タペストリーとフルーツタルト
夕方六時、を、少し回ったところ。
正面玄関の重い扉は、ついさっき閉じられた。
表通りの交通量はまだまだ多いし、館内にも人は残っているから、音はするけど、昼間ほど賑やかではない。
先輩と二人で、紺絣のタペストリーの前に立つ。ロビーで何かが歌っているとしたら、もうこれしかないだろう。
「歌ってますか?」
「ああ。聞こえない?」
「何にも」
ふとタペストリーの下に目をやると、寄贈のプレートの下に『作品には手をふれないようお願いします』と、ラミネート加工したパソコンの文字が増えていた。
ここ、大人しか来ないから、こんな物無くてもよさそうなのに。
「触りまくる奴、けっこういたのよ」
振り返ると、すっかり帰り支度を整えた希美さんがいた。
「歌が聞こえるんだって?さわったり、めくったり。傷むっつーの」
「これ、西田先生に、返せないのか」
先輩がタペストリーを指差して、希美さんに訊いた。
「返してもらうのはかまわないが、うちにあるときは歌ってなんかなかった。歌うのを止めさせてから返してくれ、だって。歌わなかったら、ここに飾っとくわよね」
もう、連絡済みなんだ。
「そういや、何を歌ってるんです?」
先輩を見上げて、訊く。
「童歌、かな。小さくて、ちょっと聞き取りにくい」
「なら、近づきましょう」
にっこり笑って腕を掴み、タペストリーの方へ踏み出す。若干の抵抗が感じられたものの、ちゃんと着いてきてくれた。
「えっと……おーにーうめ、じゃうめ、つーののはえた、こうめ?いーちでたわらをふんまえて、にーでにっこり……」
あれ、その歌。
「それ、知ってる」
歌詞はうろ覚えだけど、と前置きして、歌ってみた。
「それそれ!何でお前、歌えるの」
「子供の頃、親戚の家に遊びに行った時に、たまたま地区のお祭りやってて、せっかくだから、混ぜてもらいなさいって。家を何軒もまわって、その都度歌うから、覚えちゃったんです」
「ちょっと、その歌、けっこうすごいわよ」
静かだった希美さんが、スマホの画面を見せてくれた。
『歌詞は、地域によって違い、祭りに参加しない家は、酷い目にあうぞ、という内容の歌詞が残る地域がある。
鬼産め 蛇産め 角の生えた子産め』
「この字面、なんか怖いな」
と先輩。
「私、梅干しの梅だと思ってた」
おに梅 じゃ梅 つののはえた小梅
梅など全く関係ないお祭りだから、よく考えたら間違ってることはわかりそうなものだけど、当時は子供だったし、今の今まで歌のことなど忘れてたしで、私の中ではずっと梅のままだった。
「実際、鬼も蛇も生まれないけど、跡継ぎが生まれないような気はするわね」
希美さんが、スマホをサマンサタバサのバッグに突っ込みながら言った。
「それで、紗那、晩ご飯は行くの?」
「あ、行く!三分待って、バッグ取ってくる」
「え、お前ら二人で飯行くの」
「希美さんが、愚痴聞いてくれたら、パスタくらいだったら奢るって。私、今月金欠なんで」
「待てよ。これ、どうするんだよ」
先輩が、タペストリーを指す。
「それ、どうにかするの、矢野君の仕事でしょ。私達、関係ないわよ」
希美さんの言葉に、先輩が一瞬たじろぐ。が、ため息を一つついて言った。
「わかった。奢ったらいいんだろ。二人とも、晩飯奢るから、手伝ってくれ」
「話が早くていいわね」
希美さんが、満足げに微笑む。
私は、奢ってくれなくても、暇だったら手伝ってもいいかなぁ、と思っていたけど。
まあ、いいか。金欠だし、ご馳走してもらおう。
***
「えー、焼き鳥!?臭いがつくー!」
と希美さんが、不満の声を上げ
「俺が払うんだから、俺が食いたい物で良いだろ」
と先輩が応酬する。
そんな軽い攻防があったけど、結局は焼き鳥をお腹に入れつつ、話をしている。
「具体的に、何を手伝ったらいいの」
希美さんが、塩味のとり皮を生ビールで流し込んで言った。私の隣に、キラふわなおっさんがいる。
「何をしたらいいのか、さっぱりわからないんだよなあ。ぼんじり、旨いぞ」
目の前に差し出されたので、思わずかぶりつく。
あ、美味しい。ぼんじりって、もっと脂っこいのかと思ってた。おかずとしてはちょっと塩気が強いけど、炭火で焼いた香ばしさが加わって、おつまみとしてはちょうど良い。
「わからないんだったら、手伝いようが無いじゃない。紗那、あんた餌付けされてるみたい」
「あー、それは前から、何となく感じてました。あのタペストリーって、寄贈するために作ったんですよね」
言ってから、口の中にあるぼんじりの塩気と脂気を、生ビールで洗う。
「餌付けって、犬猫じゃあるまいし」
と、タレの絡んだレバーを口に運びなから、先輩。
「たぶんそうだと思うけど、確認しとくわ。でも、何で?」
「さっき近づいた時に思ったんだけど、生地の出来が違うんですよね。パッチワークにして、一つの作品にしてしまった事が、まずは、問題だったのかなって」
「じゃあ、生地の出所も、訊いといた方がいいわね」
「二人とも、頼れるなあ」
ジョッキを片手に、背もたれに身体を預けた先輩が、呑気に言う。
「あんたが、頼りないからでしょ」
「先輩が、指示出さないから」
希美さんと私のちょっとイライラした声が、先輩に向かった。
***
静かだ。いやな予感がする。焼鳥屋の前で希美さんと別れてから、先輩の口数が少ない。絶対、気にしてる、別れ際に希美さんが言ってたこと。
「お茶でもしてから、帰りませんか?」
信号待ちをしている交差点の斜め前に見える、ペパーミントグリーンの看板が可愛いケーキ屋さんを指す。
「あ、いや、お前んちの方がいい」
うーん、ノリが悪いな。
「じゃ、食後のデザート、買って帰りましょう」
信号が青になったので、ケーキ屋に向かって踏み出す。飲み屋街にあるこの店は、夜間しか営業していないので、九時を過ぎていても充分に商品が揃っている。
焼き鳥、食べたばかりだし、太りたくないし、ゼリーだったら、カロリー低めかな。自分用に、透明のクラッシュゼリーがかかった、涼しげな柑橘系のゼリーを選んだ。明日のおやつ用に、焼き菓子もいくつか小さなカゴに入れた。
「先輩は?」
友哉先輩が、一瞬顔をしかめた。しまった。
「それ」
数種類のフルーツが、こんもりと乗っかったタルトを指差す。
そして、その手で財布を取り出し、支払いを済ませた。
「私、払いますよ」
「帰るぞ」
言うと、くるりと踵を返し、出口へ向かった。
私は商品を受け取ると、慌てて先輩の後を追った。
それから帰宅するまでも、やっぱり先輩は静かで、今、お茶を煎れるためのお湯を沸かしながら、私は居心地の悪さを感じている。自分ちなのに。
仕方ない。さっさと済ませよう。
コーヒーも紅茶もあるけど、ここは手っ取り早く、二人ともほうじ茶だ。熱々のほうじ茶とタルトを、先輩の前に出した。
「希美さんが言ったこと、気にしてますよね」
「別に、酒井に言われたからって訳じゃない。前から気にはなってた」
『仕事中じゃなくても、先輩って呼んでるんだ。』
焼鳥屋で支払いをする先輩の後ろで、希美さんが私に言った台詞だ。
「じゃあ、何て呼びましょうか」
「その、敬語も止めようか」
うっ。
「あの、私、器用じゃないから、仕事とプライベートで色々使い分けてって、出来ないと思うんです」
言ってから、ゼリーを口に運ぶ。予想通りさっぱりとしていて、美味しい。
が、少し、物足りない。焼き鳥とビールが、口の中から完全に消え去ってしまった今となっては、もう少し重さが欲しいところだ。
「間違えたところで、誰も気にしないだろ」
先輩が、フルーツタルトにフォークを立てる。
サクサクのタルト生地の上に乗っかった、しっとりした生地は、アーモンドプードル使ってるのかな。その上に薄くカスタードクリームが敷かれ、イチゴにブルーベリー、マスカットやキウイフルーツも乗っている。
私もフルーツタルトにしておけばよかった。
じゃなくて。
ある日突然、呼び方を変えるとか、なんか照れくさくて、苦手なだけだ。自然にできる人を尊敬してしまう。
と、先輩が一口大にしたフルーツタルト四層分を、器用にフォークに突き刺して言った。
「食いたいんだろ?」
ばれてる。
あ、でもここは、タルト食べたさに名前を呼ぶことにした、という体を装えば良いのでは!?
よし、それでいこう。
「友哉くん、で、いい?」
ですか、と最後にくっつけそうになったけど、かろうじて飲み込む。
「まあ、合格かな」
先輩、改め友哉君が、眼を細めて口角をちょっと持ち上げ、意地悪そうな表情で、タルトを口元に持ってきた。
いつもどおり、パクついた私を見て、吹き出しそうになっている。
あー、きっと、私の浅い考えも、ばれてるんだろうな。