上
恥ずかしながら、我が家、ホルガ―伯爵家の家計は、目下のところ火の車だった。
元々隣国のイリリア王国出身であった、初代ホルガー伯爵がガルシア王国のこの地にやってきた時、ホルガ―家は国王からそれはそれは、広大な領地と屋敷を与えられたはずだった。
だが善良だけが売りの初代ホルガー伯爵には、領地経営のセンスはなかった。彼には息子がいなかったので、次女の息子である、私の祖父が後を継いだ。
そして怒涛の勢いで財産は目減りしていき、今や我が家が所有しているのは、やたらデカくて管理はおろか、掃除にすら困る、古いくせに図体だけはバカに立派な「ホルガ―城」だった。
ちなみに近隣の村からは、「お化け屋敷」と素敵な通称をつけられていた。
ただボロいからだろう。お化けは出ないはずなのだから。
この日私は、困っていた。
父から去年紹介されて依頼、たまに会っていたドムナ子爵が、私と婚約をしたい、と父に申し出てきたのである。
父は乗り気な様だったが、私はこの子爵がちっとも好きではなかった。
家のためには、結婚しなくてはいけないのは分かっていた。
でも、どうしても納得できない自分もいた。
だから私は愛馬に乗って一人、母の墓へ行った。
母の墓へ行き、相談をしたかったのだ。
墓前であれこれ頭を整理しても、答えは出せなかった。
自分の道を、自分で決めることができない不甲斐なさを噛み締め、頭を冷やそうと森の中を馬で疾走した。
風は混乱を吹き飛ばし、私の頭の中を徐々に冷静にさせた。
ようやく馬を止め、来た道を振り返る。
馬を走らせたとて、私が置かれた状況が変わる事はないのだ。
私にはこのまま引き返し、家へ大人しく帰るほか、道はない。
そうして、あのドムナ子爵と結婚するしかないのだ。
ふと自分の手首に手を触れ、ぞっとした。
つけていたはずの腕輪がなくなっていた。
散々走り回ったせいだろう。
「嘘!! どこで……?」
途中まではあったはずだ。手首で揺れていたのを、はっきりと見ている。
焦りながら馬をゆっくりと歩かせ、馬上から金色の腕輪を探す。
だが私の落とし物はなかなか見つからず、じきに夕暮れが迫り、視界が悪くなってきた。
焦燥感は時間とともに、絶望へと変わり、私は馬から降りて半狂乱で森の道を歩いていた。
「何をしている?」
よほど混乱していたのだろう。
背後から声をかけられたとき、私は突然後ろに見知らぬ人が現れたので、驚いて悲鳴を上げた。
声をかけてきたのは、栗毛の馬に跨った背の高い男性だった。
その男性の綺麗な顔に一瞬意識を取られたが、すぐに私は地面に視線を戻し、道なりに歩き始めた。
「こんな時間に君は何をしているんだ」
男は再び声をかけてきたので、振り向きもせずに私は答えた。
「落とし物を探しているんです」
「何を落としたんだ?」
「大事な腕輪です!」
男は必死に探す私を、パカパカと馬で追っていた。
探し物に集中したいのに、邪魔しないでほしい。
男性はしばらく私を遠巻きに観察していたが、じきに馬から降りて、私のところへ歩いてきた。
「もう暗くなる。帰った方が良い」
「見つけるまで、帰れません」
「では私も手伝おう」
なんて良い人なんだろう。
邪魔だなんて言ってしまって、申し訳ない。
私が落し物の特徴を説明すると、男性は親切にも共に道を延々歩き、探すのを手伝ってくれた。
木立が途切れ、月の明かりが雲間から漏れた時、彼が私の顔を凝視していることに気がついた。
私はそんなにもおかしな顔をしているだろうか。
だが男は意外な事を言った。
「どこかで会っただろうか?」
思わず男の顔をひたと見た。
夜の闇に紛れる漆黒の髪に、異常に整った顔立ち。一度でも会ったことがあれば、絶対に忘れたりはしないだろう。
私は首を左右に振った。
又道を歩き出そうとすると、彼は私の前に立ちふさがる様にしていまだこちらの顔を覗き込んだ。
「いや、どこかで会っている。間違いない」
間違いなく、会っていない。
あまりに真剣な眼差しで私を見つめてくるので、恥ずかしくなる。逃げる様に彼の視界から離れ、探し物を求めて歩き出す。
落し物は見つからなかった。
陽が完全に落ちると、彼は私に帰るよう、説得をしてきた。
その夜、私は人生で最大の後悔をしながら、帰宅した。
あの腕輪は私の母と、曽祖母の形見でもあったのだ。
翌日、日の出と共に落し物探しを続行した。
疲れて道端の大きな岩の上に座り込んで休憩をしていると、馬に乗った男が現れた。
昨日もここで会った男だ。
「また会えるとは、光栄だ」
「…………この近くにお住まいなのですか?」
今まで会った事がない。
近隣の貴族とは交流があったはずだが、違うのだろうか。彼の身なりや乗る馬の美しさを考慮すれば、貴族の様にみえるのだが。
「いや、友人の家に遊びに来ているだけだ」
それを聞いて少しガッカリした自分がいた。ということは残念ながら、短期間しかここにいないのだろう。
私が朝からこの道を、しぶとく歩き回っていると知ると、彼は馬から降りた。
「私も又一緒に探そう」
彼は歩きながら私が昨日、一人で馬を爆走していた理由を尋ねてきた。
「婚約を受け入れるべきか考えたかったの」
「悩ましいお相手なのかな?」
「その人と結婚する自分が想像できないの」
「なぜ?」
一口でその理由を伝えるのは難しかった。
ドムナ子爵は、とてもお金持ちだった。
年齢も私と近く、性格も穏やかでその上優しかった。
だが。
ある時、私が彼に嫁いだら、どれほど贅沢をさせられるかを力説する彼の鼻の穴から、数本の鼻毛が飛び出している事に気がついてしまった。
一度気づくと、もうそれはドムナ子爵の顔面の中で、強烈な存在感を放ち、私の意識から離れてくれなかった。
彼が私に歯の浮く様なお世辞を語ろうとも、いかに私の家がボロくて崩壊寸前か脅してこようとも、もう私は彼の話に集中する事ができなくなっていた。
ドムナ子爵は前回最後に私に会った時、別れ際に初めて私にキスをしようとした。
間近に迫り来る鼻毛の束。
私はその事実に耐えきれず、堪らず彼を押し返していた。
そして稲妻に打たれた様に気がついてしまったのだ。
鼻毛とは結婚できない、と。
懸命に涙をこらえ、堰を切った様に自分の置かれた窮状を語ると、男はなぜかうずくまる様にして、肩を震わせていた。
様子がおかしい。
だが数秒後に気づいた。
男は必死に私から顔を背けて、文字通り抱腹絶倒していたのだ。
「な、何がそんなに面白いの!?」
「ごめん、ごめん。君はそれでも真剣なんだよね」
詫びながらも男は笑い続けた。
「酷い!私には一生の問題なのに」
「そう、そうだね。確かにその通りだ」
何度か咳払いをしてから、ようやく男は笑いを収めた。
一転して真面目な表情でこちらを見つめて来た。その青い瞳の綺麗さに、一瞬どきんと心臓が跳ねた。
「親にはそれを話したの?嫌なら婚約なんてする必要はない。今はそんな時代ではないだろうに」
「うちには新時代がまだ到来していないの」
拾った木の枝で道端に落ちる葉を避けながら、私は懸命に腕輪を探した。
二つと同じものはない腕輪なのだ。
男はやがて、長い溜息をついて私の横に並んだ。彼はただ、何をするでもなく私を眺めていた。
顔を上げると、彼は言った。
「いつまで探す気だ?」
「見つかるまで…」
「こんな森の中で、君の様な若い女性が、一人でうろついていたら危ない。」
忠告を聞き流して捜索を続けると、男は長い息を吐いた。
「私が何か腕輪を君に贈ろう。それで…」
「そんなんじゃ、ないの」
堪えていた涙がせり上がる。
あの腕輪は、母が七歳の時に母の物になった。今は亡き母の成長と、私の誕生を知る腕輪なのだ。
そしてその母にとっては、あの腕輪は自分の祖母の形見だった。 言うなれば、我が家の歴史でもある。
私はしばしば、あの腕輪の話を母から聞かされた。