幸せなランチタイム
伝承も民話も出てこない、正真正銘?の閑話です。
「もう、無理。やっぱり食べられない~」
そう言うと、俺の目の前の女は、フォークの先でつつくだけで、一向に減っていなかったトマトクリームのパスタの皿を、テーブルの端にずらした。パスタは、まだ半分ほど残っている。
「パスタ食べたいって、言ってたよな」
「え~、だって全部食べたら太るしぃ」
女は、テーブルの隅に立ててあったペーパーナプキンを無造作に取り出すと、二つに折って口の端を拭った。トマトクリームのくすんだオレンジ色と、口紅のピンクが付いたナプキンが、毒々しい。
「ねえ、この後どうする?」
テーブルに肘をついた女は、化粧品でやたらキラキラした顔を支え、上目遣いで訊いてきた。
顔は嫌いじゃないんだよな。でも、こいつと飯食っても、不味いな。
「どうもしないよ」
「え?」
「この後用があるんだ。俺は帰るよ」
「え?何で」
「誘ってくれてサンキュ。でももう、誘ってくれなくて良いから」
にっこり笑って――と言っても完璧な愛想笑いだが――伝票の上に自分の食べた分プラスαの金額を乗せると、女を後に店を出た。
***
翌朝、出勤すると、事務所に見慣れない女の子がいた。リクルートスーツに身を包んだその娘は、目が合うと笑おうとしたのか、ぎこちなく口角を持ち上げた。
「おはよう……ございます」
「あ、おはようございます」
そう言えば、一人補充してもらえるとか言ってたな。研修期間、終わったんだ。
その娘は、俺が知っている女子とは、どことなく違って見えた。肩を少し過ぎた辺りで切りそろえられた髪は黒く艶やかで、ほっそりした身体を包む黒のリクスーと相まって、禁欲的な印象だ。が、軽く持ち上げられた睫毛と、淡い色のグロスがそれを壊す。
「えっと、矢野君。こちら浜本紗那さん。今日からあなたの後輩ね」
佐藤さんの声に、我に返る。佐藤さん、いたんだ。当然か。
「浜本さん、矢野君はあなたの二年先輩になるかな。あと一人、ギリギリに来るおじさんが、山田事務長ね。じゃ、先にロッカー案内するわね」
そう言うと佐藤さんは、薄いベージュのコートを持った浜本さんと出て行った。
あ、うん。きれいな娘、だな。清楚って言うのかな、ああいう娘。
彼女達が出て行った扉を何となく見ていたら、勢いよく開いた。
「おはよう。どうした矢野、そんな所に突っ立って」
「あ、事務長。おはようございます」
俺は軽く頭を降ると、パンッと音を立てて、両手で頬を挟んだ。
***
「お昼はどうする?」
佐藤さんが、浜本に訊ねた。
「みなさんは、どうされてるんですか?」
「事務長と私は、お弁当。矢野君は、今日も食堂?」
「はい」
「じゃあ、矢野先輩、一緒に食堂、良いですか?」
そう言って、小首を傾げる。
「良いけど。女の子が行くような店じゃないぞ。客の大半が、サラリーマン」
とたんに、浜本の顔が輝いた。ように見えた。
「と言うことは、安くて美味しいということですよね」
「うん、まあ」
「ぜひ、そこでお願いします!」
気のせいじゃないな。顔、輝いてるな。
官公庁街の、裏通りにある食堂の席は、いつも通りほぼサラリーマンで埋められていた。
「珍しいね。今日は彼女連れかい」
恰幅の良い、白い割烹着と三角巾を着けたおばちゃんが、いらっしゃいませもそこそこに声をかけてきた。
「違いますよ、新人です」
「若い女の子を、こんな汚い店に連れてきたら、ダメじゃないか」
おばちゃんが笑いながら言って、奥の小上がりを指差した。いつもはそんなことをしないから、おばちゃんなりの気遣いだろう。
薄っぺらい座布団に腰を下ろすと、すぐにさっきのおばちゃんがお冷やを持ってきて、浜本に説明を始めた。
「メニューは日替わりのみ。A定食が一汁四菜、Bが一汁三菜。お嬢ちゃんなら、Bでご飯少な目かね」
「ご飯、普通盛りだとどのぐらいですか?」
「うちは、茶碗が大きいからね」
「じゃあ、少な目でお願いします」
「あいよ。にいちゃんは、いつものだね」
「あ、はい。お願いします」
「へぇ。女子ってもっとグダグダ悩むもんだと」
「日替わりのみなのに、何をどう悩むんですか」
すごく真面目な顔で、答えられた。が、すぐにふにゃっと顔を崩した。
「矢野先輩は、そういう女の子とばかり、お食事に行かれてるんですね」
「悪かったな」
「いえ、悪くはないです。先輩の女性の好みに、とやかく言える立場ではないので」
「別に、好みじゃないし」
「はい、こっちが嬢ちゃん用」
おばちゃんが、四角いトレーを二つ運んできた。早く供されるのも、この店の良いところだ。
「美味しそう」
浜本の目がキラキラと輝く。
千切りキャベツが添えられた生姜焼き、こんにゃくのピリ辛炒め、青菜のおひたしに味噌汁の一汁三菜だ。それにご飯と香の物がつく。
両手を併せ「いただきます」と言うと、三手で箸を持ち上げ、食べ始めた。
ぽつぽつと会話しながら、浜本は皿の上のものをたいらげていった。
就職を機に、一人暮らしを始めたこと。学生街の外れにアパートを借りていること。路面電車で通勤するつもりで、昨日試しに乗ってみたら、反対周りの電車に乗ってしまったこと。
途中、口の端に付いた生姜焼きのタレを、中指の爪先で引っかくように除けようとしていた。が、きれいに取れず、唇に伸ばすように広がったそれを、ちょっと俯いて舌先で舐めとっていた。ほんの少しだけのぞいた舌先は、唇よりも赤く、舐めとる様子は思いのほか艶めかしく、一瞬の出来事だったが目が釘付けになった。
「嬢ちゃん、きれいに食べたね」
お冷やを足しに来たおばちゃんの声に、ハッとした。俺、今、何を見ていた、考えていた……。
「美味しかったです。でもこんなに食べたら、お昼から眠くなりそうで」
幸い、浜本は俺の怪しい視線には気付いてなかったようだ。
「じゃあ、今度来たら、おかずも少な目がいいか」
すると、厨房からご主人の声がした。
「そんなに減らすんなら、ちょっとまけてやれよ」
「だとさ」
「ありがとうございます!」
さっきの艶めかしさが夢かと思うような元気の良い声と、空になった皿を見て、これからこの娘と一緒に摂る食事が、楽しみになった。
***
が、俺の幸せなランチタイムは、一週間で終了した。
「ごめんなさい、先輩。私、今日からお弁当なんです」
え。
「いくら安いとはいえ、一人暮らしなので、毎日外食はどうかなと思いまして。でも、温かいものを食べたい日には、食堂に行くつもりなので、よろしく言っといてくださいね」
「あ、うん」
「じゃあ私、散歩も兼ねて、外でお弁当食べてきますね」
佐藤さんと事務長に向かってそう言うと、小さなトートバッグを下げて、さっさと出て行った。
仕方ない、一人で食堂行くか。
財布を持って席を立つと、佐藤さんと事務長にじっと見られていることに気づいた。
「あの?」
「コンビニ弁当買って、俺も散歩つき合うとか何とか、言ったら良いじゃない」
「さすがの僕にもわかったよ。たかが食堂行くのに、毎日毎日、嬉しそうになあ」
「いや、あの、それは、浜本の食いっぷりがいいから、一緒に食べると旨くて」
「そんな事言って。知らないわよ、どっかの鳶にさらわれても」
「それはそれで、面白そうな気もするけどな」
「食事、行ってきます」
妙に楽しげな二人にそう言って、事務所を出た。
食堂で、おばちゃんに浜本からの伝言を伝えると、厨房の奥のご主人だけでなく、常連客の間からも残念がる声が聞こえた。この店に、女子は貴重だもんな。けど、どうもそれだけでは無いような気がする。
まずい。本気で、どうにかした方がいいよな。けど、そもそもあいつ、俺に興味が無いんだよな。
この日から、俺の餌付け作戦がスタートした。