かじゅあるこーで
どうぞ、お付き合いくださいませ。
コートを片手に更衣室を出ると、酒井さん、じゃなくて希美さんに会った。
「お疲れ様です」
「お疲れ様じゃないわよ、紗那。いるわよ。絶対いるわよ」
「またですか」
私は、少々うんざりした声で答える。
鵺騒動以降、希美さんはよく「何かいる」と言うようになった。
「今度こそ、絶対いるから。来て」
彼女の目は、真剣そのものだ。今時の可愛い女子スタイルと相まって、ちょっと面白い。
仕方ないな。もう帰るだけだし、つき合うか。
並んで階段を上っていると、希美さんが、手すりに乗せた私の指先に目を留めた。
「あー、着けてない。あれ、けっこう出来良かったと思うんだけど」
「だからですよ。もったいなくて」
鵺という茶碗に、期せずして込められた強い想い――希美さん言うところの『ばばあの怨念』――から開放された希美さんが、ある日の昼休み、小さなメジャーを持って一階の事務所に現れた。
そして、ひっぱたいて顔に傷を付けてしまったことを詫びて、私の両手の爪のサイズを測った。
なぜ、爪のサイズを?
と思っていたら、数日後、お詫びだと言って、ラインストーンが光る、お手製のネイルチップをくれた。
「奮発して、スワロにしたのに。ここで着けなきゃ意味ないでしょ」
「ごめんなさい。でも、意味が分かりません」
「奴らはね、光り物が嫌いなの」
「奴ら?」
「化け物よ、化け物。ぼぎわんが来るに書いてあった」
それ、小説ですよね。
「ここ、ここ」
南向きのロビーから北に向かって真っすぐ伸びた正面階段が、壁にぶつかった所のおどり場だ。
「ひんやりしない?」
ひんやり……
「するかなあ」
「するわよ、わかんない?」
うーん……。
そもそもここは、南に向いて建っている割りに、ひんやりする。
いつもより、ひんやり……
「するような気も……」
と、視界の端を何か白いものが掠めた。
思わずそちらに顔を向けると、希美さんがビクッとした。
「な、何よ」
「いえ。何か白いものが動いた気が」
「やっぱり、いるのよぉ~」
私の二の腕を掴んで、揺さぶった。
「酒井さん。ちょっといい?」
上の階から、声がかかった。
帰ろうと思ってたのに、と小さく呟いてから
「ネイルチップ、ちゃんと着けなさいよ」
と言って、上がっていった。
いるの、かなあ?
今のところ、茶碗を見たときみたいに、気持ち悪くは無いんだけど。
レトロ可愛いステンドグラスを背に、館内をぐるりと見回した。
***
あ。これ、可愛い。
私は山積みの着物の中から、紺色の小紋を引っ張り出した。
紅型風の柄が華やかで、持っていないタイプだ。
可愛く着るのなら赤い帯、少し落ち着いた感じにしたいなら芥子色かな。手持ちの帯で着られそうだ。
着用感もほとんど無いし、裄丈も着丈も問題なさそうだ。
お値段も、うん、問題なし。ファストファッションのTシャツくらいの価格だ。中古とはいえ、正絹なのに。
今日は、城山の、観光客用の登山道側にある商店街で、春のお城下祭りが行われている。いつもは着物のレンタルや着付けを行っているお店が、この日は着物市をすると知って、一人でやって来た。
先週も、別の場所であった着物市に行ったけど、ハズレだったから、今日は先週にも増して、気合いが入りまくっている。
先輩と会っている場合ではない。毎週誘ってくれるのに申し訳ないな、とは思うけど、つき合ってもらう方が悪いような気がするし、第一、この姿を見せるのは、少し恥ずかしい。
この姿とは――
花水木とも椿とも取れるような抽象的な花模様が描かれた小紋に、着物のはぎれで作った柄半襟、帯は半幅をリボン返しに結んだ、カジュアル仕様な着物姿だ。
私にとっては、今日は何を着ようかな、の選択肢の中に着物が有るだけだけど、一般的にはあまり理解してもらえないような気がする。
支払いのためにレジに行くと、店員さんに声をかけられた。長襦袢代わりに白いスタンドカラーのブラウス、草履代わりにワンストラップの靴を合わせた、洋ミックスの着物コーデが可愛い。
「また秋のお祭りにも来てくださいね、着物で。お似合いです!」
「ありがとうございます」
ちょっぴり恥ずかしい。けど、嬉しい。
お店の外に出ると、薄曇りだった空は綺麗に晴れて、歩行者天国は、人でごった返していた。
人いきれに混じって、ソースが焦げる香ばしい香りや、イカ焼きのにおいが漂ってくる。
お昼時かぁ。今の店で一時間以上、過ごしちゃったな。
とりあえず、近くの出店で飲み物を買う。本気で買い物したせいで、喉がからからだ。
お昼ご飯は、何か買って帰って、家でゆっくり食べようかな。
お天気は良いし、良い買い物は出来たし、私は上機嫌で歩行者天国を歩いていた。
出店は、この商店街でお店を構えている所だけでなく、産直市や、近くの高校の家庭科部なども出していて、文化祭みたいな雰囲気もあって、楽しかった。
お昼ご飯を物色しながら歩いていると、見慣れた後ろ姿を見つけた。
あれ、矢野先輩?
なんとなく目で追っていると、私と同じ年くらいの女の子が駆け寄って、腕を絡ませた。
ショートボブで快活そうな、小リスみたいに可愛い子だ。笑顔で先輩を見上げている。
あ……。
さっきまでの、楽しく膨らんだ気持ちはあっという間にしぼんで、私はすぐに家に帰った。
・作中のぼぎわんが来るは、澤村伊智さんの『ぼぎわんが、来る』(角川ホラー文庫)です。