いわく付きの茶碗
職場の通用口から入って、薄暗い廊下を進むと、左手に窓もエアコンもない更衣室がある。
コートを置きに来ただけて着替えないから良いけど、エアコンが無いのは、寒いのが苦手な私にはちょっと辛い。
趣のある古い建物は嫌いじゃないけど、設備面では、新しい建物が羨ましい。
「冷た」
古い金属のドアノブもロッカーも、キンキンに冷えている。
両手を擦りながら更衣室から出ようとすると、今日も『ザ、女子』な装いの酒井さんが入ってきた。
「おはようございます」
「おはよー」
と言いながら、指先でラインストーンが光ってる手で私の両肩を掴み、冷えたロッカーに押し付けた。冷たいってば。
「浜本さん、矢野君とつき合ってるの?」
酒井さん、目が怖い。
「つき合ってませんよ」
「女子社員のラインで、噂になってるわよ」
「じゃあ、別れたということで」
「何それ」
先週の忘年会で、酔っ払った男性社員に絡まれていたところを、矢野先輩に助けてもらった。その時、つき合っていると誤解されたが、その場はその方が都合が良かったので、訂正しなかっただけだ。
「あ~あの二人、確かにしつこかったわね。じゃ、訂正しとくね」
肩から手が離れた。背中、冷えちゃったよ。
「お願いします。酒井さんは、女子社員のライングループ、入ってるんですね」
「面倒だけど、付き合いの一つかな。紹介しよっか?」
「面倒なのでいいです」
「言うと思った」
***
「あー来た来た。浜本、三階の西の部屋の鍵、開けてきてくれ」
事務所に入るなり、挨拶もなしに山田事務長に言われた。
「十時から搬入だから、空気入れ換えといて。」
そう言うと、アンティークショップに並んでそうな真鍮の鍵と、今風な丸い溝が刻まれたシルバーの鍵のセットを渡された。
空気の入れ換え、さむっ。せめて、ロッカーで冷やされた背中が温まってから行きたいな。でも、ダメだろうな。
仕方なく、椅子の背もたれに引っかけたままにしていたフリースのカーディガンを羽織って、暖かい事務所を出た。
まだ人の少ない時間だし、たまには正面玄関から中央階段を上ってみるのも良いかなと、裏階段で二階に上がってから正面に回った。
失敗したかな、ここも、さむっ。
そういえば、正面玄関は基本開けっ放しだった。大きな木製の扉は、自動ドアにはできないらしい。
するとそこで、見知った顔を見つけた。
「おはよー。久しぶり」
相手は、ヒラヒラと手を振ってきた。ベージュのコートの袖口からわずかにのぞく手首が、男性にしては白くて華奢で、寒そうだ。
「おはよ。こんな所で、何してるの?」
「今日、搬入あるよね。見に来た」
「わざわざ?」
「わざわざって程でもないかな。僕、実家こっちだし、忘年会も出てたんだよ」
「それは、知ってる」
だって、声かけようと思ったから。
「これから、その部屋、開けに行くんだけど」
「一緒に行っていい?」
「もちろん」
二人で、石造りの大きな階段を上る。人の行き来で、百年以上踏まれ続けた真ん中の方は、少し窪んでいる。
踊り場にある、ステンドグラスがはめ込まれた窓は、日が射し込まないからキラキラはしないけど、厳かな空間を作り出すのには充分だ。
彼はそんな内装が珍しいのか、周囲を見回しながらゆっくりと階段を上る。私は彼、水野君が躓かないかを気にしながら、後ろから着いて上った。
水野君の雰囲気は、この空間にぴったりだ。
そんなに身長は高くないはずなのに、頭が小さいせいか、実際よりも高く見え、ほっそりと色白なせいか、少し中性的な感じがする。
身につけている物は、ありふれたステンカラーのコートとチェックのマフラーなのに、レトロな空間に溶け込んで、絵画みたいだ。
水野君とは、新人研修の時に知り合った。歳は一つ上で、同じ高校だった事がわかってからは、無愛想で人見知りな私に、よく声をかけてくれた。
確か、ここから車で二時間ほどの所にある、美術館か博物館にいるはずだ。
「ちょっと気になる茶碗が有るんだよね」
「茶碗?そういうのに、興味が有るの」
「無かったけど、美術館いるとね。噂なんだけど、いわく付きのが来るらしいよ」
「いわく付き……」
私は少し前に起こった、二の丸公園での事件を思い出していた。あれからは、今のところ何も起きていない。
壊された石像の代わりを作ってもらって、お祓いをしたからか、それとも恨んでいた婚約者(の代わりの変態先生)に仕返しができたからかは、わからない。
「でも今回の展示って、現代の名工じゃなかったっけ。それでいわく付きって……」
話しながら、二つの鍵を開け、扉を開けた。
「うわぁ。部屋の中もいい感じだね」
水野君が感嘆の声をあげた。
ビロードの重たいカーテン、それを止めるカーテンタッセルには、金の房が揺れる。壁のブラケットランプは、花びらのように縁が波打つ磨りガラスだ。
「窓、開けようか?」
「うん、寒いからちょっとだけ。なんかカビ臭いから」
窓を開けるのはお任せして、暖まるのに少し時間のかかる暖房を付けて、軽く掃除する事にした。搬入で汚れそうな気もするから、本当に軽~く。
その後、近況報告をし合いながら、掃除をしたり、開けたばかりの窓をまた閉めたりしてると、矢野先輩が現れた。
入口のドアに手をかけて、顔だけのぞかせる。うん、今日も爽やかイケメンだ。
「浜本、業者着いたぞー。って、誰、そいつ」
初対面の人に、そいつは無いと思いますが。
「同期の水野君です。気になる作品が有るそうです」
「はじめまして。K市美術館の水野です」
「まだしばらく、見れないぞ」
「みたいですね。今日はもう時間無いから、また今度ゆっくり来ますよ」
そう言うとにっこり笑ってこっちを見た。
「目的二つは果たせたしね」
目的?
「ここ。旧本館見てみたかったのと、このあいだ話せなかったでしょ。浜本さんの顔見てから、帰ろうと思って」
ふうん。
「それはまた……わざわざ、ありがとう」
水野君は、どういたしまして代わりにふんわりと微笑むと「失礼します」と先輩には深々と頭を下げ、私にはまたヒラヒラと手を振って、帰って行った。
先輩は、そんな水野君の後ろ姿を訝しげな顔で見送りながら、部屋に入ってきた。
「あいつ、親しいの」
「えーっと、普通、かな」
「お前の普通って、貴重だよな」
「……そう、ですね」
***
夕方、仕事が一段落したところで、『いわく付きの茶碗』を思い出し、見て帰る事にした。
鍵、開いてるかな。事務所に無かったんだけど。
三階に上がると、非常灯だけの薄暗い部屋に先客がいた。一つの作品を、微動だにせず眺めている。
「酒井さん?」
壁のスイッチを触って、ライトを付ける。
ビクッとして、酒井さんが振り返った。
「びっくりしたぁ。」
と言って、ほうっと息を吐く。
「びっくりしたのはこっちですよ。こんな暗いところで」
「ごめん、ごめん。内閣総理大臣賞見てたらつい、ね。見るの?」
「はい」
「じゃ、鍵お願い。お疲れさま」
そう言うと、二本組の鍵を置いて、出て行った。
内閣総理大臣賞、そんなに良かったんだろうか?
私は真っ先に、酒井さんが見ていた作品に近づいた。
オレンジ色に近い茶色に、素人には何だかよくわからない、黒い模様が横たわる。見ていると、心の中をざらりとした舌で舐められたみたいな気持ち悪さが漂い、禍々しささえ感じる。
その作品のタイトルは『鵺』茶碗だった。