23 契約
「婚約なんて、ただの契約だろう」
心が急激に冷えて、目の前が暗くなっていく。
「・・・・・・それ、は・・・」
契約と言われて、忘れていた・・・否、忘れようとしていた事を思い出させられた。
『自分に好意を持つ子を婚約者にしたら面倒だろう、色々と。その点リリアは僕に興味がない、それどころか婚約したくないとすら言うからね。適任だと思ったんだよ』
そう言っていた、婚約したばかりの幼い頃のルークが脳裏に浮かぶ。
・・・そうだ、私と彼の婚約だって、私が利用されているだけの──“契約”だったじゃないか。
「利害の一致で結ぶ契約だろう。その相手を────」
こちらの様子をようやく見たロイが、ギョッとして目を見開いた。
「リリアーナ嬢、どうした?」
「え・・・」
「酷い顔色だぞ」
そう言われてハッとする。
「そんなこと、ありませんわ」
私はすう、と深呼吸をして、真っ直ぐ前を見た。
「確かに、そうですね。私と彼の婚約もそういったものだった事は否定しません。・・・ですが」
ぎゅっと拳を握りしめて、声が震えないように己を落ち着かせて。
「少なくとも私は、彼から逃げる事など出来ませんわ」
断れるのなら、逃げられるのなら、そんなことはとっくにやっていたはずだ。
婚約を結ぶのだって断っていただろうし、血濡れた彼を見た時にとっくに逃げている。
それをしなかったのは・・・出来なかったのは。
「思っていた以上に私は、ルークが大切なようですので」
彼を思うと、冷たかった心が暖まる。ロイはその言葉に何も返さなかった。そろそろ頃合だと思い、私は退出しようと立ち上がる。
「・・・っ、待──」
「そろそろ夕食の時間ですので、失礼致します」
なにか言おうとしたロイを制して出口へ向かう。無礼だが、ここには二人しかいないので多少はいいだろう。それに、これ以上冷静でいられる気がしなかった。
口を引き結んで扉を開けた時だった。
「っ!リリア!」
「!?」
目の前に、今まさに扉を開けようとしていたルークがいた。
「ルーク!どうしてここを・・・!」
「ニーナ嬢から聞いたんだ。リリアがロイに呼び出されたって」
「ニーナが・・・」
寮に帰ったとばかり思っていたが、まさかルークに報告するとは。ニーナの行動力を少し侮っていた。
(あまり、ここには来て欲しくなかったのだけど・・・・・・、っ!?)
ルークから視線を外そうとして、グイと顔を上げられた。
「酷い顔色じゃないか。・・・ねぇ、何か言われたの?」
「・・・っ!」
スゥ、と細められた瞳が怖い。ここで頷く訳にもいかない内容だし、否定したい。しかしそれをルークが、彼の瞳が許さない。
「な、なんでも、ないわ!」
必死にその手に、瞳に抵抗して彼を押しのける。すると、驚く程に彼は簡単に離れた。
「し、しばらく放っておいて・・・!」
私はそう言い残して、駆け足でその場を去った。
*
「・・・お前、リリアに何を言ったんだ?」
リリアが走り去った廊下を見つめながら、俺は弟に問う。弟は不愉快そうに俺を見る。
「大したことは言っていない」
「じゃあ、あの表情の原因はなんだって言うんだ?」
切羽詰まったような、まるで刃物で切りつけられたみたいな、悲しくて痛々しい表情。あんなリリアは見た事がなかった。彼女はいつもハツラツとしていて、真っ直ぐでお人好しで、鈍感だ。鈍感でオマケに鈍感、・・・・・・私怨が混ざりすぎた。まあとにかく、とても暖かくて優しい女の子だ。俺は、彼女に血に染った暗闇から手を取られて引っ張られて、救われた。そんな子が、あんな表情をするなんて。
「・・・・・・契約だと言ったら、顔色が変わったんだ」
「契約?」
弟は考えるようにして言う。
「婚約は契約だと。利害の一致で結ぶものだとな。だが、間違ってはいないだろう?俺も兄上も王族だし、向こうだって貴族だ。よくある話だろう」
意味がわからない、と彼は言う。
(ロイに婚約は契約だと言われて、あんな表情に・・・?)
少し考えて、まさか、と思い当たった。
「・・・・・・ロイ、余計なことをしてくれたね。相変わらずお前は愚弟だよ」
「俺だってあんたと関わりたくなんてない。顔を合わせるだけで不愉快だ。そもそも文句なら玉座でふんぞり返っているあいつらに言え」
「そうしたいけれど、俺の立場では中々ね。・・・とにかく、これ以上俺の婚約者と接触するな。彼女はお前が関わっていい存在じゃないんだよ」
視線で威嚇をすると、弟は不敵に笑った。
「それはどうだかな。あいつには興味がある。今の一件で更に面白い存在になった」
「婚約者がいる身でよく言えるね」
「アレは正しく契約によるものだ」
こんなやり取りをしていても埒が明かないと判断した俺は、無言でその場を立ち去った。走り去ってしまったリリアを探すために。
「そこにいるんだろう、兄上の“番犬”」
「あらら、見つかっちゃってた〜?さすがはロイ殿下ですね〜」
ルークが去ってから、ロイは後ろに話しかけた。
「よく言う。本気で隠れる気もなかったくせにな」
「・・・・・・」
陰に隠れていたサイラスは、いつもの表情を消して真顔になった。
「これ以上、ルークの婚約者にむやみに近づくのはおやめください。俺は、彼の──彼らの為になら、貴方だってどうにでもできる。二人は俺にとって、全てを捨ててもいいと思える存在だ。貴方は清らかなあの子にとっては、ただの毒だ」
サイラスは殺気を隠しもせずに告げる。ロイはその様子を見て、またしても不敵に笑った。
「貴様にそこまで言わせる存在なのか、アレは」
「あの二人は俺の“黒き星”・・・。その意味、王族の貴方なら分かりますよね」
赤い血の色をした瞳がぎらりと不気味に光る。ロイはそうだな、と短く返事をすると、寮のある方向へ足を向けた。それと同時に、サイラスの気配が消える。一人きりになった廊下で、ロイは口角を上げて呟いた。
「ますます興味深いな、リリアーナ嬢という存在は・・・」
夕焼けが段々と、夜空に変わる。どこまでも暗く、キラリと光る星がある空になっていった。