第1話 インナー・ヴィジョン
2017年 8月27日 16時00分頃
とある心療内科にて
「アスペルガー症候群ですね」
その医者は、医者とは思えない格好をしていた。髪の毛はワックスで前髪を上げた七三ヘヤー、30代半ばくらいのくせ、使い古していない高そうなスーツを着ている。一見して、財布の懐が太いだろうサラリーマンという風貌だ。
そして、その医者がいるその部屋も、精神病学の本が並んでいる以外は、おしゃれなモダンな雰囲気がある。高そうなオフィスディスクにチェア、木製の加湿器から流れて来る蒸気は照明のせいか、カラフルに彩られる。バックグラウンドで流れる音楽は、精神病学的に脳をリラックスさせる効果でもあるのだろうとわかる。
「自分が病気だと思ったことはありますか?」
「いえ、ないです」
青年は強気な口調で言い返す。
「自分は、こういう性格とは知っています。ですが、難儀だと思ったことこそあれど、病気まで昇華したことはないです。単純に、こういう性格なんです」
「でも、その性格で生活に支障が出てるでしょ? 事実、君は成績が不安定でわからない課題があっても、他人に尋ねることができない」
「生活に影響がない性格なんてないでしょう。怒りっぽい人も、弱気な人も、その欠点を自覚しつつ、してない場合もあるでしょうが、それなりに折り合いをつけながら生活するもんだと思いますが」
「ええ、折り合いがつかなくなったら、それは病気です。そして、貴方は折り合いがつかなくなりつつあるでしょう」
青年は、それを聞いて、少し熱くなりつつあった。自分の意見が通らない事への不満か、医者の棘のある言い方が気に食わなかったのか、自制心を忘れつつある。
「そこまで支障が出ていますかね」
「ええ。高校や大学で友達が一人もできたことがないのであれば、やはりその性格は病気と言えます。他人に興味がない、趣味には熱意を注ぐけれど、仕事や勉強にはそれがない。空気が読めない発言をする。会話が終わっていないのに、別の話題を繰り広げる。典型的なアスペルガー症候群の症状です」
「単に、自分が勉強に身が入っていなかっただけで、自分の性格なんて関係ないです。友達がいなくても、いなくなっても支障があるなんて思いません」
苦し紛れで出た言葉だった。青年自身も、自分が病気である実感がジワジワと侵食していくのがわかった。医者は青年の苦い顔を、じっと見つめていた。矢継ぎ早に反論されると青年は身構えていたが、肩透かしだった。
「でも君、喋れないってわけじゃないんだよね。コミュニケーションの能力が著しく欠落しているというわけでもない」
「どうでしょう。でも俺、大学では全く喋りませんし、声をかけてきそうな顔見知りとは席を遠くするようにしてますね」
「大学の人たちとは喋れないのかな? もしかして、何かあったの?」
「いえ? ないと思います。でも、喋りたくないですね。一対一ならなんとか喋れるんですけど、グループだと委縮とかは良くします。ああ、あと文系の人はアレだけど、理系の大学生ってみんな勉強熱心ですから、レポートとか授業の話題になると、自分の馬鹿を露呈するのが嫌になって、結局何も言えなくなるみたいな、そういうのはあります」
「なるほど、つまりは劣等感」
「はい。そうですね」
「高校生の頃はそう言うのはなかったのかい? 確か、高校生の頃も友達がいなかったんだって?」
「ええ。まぁ……そっちは大した理由ではありませんが」
「大した理由もなく、独り身を過ごせるの?」
「ええ。慣れれば楽しいですし。性にはあってます」
「ふーん、で、その理由ってなに?」
「俺、中学の頃にいじめられてたんですよ」
「はー」
「当時の俺は……馬鹿なりに真面目にやってたですよ。勉強がダメでも部活には力を入れようとか、クラブの連中が面倒がっていた夏の朝練も行きましたね。これが色んなクラブの人材が混ざるから、朝からキツくて嫌になりましたよ。でも、真面目にやればやるなりに身になると思ったんです」
「で、ダメだったんだ」
「まー、そうですね。真面目にやって褒められて、見えないなりに実力が付く……そんな公平な等価交換がみんなに落ちてくるほど、人間の関係って楽じゃないです。まぁウザったいんでしょ、真面目になる奴なんて。実際、今の俺も共感しますよ。大学の連中がもっと不真面目になってくれれば、教授も単位を習得させてくれるラインを引き下げるんじゃないかってね。これは、自分も認める人間の本性です。別に中学の頃にそれを理由にちょっかいをかけてきた輩を、恨んではいません」
「偉いね」
「まぁ、怖いとは思いますけどね。久々に会った時、過呼吸に近いんでしょうか、何もしゃべれませんでした。高校の頃は、それを引きづっていたのか、関係を作る気になれませんでした」
「ふーん」
男は少し思惟を見せた後、
「もしかしたら、人間にトラウマを持っているのかもしれないね。今は飄々と語っているけれど、関係を作るのが怖いとか」
と切り出す。
「まぁ、そうかもしれませんね。だから実際、自分がアスペルガーって診断には少し疑問がありますね」
「しかし、私としてはトラウマが原因とは思えないんだよね」
青年はその言葉が信じられないのか、一瞬、視線が動く。それなりの理由を語った自負があったにもかかわらず、医者の診断が揺るがなかったからだろう。
そんな青年に気付いているのか気付いていないのか、医者は一息ついて、腕を組み、話をまとめ始める。
「確か、お父さんの勧めでここに来たのでしたっけ?」
「ええ。両親は、この性格をとても心配しているようです」
「では、とりあえず、お父さんには君がアスペルガーだったとだけ伝えてください。そして、もし君がここに来る必要がないと思うのであれば、無理に通院を勧めません。ですが、これだけは覚えておいてください。他人に興味がない、怖い、関係を持ちたくない、が通じるのは学生のうちですよ。就職をした場合、必ず付き合いというものが必要になります。それを治すのであれば、今のうちです」
青年は医者の言葉を否定しないほどには冷静だった。その言葉はほとんどが正論だったし、納得はしなければならないものだとわかっていたからだ。
しばらくは毎日17時00分に投下します
投下する時間は人が良そうな時間だからという理由なので、変えるかしれません
変えないかもしれません
約20話のストックがあり、最終話もそろそろ書き終えるつもりなので、それが続くように努めます