程度で表すものではないのかと皆は思った。
「ちょ、ちょっと、千春さん! それは余りにも誇張し過ぎです! それ、サンマぐらいありますよ!
こっちの身にもなってください!!」
楓は遅すぎるツッコミをした。楓も恥ずかしさのあまり頬を赤らめている。
「へっ? そ、そうなの?
ま、まぁ、そうね。冗談。冗談に決まっているだろ」
千春はそう言うと幅を狭め、缶コーヒーほどの幅にした。
楓は諦めてため息をついた。秋穂と美冬利も同じような反応だった。だが、夏樹だけは違った。
「な、な、なんだって。
ちょっと、いや、かなり見たいかも」
夏樹は生唾を飲み込んでから楓の方を見た。その目は血に飢えた獣と同じ目をしていた。こうなると夏樹を止められる人物は千春しかいないと思った楓は夏樹の後ろにいる千春に目をやった。しかし、千春はこちらを気に留める様子も無く、ただひたすら、見てもいない楓の(自主規制)の大きさを手で表しては、あーでもない、こーでもないと呟いていた。
あぁ、このまま身ぐるみを剥がされて色々されるのだろうな。神様、助けてください。と、今まで祈ったこともない神様に楓は祈りを捧げた。
その祈りも空しく夏樹は恐ろしい目をしながらゆっくりと近付いてくる。広い家とは言っても食卓まで広いわけではないので、あっという間に隅に追いつめられる。
「ふっふっふっ、もう逃げられないよ~」
もうダメだ。楓は固く目を瞑った。
しかし、一向に襲ってくる様子はない。神様に祈りが届いたのだろうかと思い、楓は恐る恐る目を開けた。
目の前には夏樹が立っているのだが、視線は楓の方にはなく、明後日の方を向いている。夏樹だけではない。皆、同じ方向を睨みつけている。
楓は状況を理解した。どうやら、鬼が出たらしい。楓自身には何も感じないのだが、状況がそう物語っていた。
「…四体か」
さっきまで惚けていた千春はいつも通りの顔に戻り小さく呟いた。
「数は同じだけど、力が弱いから『奴ら』じゃなさそうだね」
「えぇ、でも、油断は出来ません」
「よし。じゃあ、出発しようぜ」
各々、やる気に満ち溢れている。楓は置いてけぼりを食らった気分になった。まぁ実際その通りなのだけれども。一人だけ、武鬼は使えない。それに鬼人の力をコントロールする特訓も今日から始めたばかりなので戦えるはずがない。
「そ、それじゃ、僕は留守番してますので、気を付けてください」
「は? 何言ってんだ? 楓も一緒に来い」
千春の発言に楓の目は点になった。
「い、いや、ぼ、僕が行っても何もできないですよ? 絶対、みんなの足を引っ張るだけですし…」
「知ってるよ。誰もお前に鬼を倒してくれなんて言って無いし、そもそも期待してない」
「じゃあ、どうして」
「言葉で説明するよりも自分の目で見て、経験した方が楓の刺激にもなる。
これは楓の成長にも必要なものだと私は思う。まぁ、行く行かないは自分で決めろよ。留守番するなら皿洗いぐらいはしといてくれ」
楓は少し考えて「行きます」と答えた。
「よし、じゃあ、すぐ出発するぞ」
そう言って千春たちは家を飛び出した。