ご褒美
私はちょっとだけ浮かれていた。
今日の社会科見学は、前回に比べると結構良かったのでは、と思う。お通夜にならなかったし、様子を見に来てくれた事務長にも「良かったんじゃないか。」と言ってもらえた。
うん、しばらくはこの設定でいこう。
でも、慣れないことをしたせいか、いつもより疲れた。晩御飯は、簡単にすまそう。あと三十分もすれば、デパ地下のお惣菜が安くなるから、おかずは買って帰って、ご飯だけ炊こうかな。
そんな事を考えながら、通用口に向かっていたら、廊下の隅で、酒井さんと矢野先輩が立ち話をしていた。こちらに背を向けて立っている先輩の向こうに、頬をほんのりと染めて、ピンク色のオーラを放つ酒井さんがいる。
「このあいだ、イタリアンの美味しいお店見つけたのっ。矢野君、イタリアンは好き?」
これは、挨拶しない方が良いな。
ただ、その脇を通らないと外に出られないから、会釈だけして、こっそりと通り過ぎようとした。
が、気配を消せてなかったか。先輩が振り向いた。
「あ、待て。話がある」
私はありません、と言いたかったが、先輩の行動は素早かった。「悪い、また今度」と会話を終わらせ、こっちに近寄ってきた。
彼女の視線が痛い……。
「えっと、私、今日は疲れてるんで、話は来週にしてもらえますか。この後、用事も有りますし」
デパ地下に行くという用事が。
「どうせ、大した用事じゃないだろ」
と小声で言うと、酒井さんの方を振り返って「お疲れさま」と特上の笑顔を振りまいた。
途端に、固かった彼女の表情が、ふわっとほどけた。
イケメンの笑顔の威力、ハンパない。
とりあえずは、そのまま連れ立って外に出る。門も出て、周りに知り合いが誰もいないことを確認してから、言った。
「断るためのダシに、私を使わないでください」
「あれ、もしかして、本当に用事があるのか?」
「いえ、それは大したことないですけど」
「週末なのに、悲しいな」
大きなお世話だ。
「もういいですよね。お疲れさまでした」
「飯、食いに行くぞ」
今の、聞こえなかったのかな。
「行きませんよ。今月、ちょっとピンチなんです」
「奢りだ」
「奢ってもらう理由がありません」
先輩が溜め息をついた。
「浜本……お前、事務長達に言われただろ。そこはにっこり笑って、ありがとうございますだろう」
あー、そう言えば、そんな事も有ったっけ。
でも……
「かき氷と晩ご飯では、お値段がずいぶん違います」
「そんなに高い店に、行かなかければいいんだろ」
……。
「えっと、じゃ、ご馳走になりま、す?」
「何で、疑問形なんだ」
先輩は、またひとつ、溜め息をついた。
***
連れて行かれたのは、半地下にある、間接照明のお洒落な居酒屋だった。カウンター以外すべて個室で、座敷に案内された。
生ビールと、主に先輩が選んだメニューでお腹を満たした。あんまり酔うと一人で帰れないかなと思ったけど、見た目の可愛さに負けて、フルーツチューハイを頼んでしまった。
アルコール度数、あんまり高くないみたいだし、きっと大丈夫。
先輩は、既に三杯目のビールだ。
「それで先輩、一応訊きますけど、私に話、無いですよね」
「無くはないな」
「?」
「良くできました」
そう言うと、ちょっとだけ笑って、小さな子供を誉める時のように、頭をポフポフとされた。
「何……でしょう?」
「前より雰囲気良かったんだろ、案内役」
「ええ、まあ」
「あとは、もうちょっと笑顔が出ればな」
「それは結構厳しいですね」
「訓練しろ、訓練。俺の愛想だって訓練の賜物だ」
「そうなんですか?」
あまりにも自然だから、てっきり持って生まれたものだと思ってた。
聞けば、先輩は子供の頃、おデブさんだったらしい。
「暗いデブって、いじめられがちだろ?だから、明るいデブを目指した」
それが、中学生になってサッカー部に入ったら、成長期と重なった事もあって少しずつ痩せていき、高校を卒業する頃には、愛想のいいイケメンが出来上がったと言うことだ。
話し終わると、先輩は三杯目のビールを飲み干し、スマホを取り出して証拠の画像を見せてくれた。
ちなみに、私のグラスはとっくに空だ。
画像の先輩は、小学校高学年くらいかな、笑顔でピースしている。全体的にふっくらと丸いが、整った顔立ちに面影か有る。
「デブって程じゃ無いと思いますよぉ。ぽっちゃりさんかなぁ」
あくまでも、私の基準になるけど。
「でも先輩!痩せて良かったですね!」
思わず大きな声が出て、テーブルに乗り出し、目の前にあった先輩の左手を、両手でギュッと握りしめた。
驚いたのか、先輩は一瞬目を見開いて、ちょっと身体を引いた。
「昨今、ぽっちゃりさんは、自己管理ができないとみなされる事だって、あるんですから!」
「ま、まあ、そうだな」
先輩の手を握りしめる両手に、グッと力が入る。
「それに酒井さんだって、ぽっちゃりさんより、今のスリムな先輩の方が、絶対好きなはずです!」
更に両手に力が入り、前のめりになる。
と……。
スルリと先輩の左手が逃げて、私の両手を覆った。
おや?
眉間にシワが、誕生してるぞ?
そして、不機嫌そうに一言。
「何でここで酒井さん……」
酒井さんの名前を出したのは、まずかったのかな。
「えっと、何かよくわからないけど、ごめんなさい」
いちおう、謝ってみる。
「酒井さんと、何かあったんですね」
「無いわっ!」
じゃあ、何が気に入らないんだろう。
「お前は、今の状況を何とも思わないのか?」
先輩が、まっすぐ私の目を見て、真顔で言った。
今の状況。
今の状況。
今の状況を客観的に見てみよう。
週末、ここはおシャレ居酒屋の個室。
イケメンといつもよりちょっとおめかしした女子が、二人っきりで見つめ合い、手を重ねている。
ってことになるの、かな?
あれ?
あれ??
あれ???
改めて考えてみると、これはちょっとおかしいぞ。
何で、こんな事になっている。
目を逸らすことが出来ないまま、うろたえ始めた私を見て、あろう事か先輩が、撒き餌……もとい笑顔を放った。
「わっ、私に愛想振りまいても、何も良いことなんか、ありませんよ」
「そうか?けっこう楽しいぞ」
肘を付いた右手に顎を乗せた先輩の口角が、ちょっと意地悪そうに持ち上がった。そんな顔もサマになって眩しいって、どういう事だ。
えっと、どうしたらいいのかな。
とりあえず、視線を外して、手を離せば。
私は両手を引いたが、先輩の左手に力が入り、左手しか取り戻す事ができない。右手はがっちりと掴まれてしまった。
心拍数が、上昇する。頬が熱いのも、アルコールのせいだけではないような気がする。
そうだ。店員さんを呼ぼう。
「せ、先輩。食後のデザートが食べたいです」
先輩は何も言わず、空いている右手でメニューを広げた。選べということか。
が、手を握られたまま、特上の笑顔を向けられたままでは、メニューになかなか集中できない。
ちらっと先輩を見ると、本当に楽しそうに見えた。
酔ってるな。そうだ、酔ってるんだ。
まあ、良いか。ご馳走してくれる相手がご機嫌なのは、良いことだ。
私は、期間限定の和栗のアイスクリームを選び、空いている左手で、店員さんを呼ぶためのコールボタンを押した。
が、店員さんが注文を取りに来ても先輩は微動だにせず、やっと解放されたのはアイスが届いたときだった。