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第15話 怒りの日

2月2日 8時30分

雲だ。雲が浮かんでいる。


掴めばそれは一体。だがそれは霧散霧消する。


つまりは雲を知らない。おおよそ知ったつもりになる。またそれは存在しているのに、空気のように受け入れる。それを吸っては吐く。吸っては吐く。



…………



 本田は獄中や精神病棟ですら聞かないような生活音によって、目を覚ますに至った。嗅覚を擽る臭気もえげつない。人間の吐しゃ物、廃棄物がそこらに落ちている。ドラッグの臭いも混ざり、またそれが常人には吐き気を催す。


「ひっでえ匂いだ、ここ」


 未だに視界が覚束ない、揺れる頭をなんとか戻し、傍にあった机に持たれる。本田は蒼に見捨てられ、感染者たちのおしくらまんじゅうにされた後、どこかの教室に放り込まれたらしい。もちろん、教室の様子は凄まじく、机や椅子は辺りに散らばっていて、壁や床には傷が散見される。


緑の煙が充満しているその部屋には、感染者が数人。しかし、彼らは監視の役割は無いようで、本田が自由の身になっているというのに、ボソボソとなにか呟いているか放心しているか、たまに黒板に頭を打ったりしていた。それとも、もう本田は死んだものだと思っているのか、それとも監視の必要が無いと思ったのか


どちらにせよ、本田にはすぐに行動を起こせる体調ではなく、ひとまず呼吸を整え、ぼやける視界を張り手で脳を刺激する。そしてポケットから煙草と使い古したライターを取り出す。スーッと勢いよく吸い込んで、そして同じように吐き出す。タバコの灰が教室の床に落ちても気に病む様子はない。緊急時だからか、通常より酩酊がどうにも感じられない反面、体や頭が軽くなったように感じる。脳は冴え、ぼんやりとした視界も次第に靄が晴れる。タバコを2~3本ほど灰にして、そこらに放り捨てると、随分と本田のコンディションも回復した。

 

「今日は一段とウマいわ」


 最後のタバコの火を踏んで消す。次第に笑う余裕も生まれる。


 腕時計で時間を確認すると、もうすでに校舎に侵入して六時間以上経過していた。本田は苦いものを噛んだ顔で驚愕しつつ、頼りの蒼を捜索するか校舎から抜け出すか考えていた。そして、ポケットに入れていたスマートフォンが見当たらないのに気付く。少し考え、頭脳が優れる感染者がいたと推測できた。


「逆に、外部と連絡されるとマズイってことだな」


 本田が確信をすると、すぐに行動に移した。重い体を起こし、忍びの足で廊下にまで抜け出す。明朝の光が廊下を照らし、廊下の先で這いつくばっている感染者たちが何人も確認できた。本田はそれを同じく慎重に避け、一階につながる階段へ向かう。活動している感染者や緑の煙が少ないことに若干の違和感から、本田の緊張感は増した。


「うぅ……うう……」


 学生服を着た男がうめき声を出す。


「かあちゃん……かぁちゃ……」


 本田はどんな顔を付ければ良いか迷い、咄嗟に目を逸らした。ドラッグ中毒者を嫌悪し、差別してきたが、実情は無知で不幸な子供の気の迷いである現実が目に痛かった。彼は今後、ドラッグの後遺症でどれだけの代償を背負うのだろうかと思うと、無性に頭痛を起こした。


 逃げるように会談へ辿り着く。耳を壁に当て、行き先の物音を探る。スマートフォンを取り上げた賢しい感染者がいるならば、この時間に警備の役割をしていてもおかしくないからだ。そして、それは実際に的中した。


「おぅ! キィが死!」


 発達障碍みたいな声が一回の廊下に響いた。


「ニンギョ! ヤバ! ヤバ!」


「うぁあぁううううええああ!」

 

  ネジの外れた言葉たちが騒がしく鳴る。どうやら、学生くらいの男が数人、廊下にいるのが見て取れた。本田はできる限り近づいて、それらが読み取りやすい位置を陣取り、静かに息をひそめる。


「蒼! ソ!」


「ヒトジジ! オコ! オコト! タギグチ! タギグジ!」


 オコト……男……? タギグチは谷口……?


 妙な運命が本田の背中を押した。あの障害的な言語の解読を、本田はたまたま正しく解釈してしまった。何かが間違えいれば、特別に賢くない本田は白痴の会話としか思わなかっただろう。


「谷わ死! あべば、男!」


 3人の賢しい感染者の死角を縫うように、鉄パイプを持った本田はやって来た。かすかに見える彼の表情は、どこか赤く、怒りに任されているかのようだった。


 一人がそれに気づく間もなく、本田は近くにいた感染者の背中を力いっぱいに鉄パイプで叩きつけた。それは鈍い音を立て、壁にまで落ちるように飛ぶ。


 先制して間もなく、特別に反応が良く、本田に気付いた感染者の腹に鉄パイプを突き、そのまま振り上げるように顔へ棒を打つ。そして服の襟を握って投げ飛ばす。3人目も似たように退ける。


「おい! お前!」


 先ほどまで主体して会話していた感染者を拘束し、本田は尋問を始めた。


「谷口って言ったな! 谷口がここに来たのか!?」


 拘束している感染者は、泥にでも浸かっているような苦い顔をし、呪術みたいな声を漏らしていた。


「答えろクソガキ!」


 本田はそいつの指の一本を折った。「いぎぃ!!」と悲鳴を上げるが、するとそいつは逆に笑いだす。ニヤニヤ顔をして「いふぃふぃ、ふぃーっ、ふぃーっ」と息を荒げる。それが本田の癇に障り、指をまた1つ潰した。


「うっ!?」


 しかし、してやられたのは本田だった。今度は彼の背後で、ついさっき鉄パイプで吹き飛ばした感染者が意識を戻し、腕だけの力で這うように近づき、本田を突き倒した。急襲を仕掛けた感染者はそのまま本田の首元に手をかけ、握りつぶすような力で締め上げる


「くっ、くううそがっ!」


 本田は必死に抵抗するが、本気を出した感染者のパワーは常人以上だった。さっきまで拘束していた感染者は、痛みのショックでただ活動が衰えていただけで、アクティブの感染者は一般人よりも力が強いはずの本田でさえ、無力だった。抑えられる腕はコンクリートで固定されているように動かない。逆の手や足で攻撃をするも、感染者は動じない。その上、息の根が止められ、次第に本田のパワーも弱まる。


 ぺっ!

 

 本田は、窮鼠猫を噛むというべきか、どうしようもなくなった最後の抵抗として、抵抗者に向け、唾を吐き捨てた。


 これが、本日の本田が見せた最大の運命の微笑みだった。


 感染者の顔の一部、それも唾が付着した部分が、硫酸をかけたように溶けた。


 「ぎええええええええええっ!」


 感染者が見せた、唯一の人間らしい悲鳴だった。そいつはのたうち回り、声にならない悲鳴を辺りにまき散らす。


 本田は訳も分からない、という顔でそれを見届ける。絞められていた呼吸を整えているために、頭の回転も悪い。自分が奇跡的に助かった実感さえ掴めない様子だ。


「何をしているんだい? きみ」


 超スピードで、蒼が突然現れる。蒼の身なりを見ると、所々に汚れや傷跡が見当たった。黄との戦闘だけじゃなく、どうやら本田が退けたあの3人みたいな知能を持った感染者とも戦闘していたらしい。


「はぁ、はぁ、お前なぁ……もういいや」


 憔悴する本田を横目に、蒼は悶え疲れたのか死んだのか、痙攣するだけの感染者を観察した。


「やっぱり、凄い偶然だね」


「何がだよ」


「ふふっ」


 怒る気力さえない本田をからかっているつもりなのか、蒼は勿体ぶった上に馬鹿にしたように笑った。


「きみの唾液に、感染者のアンチとなる成分が含まれているよ」


「はぁ……? 何でだよ、意味が分からん」


「おそらく、煙草だね。煙草のニコチンとタールは、マザーの細胞を破壊する効果があるらしい」

 


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