ここにいる
いつもの朝。
いつもの職場。
いつもの仕事。
山田事務長はいつも通り緩い空気を醸し出しながら、でもてきぱきと仕事をこなし、佐藤さんもいつも通り、茶目っ気たっぷりの会話を時折誰かと交わしながら、仕事をしている。
斜め前に座る矢野先輩も、いつも通りだ。どこかの電球が切れたという内線電話に、見えやしないのに爽やかな笑顔で応対していた。
いつもと違うのは、私だけか。
ため息がこぼれる。
「どうしたの?ため息なんかついちゃって」
キーボードをたたく手を止めて、佐藤さんが言った。
「あ、いえ、なんかだるくて。夜更かししたのがまずかったな」
無理やり笑って答え、先輩をチラリと盗み見た。受話器を片手に、書類をめくっている。
美人は三日で飽きるって言うけど、イケメンも毎日見てると慣れるんだな。爽やかイケメンであることを、すっかり忘れてしまっていた。
そして、も一つ忘れてたけど、この人、そこそこモテるんだった。
そんな人からのお誘いを、自分の趣味を優先してお断りしたのは、今更だけどまずかったかもしれない。
問い質してもいいんだけど、私にも非があると思うと、躊躇われた。
また、ため息がこぼれる。
「浜本さん、ちょっと」
事務長に呼ばれたので、席を立つ。
「ここ、間違ってるよ」
さっき出した書類だ。
「……すみません」
「どうした、珍しい。こんな凡ミス」
「すみません。すぐ訂正を……」
あれ。
え。
涙が、はらりとこぼれ落ちた。
「え。そんな泣くような事じゃ」
事務長が心底驚いた表情をする。
「すみません。私も、泣くつもりは」
職場で泣くような女は、大嫌いだ。
「なっ、何でかわからないけど、涙が」
涙が溢れるだけじゃなく、心の奥の芯の部分を、ギュッと握られたみたいに、苦しい。
何、これ。
その時ノックがして、希美さんが入ってきた。
「失礼しまーす。このあいだ話してたパンフレット……」
次の瞬間、大きな目を更に大きく見開き、震える声で言った。
「いた。いなくなったと思ったら、ここにいたー!」
最後は、絶叫だ。
私の涙はぴたりと止まり、全員で目をまん丸にして希美さんを見る。
最初に我に返ったのは、佐藤さんだった。
「希美ちゃん、何がいるのかしら?」
小さな子供にするように、優しく問いかけた。
「や、奴ら?化け物?何かわからないけど、階段の辺りにいた、ひんやりするやつ」
「それが、何処にいるのかな?」
今度は事務長が、優しく問いかける。
希美さんは、小刻みに震える手を持ち上げ、指差した。
え?私?
「えーっと、それは紗那ちゃんに、何かが憑いちゃってるってことで、良いのかしら」
希美さんは大きな目を見開いたまま、こくこくと頷いた。
「浜本さん、その、体調悪いとか、気分が悪いとかある?」
と事務長。
「いえ、特には。ただ……」
そう言ってから、今の自分の状況を、出来るだけ客観的に見てみる。女の子と仲良く腕を組んで歩く先輩を見てから、もやもやしてスッキリしない感じはあった。
でも今は、それを超える何かがある。
何か……。
「そう、ですね、何だかすごく、寂しくて、悲しくて、苦しくて……」
話しながらも、また涙が溢れてきた。
「よく、わからないけど、胸の奥がギュッとなって、苦しくて、寂しくて、悲しくて………」
涙、止まらない。
「わ、わかった。とにかく、悲しいんだね」
事務長が、狼狽えながら言った。
対して、佐藤さんは冷静だった。
「山田君、何が憑いてるのか探さないと。今うちでは、何もやってないんだから」
事務長がはっとして、キーボードを叩き始めた。
佐藤さんも、そして先輩もそれに続く。
私は涙を拭くために、自席に戻ろうとしたが、希美さんに手招きされた。希美さんは私の肩に手を回し、事務所の入り口付近まで引っ張って行き、小声で訊いてきた。
「あんた、休み中に何があったの」
「え」
「奴らは、気持ちが揺らいでる人に憑くの。週末は、平気だったじゃない」
う……、言葉に詰まる。
でも、たぶん、希美さんは引いてくれない。ううん、絶対引いてくれない。話すまで、二階へは帰らない。
仕方ないので、休日に見た光景を話した。もちろん、小声で。
「それだけ?」
「はい」
「その場で詰め寄ったらよかったのに」
「いや、それはさすがに」
「言いなさいよ!怒りなさいよ!それで盛大にふってやりなさいよ!」
やっぱりそうか。盛大にふるのは別としても、この場合、問い質すのが正解か。そしたら、こんな事にならなかっただろうし。
先輩の方に目をやると、しっかり目が合ってしまい、慌てて反らした。
「これ、かな?」
事務長が、自信なさげに佐藤さんを見た。
佐藤さんが、事務長の隣へ行って、パソコンの画面を覗き込む。
「そうね。今、これぐらいしか、やってないわよね」
事務長が、城山の上を指差した。
「城に、葵姫の鎧が来てる」
「鎧なんか、いつもあるじゃないですか」
と希美さん。
確かに、城内の常設展示コーナーには、何体かの甲冑がある。
「あら、葵姫の伝説、知らない?」
佐藤さんが、デスクの引き出しをゴソゴソとやって、地元の劇団のフライヤーを取り出した。
あ、それ、知ってるかも。
と言っても、詳しい内容までは知らない。県内の島嶼部に伝わる伝説で、戦場で戦ったお姫様がいた、という程度だ。
島にある神社には、そのお姫様が身につけていたとされる鎧があって、その鎧が、先週から展示されているらしい。
「あの、展示は、いつまでやってるんですか」
鎧が島に帰ったら大丈夫かな、と思って訊いてみた。
「あー、あと三週間。」
と事務長。
長いな。
「あとこれ、重要文化財だから、叩き割れないから」
それはさすがに期待してません。
「とりあえず、見てきたら。ちょっと早いけど、昼休憩も取っちゃいなさい。良いわよね、山田君」
「どうぞ。佐藤のお姉さんの仰せのままに」
すっとぼけた表情で答えた事務長に、ちょっと和まされた。
***
城内は、春休み中とあってか、平日の割には人がいた。
ゆっくりと見て回る観光客を追い抜き、順路も無視して、とにかく葵姫の鎧を目指した。
その鎧は、見慣れた戦国武将の甲冑と比べると、簡素だった。パーツが少なく、身体を覆う面積も小さい。遠目で見たら、ペプラム付きのキャミソールみたいだ。
胸の辺りが丸みを帯び、ウエストにかけてキュッとすぼまっていることから、女性用・葵姫の物とされたらしい。
うん、たぶんこれだ。
胸の奥がぎゅっと強く締めつけられる。
意に反して、また涙が溢れそうになり、慌ててその場を離れた。
***
「あんた、どんどん不細工になっていくわね」
葵ちゃんに取り憑かれて三日目、二階の受付に行ったら、希美さんに言われた。
「これでも、起き抜けよりはだいぶましなんです」
涙を美化したのは、どこのバカだろう。涙はたいてい鼻水とセットだ。そしてどちらも、塩分を含んでいる。綺麗なわけがない。
日中は、気が張っていたり、何かに集中していたりして、葵ちゃんの気持ちに捕らわれることは、そう多くはない。
だが、眠っている間はそうはいかない。目覚めると、目が腫れているのはもちろん、涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃだ。
蒸しタオルを当ててからでないと、人前には出られない。
ちなみに『葵ちゃん』は希美さんの命名だ。「私がばばあで、あんたが姫とか、ムカつく」と言う理由で、姫とは絶対に呼ばない。
「葵ちゃんは出て行ってくれそう?」
「それが、さっぱり。顔、ヒリヒリするし、一階のみんなは気を使ってくれるし、もうそろそろ出て行って欲しいんですけどね。あと半月、我慢するしかないのかな」
「我慢できるんだったらいいけど。あの男は?」
「うーん、色々気にかけてくれてはいますよ」
「そっちも、どうにかしなさい」
「今は、それどころじゃないですよぉ」
「そうだけど。ま、何かあったら言いなさいよ」
何か、か。
何もなければ良いなあ。
……って、そう上手くはいかないよね。
翌朝、目覚めると、ため息と共に「死にたい」と口走って、ギョッとした。