第8話 Dragon Lady
2月1日 19時31分
“騙されたふりで、かけた罠に落ちる。恋をしていたのはこっちだったみたい”
夜の街は冷える。それが2月ともなれば尚更だ。
彼の彼女、つまり道雄とめぐりは琵琶湖水族館でランチを楽しんだ後、しばらく琵琶湖の生き物を楽しみ、琵琶湖大橋の辺りと石川県の県境辺りで少しばかり迷子になった。そしていつしか時刻は午後8時を迎えていた。
通常のバイクにはヒーターやエアコンが装備されておらず、ドライバーは風に当てられながら走行する。体感温度は風速1メートルで約1度下がるという。ドライバーと助手席に置いてある2人は、氷点下の中で凍えているようなものだった。
ドライバーの道雄は、特に指がつらい。風の当たる胴体と足は厚着とジーンズでそこそこに暖かいのだが、同じく風が直撃する指だけは手袋1つしか守るものがない。そこが冷えると指の運動が鈍くなり、運転に支障が出る。だからこそ冬のバイク乗りは手袋をより良いものに選出するべきである。しかし、彼は貧乏学生だったのでそれほどに贅沢はできなかった。高級なものだと2から3万。彼の手袋は5000円が良いところだろう。
助手席のめぐりは、薄着だった。元々かけるものもなしに道端で転がっていた彼女であるが、助手席で何時間も座っていれば流石に堪える。直撃する風はほとんど道雄が受けていたが、それでも冷たい夜の風が隙間から現れ、彼女を攻撃する。なによりも夜の街はヘルメット越しだと景色がぼんやりとしていて、色も薄く、代わり映えがないため、めぐりは退屈を持て余していた。たまに道雄に話しかけるも、彼も疲労が出始め、反応が薄い。それに道雄は自分が使うはずだったカイロをめぐりに奪われていて、すこしばかり不機嫌でもある。いつしか道雄の断りも入れず、めぐりはタバコを吹かしていた。彼も次第に彼女が何をしているか察していたが、とりたて責める真似はしなかった。それが面倒だからである。
「あーっ! もう退屈! てかこれからどうするのよ!! 寒い!寒い!寒い!!」
「うるせーっ! 俺が一番寒いんだよ!! あと少しで彦根城なんだから我慢しろ!!」
めぐりの爆発に感化され、道雄も声を高々にする。めぐりは身振り手振りを余計に大きくアクションしたため、バイクはかなり揺れ動く。それも道雄の怒りを刺激した。
「彦根城になにがあるのよ! 前に行ったじゃん!」
「琵琶湖一周がゴールなんだよ! せっかく彦根市についたんだから早めにやり遂げたいだろ!」
「もーいやあ! なんでこんなに寒いの! 車だったら暖房もあるしテレビも見れるしいちいち揺れないし眠くなったら寝れるし態勢も崩せるしなんでバイクなんて乗ってるの!?」
「やめろよ! エステちゃん※が泣くだろ! 安全祈願の為にも、俺はバイクの悪口は極力言いたくないんだ! 優しく撫でるようにエステちゃんに跨れ!」
(※道雄の愛バイク、st250の愛称)
「あっ、そうかな……? なんかごめんね。でもバイクに女の子みたいな名前付けるのは正直キモいと思うよ」
「うるせえな、一人の時間が長いと独り言多くなるんだよ」
「私がいても、急に止まった時とか「エステちゃんごめんね、俺が運転下手だからエースタしちゃったんだよね、次は気を付けるから」とか言ってるよ」
「エースタじゃなくてエンスト、エンジンストップ。あーくっそ、人様に見せられないあられもない姿を何度コイツに晒したことだろうか」
「ミルチー、ちょっと変だよね。面白いから友達出来そうなのに」
「その評価は何度と受けてきたけど、なかなか上手くいかないんだ。人付き合いって。結局はエステちゃん以外のベストパートナーはいないな」
「かわいそう」
「ぶっちゃけ、冷静に同情される方が一番傷つ……おっ!」
道雄が目を丸くし、急な動きでバイクを路肩に寄せた。スピードの緩急は後続車にプレッシャーを与えるために運転マナーとしては最悪で、ましてや道雄とめぐりを乗せたこのst250ならば、不格好なブレーキのかけ方をするのはかなりの危険である。
「ミルチーどうしたの?」
「メーグよ、俺がなぜバイクの旅をするかを何度か聞いたな?」
「うん」
「今からその理由を教えてやる。俺はこれがなければ、こんなゲームセンターもカラオケもない田舎道を走る気なんて全くない。めーぐはちなみになんだと思う?」
「きれいな景色?」
「違う」
「美味しい食べ物? んーでも琵琶湖水族館でブラックナマズ食べてるし、それはないかな。」
「違う、てかブラックバスだろ。それにあれは結構うまい。でもそれが理由じゃない」
「ドМ?」
「違う違う違う! きれいな景色でもうまい飯でも、性的興奮でもなんでもない! 俺がわざわざ小動物が引きこもるような寒い夜に、自分から風に当たりに行くなんて頭のねじがブッ飛んだイカれ野郎の行為に身を削る動機はな、アレだ……!」
道雄が示す先にあるのは、『スパリゾート』
「はぁ~。さっぱりしたぁ。冷えた体は温かいお湯に突っ込んで養生させるべきなんだ」
道雄は満足げに男湯の暖簾を潜り抜けた。ドライヤーで乾かしたばかりの髪はボサボサで、彼のヘアーセット能力の無さが見て取れる。恰好は着慣れたタフタ生地のダウンジャケットにシャツ一枚。ボトムズも変化なし。パジャマのレンタルが出来たはずだが、追加費用が掛かる為に却下された。リュックはロッカーに仕舞い、彼は久々に肩の力を抜いて歩いている。
平日のせいか、人込みも無く、たまに子連れを見かけるくらいだった。賑わう声も団体で来た年配者によるものばかりが目立つ。レストランやマッサージサービスは賑わっているようだったが、彼が向かったコミックルームはむしろ静かだった。椅子に座った先にテレビが設置され、ニュースが垂れ流しになっているが、これがなければ静かすぎて嫌になるくらいなのでとりたて不快には思わない。
道雄は前々から気になっていた漫画を一つ取り、そして2~3続きの巻を余分にとって、椅子に腰かける。
これが彼なりの至福の時間だ。極度に冷えた環境に耐えた末に見つけた温泉やスパリゾートで安らぎ、そして時間の流れを感じるほどにゆったりと過ごす。明日の事やスパを出た時どうするかはなんとなく考えるが、深くは追及しない。不安になる未来がチラついたら一息ついて、漫画を読み直すか、ニュースでも見て気分を直す。この時間は退屈や苛立ち、束縛ばかりの俗世とは無縁の時間とするべきなのだ。眠たいの慣れ寝ればいいし、寝れなくても体力を奪う行為を絶対に行わない。これはただ単純に、疲れない時間。
[今朝5時ごろ、名古屋市〇〇区のアパートに謎の少年と若い男性が侵入し、アパートに住む母親(43)と高校二年生が襲われた事件について、警察が部屋を調べたところ高校生のものとみられる大量の薬物が発見され、さらに母親には軽度ですが薬物の反応が見られたとのことで、謎の少年と男性、さらには現在行方をくらませている春巻少年がなにか事件に関連していると見て、警察は捜査を進めています。]
「……やっぱ名古屋ちょっとやべえな。被害者が実は犯罪者でしたーって。ヤクザの抗争でもしてるのかよ」
そこから数時間も離れ、異郷の地で何気なく見て拾う名古屋のニュースは、どこか遠い場所に感じる。それでいて、少し前までその場所で生活していた自分がまた別の人間のように感じる。彼は大学に友人の一人もいないが、それでも講義の前に足音を鳴らす噂話くらいは耳に入る。『大学の知り合いがやらかした』だの、『どこどこの大学のどこどこのキャンパスのどこどこでは薬物が売られている』だの……。どうしてそんな話を聞いて、自分には関係ないからと忘れられるのだろうか。事実、今では随分と近い関係になってしまった彼女ですら、それに憑りつかれていたのに。これもどれも、自分が他人に興味が無いからなのだろうか。
「こうやって、のんびりしてみると、おかしな場所だわ名古屋」
もちろん、前述通り彼は深く考えなかった。故郷の愚痴をチョロチョロと流した後、飽きたかのように忘れ、漫画を読み返す。そして数分もすれば何があったのかを思い返すことはない。ニュースも別の話題に移り変わる。
道雄が寝ぼけかけたころ、スマートフォンから短い着信音が鳴る。めぐりからLINEのメッセージが届いており、内容は短く『喫煙所にいる』だった。
やれやれと思いつつ、重い腰を上げ喫煙所を探す。道雄は一通りに辺りを歩いてみると、室外のこぢんまりとしたスペースに続くドアに、喫煙所と小さく書かれていた。おやおや、外で吸えなんて喫煙者に厳しい施設だな、なんて彼は思いつつドアを開く。そこには、めぐりが1人、待ちわびた様子で煙を楽しんでいた。
「遅いね、女の子を待たせるのってどうよ」
「それは申し訳ないね。でも喫煙所に誘って、タバコを吸いながら出迎える女の子ってどうなのよ」
「それはごめん」
「別に構わないけどな。ちょっと虐めただけ」
「ミルチーってさ、私がタバコを吸うことに対して何も言わないよね……? ガソリンスタンドで吸った時は本気でキレてたけど」
「うん。別に未成年だろうがなんだろうがタバコを吸おうと俺は何とも思わないだけだよ。でもガソリンスタンドだけは洒落にならんから本当にやめろ」
「学校の先生やお母さんにも、大人はみんなダメって言うのに。なんでミルチーは何とも思わないの?」
「何か思ってほしいのか?」
「ううん」
「まぁ、それは俺が子供だからじゃないのか。まだ。大学生って言っても、ただ酒とタバコが合法になるだけだからな」
「でもミルチー、大学生で頭いいし、バイク乗ってるし、いろんな場所知ってるし、大人じゃないの?」
「大人じゃないと思う。それくらいで大人になれるなら、俺もメーグは大人だと思うぞ。煙草の味を知っているし、友達も多そうだし、髪が茶髪だしな」
「クスリやってたような私が、大人なわけないじゃん」
ほんの一瞬、道雄はかける言葉を見失う。次にかけようとしたいくつもの言葉が、あまりに安っぽく、同情をしているかのように思えたからだ。
「今はやってないんだろ? なら、それは関係ないさ」
「そうなのかな」
「ああ」
また、2人の間に沈黙が流れる。道雄は少し話題を探し、めぐりは何を考えているのかわからない。彼女は少し気まずそうにするだけだ。
「おい、めぐり。そのタバコを俺にも一本くれ」
「え、うん」
「どうせそれは途中のコンビニで俺が買ってやった奴だろ? 財布に32円しか入ってなくて、仕方なく俺が大量にタバコを買ってやったんだ。少しは分けてくれてもいいんじゃないか?」
「も、もちろんだよ。てか普通にごめんね」
「気にすんな」
道雄がめぐりからタバコを1つ受け取り、口にくわえるとめぐりがライターに火をつけて炙る。道雄はストローでジュースを飲むように吸い上げるものだから、とうぜん咳き込み、熱気が口の中を襲う。
「キッツ」
「大丈夫?」
「ああ、慣れるだろ。そのうち」
道雄は、めぐりがタバコを吸うことに関して何も関心は抱かないでいた。
彼には喫煙者に対する偏見どころか、副流煙の被害すら些末としか思わないほど、喫煙者に対して無関心だった。世間から憚れる行為とは知っている。しかし彼自身がそれを倫理的に悪に思うかは別であり、大人であろうと子供であろうと、誰が喫煙しても構わないと感じる。違法薬物に対しても似たように思う。
だからこそ、めぐりとはなんの偏見もなく過ごせた。少し匂いについて考えるものではあるが、彼自身、孤独な旅を埋めてくれるものが欲しかったのかもしれない。タバコの匂いなんて気にしなかった。
今、そんな道雄は若干の危機感を覚えている。
今更の様にも、未成年で、脳が未発達だろうめぐりに、これだけのニコチンを摂取することは明らかに異常を及ぼすのではないか。肺癌どころではなく、脳の萎縮がとんでもなく加速するのではないか。そんな疑問を抱かざるを得ない。
道雄には高々の数本で体に異常が起こるとは思えない。それに対する知識も薄いものだから、余計に懸念は外にあった。。事実、昼間まではめぐりの健康被害に対しては微塵にも気にしなかった。興味がなかったからである。
しかし、量が量ともなると流石に第三者としては懸念せざるを得ない。
めぐりが消費したタバコの量は、すでに20箱を超えている。