甘い、甘い
ゆっくり目の更新となりますが、どうぞお付き合いくださいませ。
日傘をさして、来客用のお茶が入ったレジ袋をブラブラさせながら勤務先の門をくぐると、正面玄関脇の植え込みの陰に、見たことのある人を見つけた。長身の背中をこちらに向けて丸め、植木鉢の木にホースで水をやりながら、葉をむしっている。
「こんにちは、お疲れ様です」
「うわっ」
植物の手入れに集中していたのか、背中の主はビクッとしてから振り向いた。
「あ、ああ、お疲れ様です」
目を細め、人なつっこい笑みで挨拶を返してくれたのは、田村さんだ。タペストリーから、歌うような声が聞こえると言ってきた人で、あれ以来、挨拶くらいは交わすようになっている。
「ごめんなさい。驚かせたみたいですね」
「いや、大丈夫ですよ。おつかいですか」
蛇口を閉めながら、私の手元に目をやって言う。
「はい。田村さんは何を?」
「これね、幼なじみが送ってきてくれたんだけど、家だと水やりを忘れるんですよ」
観葉植物かな?それにしては無骨な印象の、太股くらいまでの高さがある木は、しっかり水を貰ったみたいで、鉢の周辺のアスファルトが黒く濡れていた。
「事務所が殺風景だから、もうここで育てようと思って、持ってきたんです。ヨイショと」
かけ声とともに植木鉢を持ち上げ、受け皿代わりなのか、何枚か重ねてあるビニール袋に入れた。そのまま、二人で並んで正面玄関から建物の中に入る。
「そういやあれ、どうにかしてくれたんですよね。歌、聞こえなくなりましたよ」
田村さんが、タペストリーを見て言った。
「うーん、どうにかしたのかな。よくわからないんです。でも、聞こえなくなったんだったら、良かったです」
「あ、ここでちょっと待っててもらえますか。すぐ戻ってくるんで」
そう言うと、事務所がある西側の棟に早歩きで消えた。何だろう?
足音がして、田村さんが小走りで戻ってきた。手には小さな紙袋を持っている。
「これ。お礼って訳じゃないけど、たくさん貰ったんでおすそ分けです。杏ジャム、嫌いでなければいいんだけど」
紙袋を持ち上げ、開いてくれたので、覗き込んだ。中には、ラベルも何もない三つのガラス瓶があって、少し果肉の形が残った、オレンジ色のジャムが見えた。
「美味しそう、手作りですか」
「ええ。僕の実家、U市なんですけどね、近所に住む幼なじみがたくさん作ったからって、さっきの植木鉢といっしょに送ってきてくれたんです」
「U市って、県内で杏が穫れるんですか?」
よく行くスーパーで、見かけたことは無い。
「穫れますよ。市の花は杏だし、ここより南にあるけど、地形のせいで気温は低いし。ただ、出荷はしてないですね。産直市にちょっと並ぶ程度かな。どうぞ」
遠慮なく、紙袋を受け取る。瓶が触れ合って、カチカチと小さな音がした。
「これ、添加物とか入ってないから、開封したら早めに食べてくださいね」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げると、「そんな、大げさな」と笑いながら、西棟に戻って行った。
カツカツと、背後からヒールの音が近寄って来た。希美さんだな。
「田村さんとやら、なかなか良いとこついてくるわね」
「良いとこ?」
「ふっふーん、こっちの話。なんか面白くなってきたー」
「それよりこれ、ジャム、どうしましょうか」
「好きに分けたんで良いんじゃない。余るようだったら、ちょうだい。じゃ」
そう言うと、階段裏の方に消えていった。
あ、トイレね。さっさと行ったらいいのに。
***
お休みの日の朝。というか、辛うじて午前中。
昨日、仕事帰りにデパ地下で買った、ちょっと良い角食を軽く焼いて、薄くバターを塗る。バターもいつものより良い、特選バターだ。
杏ジャムの瓶の、ふたの縁にナイフを入れ、少し空気を送り込んでからふたを回した。現れた鮮やかなオレンジ色のジャムを、今使ったナイフで掬うと、大きめの果肉がナイフにしっかり乗っかって、ほかがとろりと垂れ落ちた。
美味しそう。
ジャムをナイフで掬いなおして、トーストの中央にこんもりと乗せてから、トーストの三分の二にのばした。残り三分の一はトーストだけ味わえるようにしておく。
あ、この部分、もっとしっかりバターを塗っとけば良かったかな。もう、いいけど。
お湯が沸いたので、ティーパックを放り込んであったマグカップに、そそぎ入れる。マグカップと、いつもより贅沢なトーストを乗せたお皿をテーブルの上に置き、その前に正座する。
「いただきます」
まずは、バターだけのところから。
サクッ。
良いバターは違うな。生クリームのような乳製品の香りが、口の中に広がる。トーストの内側は、絹のようにきめが細かく、もっちりとねばってから、ちぎれた。ただ柔らかいだけじゃないところが、この角食の売りだ。
それでは、お楽しみのジャム部分。
あー、美味しいっ。杏ジャムって初めて食べたけど、酸味があるせいか、甘さをしっかり感じる割りにくどくない。これ、何枚でもいけそうだ。
でもこれって、脂と糖の組合わせなんだよね。絶対美味しい組み合わせだけど、絶対太る組み合わせでもある……。
まあ、いいか。まだ、なんとか午前中だし。
そう自分に言い聞かせて、私は二枚目のジャムトーストも平らげた。
さて、今日は半幅帯の結び方の練習に費やすつもりだ。
半月ほど前、希美さんに浴衣を着せたとき、帯は貝の口をアレンジした結び方にした。タレを二重にして垂らした、少し可愛い結び方だけど、希美さんにはもっと華やかな方が、似合うように思う。
「近所の美容室で着せてもらったときより、全然可愛いよ~」
と言ってくれたけど、私は満足していない。浴衣も今時の派手な柄だったし。
人に結ぶのと、自分に結ぶのとでは、勝手が違うのはわかってるけど、とにかく新しい結び方を覚えたい。本は買った。ネットで動画もいっぱい見た。
ただ、買い忘れたものがある。三重仮紐だ。華やかな結び方をするためには、必須のアイテムだ。
とりあえず、買い物に出るために、その辺に出しっぱなしにしていた服に着替えた。
一番近くで、確実に売っている場所は、デパートの着物売り場だ。多少、割高かもしれないが、探し回るよりは良いだろうとデパートに行き、購入した。
アーケード街に面した出入り口からデパートを出ると、既に土曜夜市の準備が始まっていた。近くのお店から、机を引っ張り出したり、商品を台車に乗せて運んだりしている。あれは、テキ屋さんかな、派手な幟のようなものも見える。
なんとなく眺めていると、
「こんにちは」
急に声をかけられて驚き、ビクッとして振り向くと、田村さんがいた。
「あ、こ、こんにちは」
「この間と逆ですね」
目を細めて、安心感のある笑みを浮かべる。
「夜市には、まだ早くないですか。待ち合わせ?」
「いえ、一人で寂しく買い物です」
休日につき合ってくれそうな人は、ここには希美さんか友哉先輩ぐらいしかおらず、その二人に用事が有れば、必然的に私は一人で休日を過ごすことになる。
「一人……。あの、少し、時間ありませんか?」
笑顔が少しくもる。
「大丈夫、ですけど?」
何か、困ってるのかな。
「ちょっとだけ、買い物つき合ってもらえませんか。そんなに時間は取らせませんから」
「ああ、そんなことなら。良いですよ」
どうせこのまま帰るだけだ。
「良かった」
田村さんに笑みが戻り、連れ立ってデパートに戻った。
***
「ちょっと来て!あ、浜本さん、お借りします!」
週明け。仕事をしていると、いきなり事務所に入ってきた希美さんに、キーボードを叩いていた腕を掴まれた。
「いや、今仕事中ですよ」
「そんな、入力なんかしてる場合じゃないって」
「希美ちゃん、聞き捨てならないわね」
佐藤さんが眉間にシワを寄せて、窘める。
「そうそう。お姉様がお怒りだぞ」
ぬるい空気を漂わせて言う山田事務長を、佐藤さんがキッと睨みつける。
「でも、みんな気になってますよね。この匂い」
「なってるけど、えー、やっぱりルームフレグランスとか、芳香剤とかじゃ無いんだ……」
「そ。だから来て」
「じゃあ俺が……」
と黙って聞いていた友哉先輩が立ち上がりかけたが、
「矢野君は来ないで。あの辺、女子多いから、来られると面倒」
速攻で希美さんが制した。
えーっと。
「行ってきても、良いですか?」
データを保存し、先輩の様子を横目で窺いつつ、事務長に訊ねる。
「行ってこい。おかしなことが起こってないことを、確認してこい」
「残念!たぶん起こってます」
希美さんがとても楽しそうに応え、スキップでもしそうな足取りで、私を引っ張って廊下に出た。
食を描く、にチャレンジしてみたけど……、うーん……。




