つかれる
山田事務長のデスクの上で、内線電話が鳴った。電話を取った事務長は、私の方をちらちら見ながら話している。
何だろう?
事務長は受話器を置くと、手招きで私を呼んだ。
「二階の受付、手伝いに行けるか」
「あ、はい、大丈夫ですけど」
何を手伝うんだろ。今日は特にこれといったイベントは無かったはずだ。
「今の電話、館長からなんだけどね。酒井さん、体調悪そうだから帰すって」
そう言えば今朝、更衣室ですれ違った酒井さんは、いつものきれいな巻き髪が伸び気味だった。
「わかりました」
私は机の上をザッと片付け、膝掛けを手にすると、二階へ向かった。
途中、廊下で酒井さんに会った。
よく見るとヘアスタイルだけじゃなく、メイクもいつもより手抜きだ。マスカラだけの目の下には、くっきりはっきりと、クマが存在する。顔色も良くない。
「あの、大丈夫ですか?熱は?」
酒井さんは弱々しく首を振った。
「ここ二、三日眠れてないの。イヤな夢を見るのよ。両手で、誰かの首を締めてて、締めてるの私なのに、すごく苦しくて、目が覚めて」
確かに、いやな夢だ。
「ゆっくり休んでくださいね」
困ったような笑みを浮かべて帰って行く酒井さんを見送り、二階へ上がった。
***
「酒井さん、つかれちゃったかねえ」
穏やかな口調で、高橋館長が言った。手に持った湯呑みからは、湯気が立っている。入ってるのは梅昆布茶だ。
「疲れがたまってるんですかね」
私のマグカップからも、梅昆布茶の湯気が立つ。
すると館長が、驚いたように目を見開いた。
「何言ってるの。浜本さんも、似た体験したんじゃなかったっけ」
そう言うと湯呑みを置いて、メモ用紙にサラサラと『憑かれる』と書いた。
「聞いたよ。公園の柵を乗り越えた後の記憶、無かったんでしょう」
いや、あの、そうなんなんですけど。
あれ?
「憑かれるって、それ、普通のことなんですか」
「たまに有るかなあ」
へ?
「変な音聞こえたり、変な物見たりもするよ」
はい?
「ここは南向いて建ってるのに、何だか暗いよね。古いせいもあると思うけど、北側にすぐ山があるから、空気が流れなくて、淀んでるんだろうね」
え?
「そういや、山の上の城から、妙な気が下りてきてると言う人もいたね」
そんな、今日は良い天気だね、みたいに言われても。
あ。
だからか。
――人柱にされた女性が、自分の身代わり探してるような気がしたんです。――
私がそう話したとき、矢野先輩が変な顔せずに、普通に相手してくれたのは。
でも、そういうことだったら……。
「あの、三階にいわく付きの茶碗が来てるって聞いたんですけど」
「いわく付き?」
「詳しくは知らないんです。ただ酒井さん、この間その茶碗をすごく熱心に見てたから。あの、何か、関係有りますか?」
「茶碗は、確か一つだけだったね」
こくんと頷く。
館長はしばらく考えて、梅昆布茶を一口すすってから言った。
「ここ、お願いするよ。わたしは奥にいるから、何かあったら呼びなさい」
呼びなさいと言われても、今日は来館者も少ないし、普段ここで何やってるかも知らないし、ただただ時間が過ぎるのを待っているだけだ。
デスクの上を片づけたり、数少ない来館者の応対をする以外、何をしていいかわからない。
あ、あの辺、掃除しよ。
拭き清めたら、淀んだ空気が多少どうにかなるかもしれない。風水の基本は掃除からって聞いた事あるし。風水、関係有るのかどうかは、わからないけど。
雑巾を探しに奥の部屋を覗いたら、部屋の隅に、バケツの縁に引っかけた、かわいいゴム手袋とマイクロファイバーの雑巾を見つけた。酒井さん、ひょっとして私と同じ事考えたのかな。
それにしても、どうしてあの時、水野君に茶碗の話をちゃんと聞かなかったんだろう。
マイクロファイバーで、思いつく限りの場所を拭きながら思う。案の定、あまり汚れていない。
水野君の連絡先、知ってたっけ。
確か新人研修の時、最終日にラインを交換したような気が。
終業時刻まであと十五分、館長に「もうここはいいよ」と言われるやいなや、小走りで一階の事務所に戻って、デスクの引き出しからスマホを取り出した。
水野。水野。水野裕樹。これだ。
「珍しいな。お前がスマホいじってるの」
矢野先輩が声をかけてきた。
「そうですね」
適当に相づちを打ち、手元に集中する。
『この間は会いに来てくれてありがとう。いわく付きの茶碗のこと知りたいんたけど』
送信と。でもこれは、さすがに愛想、無さ過ぎかな。
パンダのスタンプ、追加と。
「で、先輩、何か言いました?」
「おい、こら」
「紗那ちゃん、彼氏でもできた~?」
佐藤さんが、嬉しそうに声をかけてきた。
「残念ながら、できてません。でも、相手は一応、男性ですよ」
とその時、終業のチャイムが鳴った。
「え、あれ。まだ終わってなかった」
「そうよお~。そんなに急いで連絡する相手って、どこの誰かしらねえ~。じゃ、お疲れっ」
と言うと、更に嬉しそうに事務所から出て行った。男性って言ってしまったの、余計だったかも。
「僕も今日は帰るかな。戸締まり頼むよ」
事務長も出て行った。
「あの……、私も帰っていいですか」
ほんのちょっとだけ顔色を伺いながら、先輩に訊く。
この場合、戸締まり役は私のような気がするけど、今は水野君の話が気になる。さっさと帰りたい。
「帰れ帰れ」
野良猫を追い払うかのように、手を振られた。
ぐるぐる巻きのマフラーに顎をうずめ、コートのポケットに入れたスマホを握りしめて門を出たところで、スマホが震えた。
電話、水野君だ。
門の内側に戻って、電話に出る。
「はい」
返事と一緒に出た息が白い。
「びっくりしたよ。浜本さんから、ラインって。今、大丈夫?」
「うん」
この際、寒いのは我慢する。好奇心が寒さを越えた。
「何が知りたいの?」
「全部。水野君が知ってること、全部教えて」
すると水野君は、K市にある鵺の伝承から教えてくれた。そして、茶碗の鵺の作者がK市出身であること、奥さんともめていたこと――。
思ったより長くなりそうな電話中に、目の前を先輩が横切った。戸締まり、終わったんだな。
話しながら軽く会釈する。
先輩は、一瞬立ち止まり視線を寄越し、門から出て行った。
が、すぐに戻って来て、目の前に小さいペットボトルをぶら下げた。それをポケットに入れていた左手で、受け取る。
あ、紅茶だ。
あったか……え、何。
「自殺!?」
思わず大きな声が出てしまう。立ち去りかけてた先輩が、足を止めた。
「浜本さん、声、でかい」
と水野君。
「ご、ごめん。でも、自殺って」
「未遂だよ、自殺未遂。僕も確認したわけじゃないからね」
「うん」
「何か有ったの?」
「さあ……でも、たぶん、何か起こってる」
「ふうん。まあ、気をつけてね」
「うん。ありがと。じゃあね」
ポケットにスマホを戻すと、両手でペットボトルを包んだ。あったかい。
「ありがとうございます。これ」
眉間にしわ寄せて見下ろしてくる先輩に、両手で持ち上げてお礼を言う。
「何でこんな所で電話してんだ?」
「電話かかってきて、思ってたより長くなって」
「自殺って何だよ。余計なことに首突っ込んでんじゃないだろうな」
「それは大丈夫ですよ。高橋館長、知ってるし」
「突っ込んでんのかよ」
えっと。
「話を聞いただけなので、突っ込んで無いと思いますし、突っ込む気もありません」
自殺者がいるかもしれないなんてなんか怖いし、そもそも首を突っ込むにも、どう突っ込んでよいのかがわからない。
酒井さん、本当に憑かれてるんだろうか。憑かれてるんだったら、話を聞いた私はどうすれば良いんだろう。
「矢野先輩。少しつき合ってもらえませんか。今聞いた話、先輩はどう思うか、教えてください」
私の話を真面目に聞いてくれる、一番身近な人に、とりあえず話してみよう。