香る
今朝、出勤すると、いつもの古臭いようなカビ臭いような臭いはなく、ほんの少し甘めの、さわやかな香りが漂っていた。人工的なトゲの感じられない香りだけど、花屋さんに入ったときのような浮き立った気持ちにならないから、なんとなくいやな予感がしていた。
「私がついて行く必要、あるんですか?」
階段を上りながら、訊く。
「あー、あんたの友達の所よ」
友達?って、思いつくのは一人だけ。
「田村さん、ですか」
「当たり」
「でも、友達っていうぼどでは」
「そう?土曜日、二人で歩いてたの、あんたじゃないの?」
「よく知ってますね……」
「ここは田舎なの。狭いの。知り合いなんか、そこら中にいるわよ」
誰かに見られてたってことか。
あ。
「二階の方が、強いですね、匂い」
「そうなのよ。それで、ちょっとウロウロしてみたらね、あそこの事務所で騒いでたの」
希美さんが、西棟の奥を指す。
いつもは閉められている事務所のドアが開け放たれていて、ちらりと見えた植木鉢の木に、花がたくさんついていたそうだ。そして、それを囲んでいた人達から「この花の開花時期じゃない」とか「三日前まで葉っぱだけだった」とか、聞こえてきたらしい。
「もしかして、先週見た植木かなあ」
「たぶん。ジャムもらった日に、運んでたやつだと思う」
あのジャムは、事務長が「頑張った若者達で分けなさい」と言ってくれたので、希美さんと先輩と三人で分けた。
田村さんがいる事務所に着くと、まだドアは開けられたままだった。閉めてしまったら、匂いがこもって強すぎるんだろうな。
「あの、失礼します」
希美さんと二人で事務所を覗くと、入口近くの席の女性がこちらを向いた。
「何でしょう」
歳は三十前後といったところだろうか。顔立ちはきれいだし、口角は上がってるんだけど、顔色が優れないせいか、陰気な感じがする。
と、彼女の後ろで電話中だった田村さんが、私達に気がついた。受話器を顔から離すと
「少し待ってて」
と私達と植木鉢を交互に見た。何で来たのか、察したようだ。
廊下で待っていると、ほどなくして田村さんが出てきた。
「いやあ、すみません。まさかこんな事になるとは……」
本当に申し訳なさそうに言う。
「彼女が、この匂いは先週田村さんが運んでた植木じゃないかって」
「あ、受付の」
「ジャム、私もいただきました。ありがとうございます」
「いえ、どういたしまして」
「それで、あの木は梅ですか?」
「違いますね。よく似てるけど、杏です」
「へえ、杏ってあんな花が咲くんだ」
「そもそも杏の花は、そんなに香りが強くないんです。開花時期も梅と同じぐらいだし。ただの苗木だと思って、よく考えずに持ってきてしまいました」
「匂いだけだったら、問題ないと思うんだけどな」
希美さんに向かって言う。
「まあね、普段の古臭い臭いよりは良いわよね。でも、本来はこんなに香り強くないんでしょ。何かあるんじゃないの?」
「そこなんです。幼なじみに連絡取って、あの木について訊いてみますよ」
と言った田村さんだったが、一週間経っても、あの杏の木についての情報は持って来なかった。何度か館内で見かけたけど、いつも忙しそうで、かなり残業もしていると聞き、声をかけるのは躊躇われた。
「なんか、この匂いにも、慣れちゃいましたね」
脚立の上の友哉先輩に、電球を渡しながら言った。
「あの花、そろそろ枯れるんじゃないか?」
私達の声と電球を回す音が、誰もいない廊下に響く。
「そうですよね、普通枯れますよね。でもなぜか、元気なんです」
「よく知ってるな」
あれ。先輩の声に、若干トゲが有るように感じるのは、気のせいかな?
「廊下に出してますよ。事務所内に置いて、ドア開けっ放しじゃエアコン効かないし、かと言って、田村さんが持って帰って枯らすのも怖いとかで」
「ほんとによく知ってるな」
やっぱり、ちょっとトゲがある。
もしかして、田村さんと歩いてたの、耳に入っちゃったかな。別に疾しいことはしていないんだけど。
「見に行きましょうか」
「あ、ちょっと待て」
慌てて脚立を下りてたたみだした先輩を待たず、灰色になった電球を片手に二階へ向かった。
二階の廊下では、白い可憐な花を付けた小さな杏の木が、寂しく放置されていた。土は黒く湿っているから、水はもらってるみたいだ。鉢の下には、受け皿も敷いてもらっている。
「おい、置いていくなよ。この脚立、結構重いんだぞ」
先輩は、自分の身長くらいある大きな脚立を倒して壁に立てかけ、植木鉢の前にしゃがんだ。
「きれいに咲いても、ここじゃ誰も見てくれなさそうだな」
「ですよね。でも、見てもらうために咲いてるのかな」
私も、先輩の隣にしゃがんだ。
「じゃあ何で咲いてんだよ」
「何ででしょう?」
二人して、杏を見つめて黙り込む。
なんとなく黙ったままでいると、すぐそばの事務所が、やけに賑やかなことに気づいた。いつもは、もっと静かだと思ったんだけど。
「何かあったのかな」
「最近、ここの人達、忙しそうだよな」
少し事務所寄りに移動して、しばらく二人で聞き耳を立てていると、どうやら臨時で監査が入ることが分かった。
そうか、それで田村さん、忙しかったんだ。でも、臨時って、どういうことなんだろう?
「田村さん待ってても、いつになるかわからないな」
「そうですね」
「今日暇だし、ググってみるかな」
そう言って、のろのろと立ち上がり、脚立を抱えた。
一階の事務所に戻ると、先輩は早速パソコンの前に陣取った。
「あの木を送ってきた人って、どこに住んでんだ?」
「U市」
即答すると、一瞬、先輩が固まったような気がしたが、すぐにキーボードを叩きはじめた。
「U市、杏……、うーん、市の花っていうのは出てくるけど……」
「何を探してるのかな」
デスクに片肘をついた事務長が訊ねてきたので、忙しそうな田村さんに代わって、杏の事を調べていると説明した。
「U市って、南のはずれだね。市町村合併で、周りの市や村と一緒になって、一番大きかったU市の名前がついたんじゃなかったかなあ」
「古い市町村名、入れてみたら?」
佐藤さんも、加わってきた。今日、みんな暇なんだ。
二つ目の町名で、とある小さな寺について書かれた、古い個人のブログ記事がヒットした。
その記事によると、寺には何本か杏の木が植えてあって、中には樹齢二百年を超える木もあるようだった。更には、その杏の木にまつわる話が伝わっていると書かれていたが、肝心のその内容が無い。所々文字が消えかけた看板の、ぼやけた画像が有るだけだ。
「この内容が知りたいな」
画像を目一杯拡大させながら、先輩が言った。画像の質があまり良くないせいもあり、ほとんど読めない。
「そうですね。電話して、聞きますか?お寺の名前は分かったわけだし」
すると、佐藤さんが不満の声を上げた。
「えー、それじゃあ面白く無いでしょう」
事務長が、それに続く。
「そうそう、明日休みなんだからさ、行ってその看板見てきた方が、絶対面白いって」
面白さ、必要なんだろうか。
先輩と顔を見合わせ
「行くか」
「行きましょうか」
どちらが先でもなく、呟いた。




