日常
「暑っ……」
公園の、丸太を模した転落防止柵に腰掛け、景色を見下ろしながら先輩が言った。見下ろすと言っても、ここはビルの四階程度の高さしか無いし、見えるのは勤務先の建物の、ドーム状の屋根ぐらいだけど。
私は草刈りの手を止めて、二年先輩の矢野友哉を見上げた。
奥二重の涼しげな目元、細く真っ直ぐ通った鼻筋、キュッとしまった顎のラインはシャープで、いわゆるイケメンだ。毛穴の目立たない肌は清潔感しか感じないし、焦げ茶の少し長めの髪に柔らかく縁取られている。
そのイケメンが、カーキの作業服の上着を腰に巻き付け、喉を鳴らしてペットボトルから水を飲んでいる。首筋に光る汗と、白Tが眩しいことこの上ない。
先輩は、私の視線に気がついたのか、こっちを向いてにこりと笑った。
そう言えば事務の佐藤さんが、言ってたな。
「入れ食い……じゃないわね。愛想という安い撒き餌に、勝手に女の子が群がってくる感じ」
これか。
これがその撒き餌か。
***
私、浜本紗那の勤務先は、主に官公庁から施設の管理を請け負っている。配属先は、さっき屋根が見えた建物、県庁の旧本館だ。
旧本館は、百年以上前に建てられ、中央にドームを配した左右対称の造りが特徴的だ。サイズ的にも構造的にも、政務を執り行うには不便になったため、本来の意味での庁舎の役目は、ずいぶん前に終えていた。
内装はレトロ感たっぷりで雰囲気が良いせいか、たまに映画やドラマの撮影に使われたり、アートの展示会等が行われているが、ほとんどの部屋は事務所として貸している。もちろん、有料だ。無料なのは、ちびっ子達の社会科見学くらいだ。
旧本館のすぐ北側には小高い山があり、山頂には天守閣が有るので城山と呼ばれていた。
その、二の丸に当たる位置にこの公園はある。すぐ近くなので、ここの管理も一緒にしている。
昨日、公園の利用者から、トイレの裏側が草ぼうぼうだとクレームが入った。
トイレの裏側……、わざわざこんな所まで入り込まなくても……と思うような隅っこだ。
来週シルバー人材センターから、草刈りに来てくれることになっていたけど、クレームが来た以上、放置するわけにもいかない。とりあえず昼までに出来るだけ刈ってこいと、上司から言い渡された。
作業服に着替え、矢野先輩と一緒に、かれこれ一時間ほど草を刈っている。九月ももう終わるとはいえ、まだまだ暑い。作業服も暑い。だけど、私服を汚すのは嫌だし、蚊も飛んでいるから、しっかり身体を覆ってくれるこれを着るしかない。
私も一休みしよ。
立ち上がって、思いっきり伸びをする。
ペットボトルの蓋を開けながら、ふと柵の端っこの山肌の方に目をやると、小さな屋根が見えた。柵の向こう側なので、背の高い草に埋もれている。
「先輩、あれ、何でしょう?」
私は、屋根を指した。
「さあ。祠?」
先輩は持っていたペットボトルを私に押しつけると、長い足で柵を跨いだ。
「あ、いいですよ、わざわざ見に行かなくても。すぐ向こう、斜面……」
「わかってる。お前は来るなよ、トロいから」
腰の辺りまで伸びた雑草を、ざくざく踏みつけながら近づいて行く。
ちゃんとわかってます、自分のことは。草刈りも、大半は先輩がやったし。私、ほとんど役に立ってないし。
「浜本、鎌、取って。祠だ」
先輩に言われ、地面に放り出していた鎌を、柵越しにぐっと手を伸ばして渡す。
先輩は鎌を受け取ると、
「見た以上、このまま放っておくのもな」
と、ざっくりと草を刈り始めた。
祠はちゃんと原型を留めていて、思いのほかきれいだった。格子状の小さな扉はぴたりと閉じられているが、四角い空きから、中に石像のようなものが、祀られていることがわかる。
「こんなもんかな」
軍手をはめた手で屋根の上のゴミを払い、先輩が言った。
「あの、なんかすみません。よけいな仕事、増やしてしまったみたいで」
「ほんとにな。帰るぞ」
「まだ昼まで、一時間近く有りますよ?」
「俺が限界」
「あ……はい」
せめて後片付けぐらい役に立とうと、鎌や箒を集めていたら、横から先輩が奪うかのように取って、倉庫に片づけてしまった。
私、ほんとに役立たずだ……。
***
事務所に帰ると、事務員の佐藤さんが冷たい麦茶を入れてくれた。
「どうぞ、今日は暑かったでしょ」
「あ。ありがとうございます」
と、横から手が伸びてきて、グラスをかっ攫っていった。
「働いたのは、俺だ」
そう言って、一気に飲み干した。
まあ、そうなんですけどね。
「やあねえ。矢野君の分も、ちゃんと入れてるのに」
佐藤さんがクスクス笑いながら、私の前に座った。
この人は、なんだか可愛い。それなりに年齢はいってるはずなのに、笑顔で小首を傾げる姿が、自然で似合っている。
「まあ、矢野君が働いたんなら、山田君の作戦、成功なんじゃない」
「そうだな」
私達に草刈りを命じた山田君こと、山田事務長が言った。
事務長は、役職は佐藤さんより上だが、年齢は下なせいで、君付けで呼ばれている。世の中には、そういうつまらない事で機嫌を損ねる人もいるが、事務長はそうではない。おおらかで、良い人だ。
ついでに言えば、おじさんなのに、ハゲってないしデブってないところも良い。
「作戦って、何ですか」
先輩が、ちょっと不機嫌そうに事務長に訊いた。
「僕はフェミニストなんだ」
はい?
「こんな暑い日に、女の子に草刈りをやらすと、本気で思ったのか」
いや、仕事ですから。
「だいたい、この間まで学生だった非力なお嬢さんが、上手に草刈りなんか出来ないだろ」
その通りです。
「餌だよ、エサ」
エサ?
「浜本くっつけとけば、矢野が目一杯働くだろうと思って」
ん?
あ!
「先輩もフェミニストってことですね」
三人の視線が、一気に私に集まった。
あれ?間違ったかな。
「大きく間違ってはないけどねぇ」と佐藤さん。
「そうきたか」と事務長は苦笑い。
当の先輩は、何故だか口が半開きだ。そして、そのままふいと事務所を出て行った。
着替えに行くのかな?
「すみません。私も着替えてきます」
「そのまま、休憩に入っていいわよぉ」
「矢野にも休憩入れって」
「はい、ありがとうございます」
私は小走りで事務所を出た。
「先輩!あの……」
廊下の片隅で、つなぎの袖を掴んで引き止める。
「私にはフェミニストぶり、発揮しなくていいですから」
ついでに、撒き餌も要りませんよ。
「あぁ~、次からそうするわ」
怠そうな答えが返ってきた。
「あの、暑かった、ですよね」
「ああ」
「疲れました、よね」
「まあな」
「疲れたときって、甘いもの食べたくなりませんか?」
「そうでもないかな」
「そうですか……」
失敗。
「あ、昼休憩入っていいそうです」
とりあえず、着替えよ。
「ちょっと待て。甘いものがどうした」
更衣室へ足を向けた途端、先輩に肩を掴まれた。
「いえ、向こうの商店街にある甘味処の、夏期限定のかき氷が今月いっぱいだから、帰りにどうかなと思っただけです」
アイスやあんこや白玉などのトッピングが、かなり増量された抹茶ミルクだ。
「そのくらいだったら、お礼にご馳走でき……」
「行く」
へ?
「あの、かき氷なんて無理に食べるものでは……」
「無理はしてない。疲れたから食べたくなったりしないだけで、甘いものもかき氷も好きだ」
そうなんだ。
それは良かった。
「じゃあ、帰りに一緒に行きましょう」
***
翌朝、事務所で私と先輩はもめていた。
「誘ったの私だし、奢ってもらったんじゃ、意味ないです」
「昨日はすぐに引いたのに、しつこいな」
「それはっ、あの場でグダグダするのもどうかと思ったし、先輩を立てた方が良いのかなって」
「今日も立てとけよ」
「奢りたい奴には、奢らしとけば良いんじゃないか」
事務長!?
「そうよ~。そこは、にっこり笑ってごちそうさまで良いと思うわよ~。にっこり笑って」
佐藤さんまで。
「そういうもんなんでしょうか」
二人が、とても素晴らしい笑顔で頷く。
今ひとつ腑に落ちないけど、目上のお二方がおっしゃるんだから、間違いではないんだろうな。
うん、じゃあ。
「先輩、ありがとうございます。ごちそうさまでした」
佐藤さんの言うようににっこりしてみようと思ったけど、上手くはいかず、はにかんだようなぎこちない表情になったような気がする。
それに対しての先輩の反応は、
「ああ」
の一言で、すぐにそっぽを向いて席に戻っていった。
あー、やっぱりにっこり、失敗だったか。
事務長が何か含んだような笑顔で、先輩の肩をポンポンと叩く。
佐藤さんが餌付けがどうとか、声をかけている。
私はいつか先輩に、愛想の振りまき方を教えてもらった方が良いかもと思いながら、仕事に取りかかった。