王の神子
王の神子
暇を見つけては僕に会いに来る男はとても美しかった。独特の光を放つ銀髪、アメジストの様な紫色の瞳は綺麗なアーモンド型をしていて鼻筋は当然の様にすっと通っていた。がっしりとした体躯を目で追えば羨ましい程の長い手足がある。神秘的な色彩を持つ男のバランスは全てが完璧だった。まるで一枚の絵の様だ。対して僕はと言うと、黒髪に黒い瞳、これといった特徴のない鼻や口はそれぞれ無難な位置に配置されている。身体は男だと言うのに情けないくらいに貧相だ。僕はなんの面白味もない平凡な人間だった。そんな僕と美しい男。明らかに釣り合いが取れていない。男の目的は何だろう。何故僕に会いに来るのだろう。そもそもこの男は誰なんだろう。僕はそこまで考えて霧散の如く思考を打ち消した。心の奥深い所で誰かが叫んでいる気がするのだ。「思い出してはいけない」と。僕は誰かの意思を汲み取る事にした。だって疑問は酷く僕を不安にさせるのだ。だったら考えない方がいい。
ーー僕達は突然異世界へと飛ばされた。
僕の大好きな香りが鼻孔を擽る。金木犀の匂いが優しい季節だった。僕は学校から帰る途中で、隣には幼なじみがいたのを覚えてる。男なのにテレビで見るアイドルなんかよりもずっと可愛い顔立ちをしている幼なじみ。魅力的な彼はまるで引力を持っているかの様に皆の関心を引き付けてしまう。それは異世界でも同様だった。幼なじみは“神子”と呼ばれ、美しい男を始めとした異世界の人々に崇められた。一方僕の扱いは実に余所余所しいものだった。実際、余所者には違いないので雨風凌げる部屋と三度の食事を提供してくれるだけでも感謝しなければならない。そうは思っても無性に泣きたくなる時があった。日本に帰りたい。十六年間、真面目一徹に生きてきた僕が何故この世界に身を落とすことになったのか。ぼろぼろと、涙が次から次へと溢れてくる。高校生の僕に突きつけられた試練にしてはあまりにも大きく、そして理不尽過ぎた。多少の悩みはあったものの気楽に過ごしていた懐かしい日々を思い出す。同時に家族や友人の顔を思い出して僕は一層泣いた。寂しくて寂しくてどうにかなってしまいそうな時、唯一の同郷者である幼なじみを頼りたくなったが、彼は既にこの世界で確固たる地位を築いている。そう簡単には近付けそうになかった。それに遠目で見掛ける幼なじみは、美しい男の傍らでいつも楽しそうに微笑んでいる。どうやら寂しさを分かち合えそうにない。僕とは違い、幼なじみにはちゃんと居場所が出来ていた。
「すまないな、お前を元の世界に返してあげたいと思ってるんだが生憎方法が分からないんだ」
「有り難うございます。お気持ちとても嬉しいです」
いつも鉛の様に重い僕の心が少しだけ軽くなる。それは美しい男が僕を気に掛けてくれる時だ。彼はこの国の王で、僕が泣いていると時々こっそりと訪ねにきてくれる。
「ちゃんと御飯は食べてるのか?」
「ええまあ」
「嘘が下手だな」
王が苦笑する。何もかもバレているようだ。僕は正直に告白することにした。
「……すみません。毎日美味そうな食事を用意して下さってるのに。あまり食欲が出ないんです」
「そうか無理もない。可哀想に」
僕はふと気付く。僕に同情を向ける王も顔色が優れない気がした。恐れ多い事かもしれないが王に進言する事に決めた。
「あの、王もお元気がないようですが」
「えっ?」
王は一驚してまじまじと僕の顔を見た。王の紫色の虹彩部分が僕をしっかりと捕らえているのが分かる。みるみるうちに頬が上気していくのを自覚した僕は言葉を続けられない。
「仕事のし過ぎかもしれないな。じゃあまた来るよ」
しばらくの沈黙を王はそんな風に破って僕に背を向けた。こんな僕にも優しく、美しい王。徐々に遠ざかっていく背中を追いかけ、思いのままに縋りたくなったがそれは出来ない。王に駆け寄る幼なじみの姿が見えたからだ。僕には見せない笑顔で幼なじみの肩を抱く王。きゅううっと僕の胸が悲鳴を上げる。視線の先には王がいるのに確かな隔たりがそこにはあった。決して自惚れてはいけない、と僕は自分を戒める。王は幼なじみしか見ていないのだから。
『こんにちは王の神子』
僕を訪ねてくる奇特な者が王の他にもう一人いる。いや、正確には一羽か。僕は窓辺にちょこんと佇むツバメによく似た鳥を部屋の中へと迎え入れる。異世界の動物は言葉を話せるのか。初めて会った時、そう驚く僕にツバメは歌うようにくすくすと笑った。
『君が王の神子だから私の声が聞こえるのさ』
「神子って……神子は僕じゃないよ」
神子と呼ばれ敬われているのはただ一人、幼なじみだけだ。
『確かにあの子も神子だが、あの子は世界の神子で君は王の神子だ』
「どう違うの?」
『その名の通り、あの子は世界を君は王を救うのさ。人間達は忘れてるみたいだけどね。情けないね、神子は二人なんてほんの三百年前までは常識だと言うのにさ』
話が膨大過ぎて付いていけないが、僕にだって分かる事が一つだけある。
「この世界の事は分からないけど、僕なんかが王の神子なはずがないよ。僕は何の取り柄もない平凡な高校生だもん」
『何の取り柄もない子が私の声を聞けるとでも?』
ツバメは僕をからかう様に笑った。
「それはまあすごい事かも知れないけど、僕は本当にごくごく普通の、」
言い訳のような僕の物言いにツバメは呆れたように羽を動かした。
『自覚がなさ過ぎるのも考え物だね。君は間違いなく王の神子さ。証拠に王を心から愛しているでしょう?』
僕の黒い目が真ん丸に見開かれる。
「愛してる?」
確かに僕は王には好感を持っている。けれどそれが愛なのか、と聞かれればそんな大それたものなのかと戸惑ってしまう。高校生にもなるのに初恋の味を知らない僕には難題そのものだった。
『いいかい? 王の神子は王の孤独に寄り添う者。王の為だけに存在する光。王の為なら何だって出来ましょう』
「そうなんだ」
何と言っていいか分からなくて曖昧に頷いた。
『王は弱っている。王の神子よ、王に光を』
開きっぱなしの窓から風が流れ込む。ツバメはそれだけ言うと空へと舞い上がっていった。
「なにか欲しいものはないのか?」
数日振りに僕の部屋に訪ねてきた王の開口一番がそれだった。何だか今日の王はどこか落ち着かない様子でそわそわしている。珍しいな、と僕は首を傾げた。
「いきなりどうしたんですか?」
「いや、生活に不自由はないか?」
ーー君は間違いなく王の神子さ。証拠に王を心から愛しているでしょう?
優しい王の眼差しに僕はツバメの言葉を思い出してどぎまぎしてしまう。僕は自分を落ち着かせるように懐かしい思い出話を口にした。
「この世界にも金木犀があると嬉しいなぁ」
「キンモクセイ?」
「小さなオレンジ色の実がなっている木です。とても良い香りがする木で僕はその香りが大好きなんです」
「そうか興味深い。私も嗅いでみたいな」
「はい!」
王にも是非あの香りを届けたい。願いを込めながら、僕が頷くと王はふっと口元を上げた。
「実は今日は報告したい事がある。神子と結婚しようと思うんだ」
は、と息を呑み込んだ。今、王は何と言ったのだろう。世界中の時が止まってしまった気がして僕は呼吸する事すらままならなくなる。足元が覚束ず地面を上手く踏み込めない。一瞬、王の胸に飛び込んで自分が王の神子なのだと声を上げようと思ったが止めて置いた。僕自身さえ自覚がない事をどうやって王に伝えると言うのだ。何よりそんな戯れ言を吐いて嫌われてしまったらと思うと恐い。嫌われて、もう二度と僕に会いに来てくれなくなることを想像しただけで視界が揺らいだ。それならばいっそ。
「おめでとうございます」
呑み込んだ息と共にようやく絞り出せたのは心にもない額縁通りの言葉。涙は出ない。僕の全身が渇いていく気がした。
「やっぱり僕は王の神子じゃなかったよ」
殆ど独り言のように呟いた僕を察してか、ツバメは『そう』とだけ言った。
「ねぇツバメ。僕ここから出れないかな? ここじゃないどこかで暮らしたいよ」
『……王が悲しむよ』
「優しい人だからね。でも王は大丈夫。神子がついてるもん」
『逃げると言うならそれもよろしい。私は君の選択を拒みはしないよ』
「有り難う」
僕の背中を押してくれたツバメに心から感謝する。ツバメは着いてきなさい、と道標を示してくれた。僕は王の幸せを祈った後、城から抜け出した。
ツバメに案内されたのは森の中にある小さな小屋だった。辺りに人間の気配はないが、リスや小鳥など森に住む動物達が僕を歓迎してくれた。僕はこの地に腰を落ち着ける事にする。日本では与えられるだけの生活に甘んじてた僕に自給自足の生活は大変だったけど、動物達が手を差し伸べてくれたおかげで何とか形になっていた。ここは穏やかな空間で溢れている。しかし時々王を思い出してこっそりと一人で泣いた。その度にツバメの言葉が浮かぶ。
ーー王を心から愛しているでしょう?
僕のこの想いを、愛などという大層な型に当てはめていいのかは分からない。でも僕は王が大好きだ。どうか幸せでいて欲しい。笑っていて欲しい。僕はそう願っていた。
城を出てからどれくらいの時が流れただろう。動物達が傍にいてくれるので僕もそれなりに幸せな日々を過ごしていた。
『王が病に倒れたそうだよ』
「王が!?」
ツバメの一言に僕は顔を青ざめた。王の優しい笑顔を思い出す。助けなければ、と思った。不思議な事に僕なら助けられるという自信がわいてくる。ツバメに真っ直ぐな視線を向けた。ツバメは全て分かっているように頷いた。
『王の神子よ。心から王の為に願ってごらん』
「そんな事で助けられるの?」
『いや王の病は重い。きっと願うだけではすまないさ。王の神子よ。王が治る事で君に不利益な出来事が生じるだろう』
ツバメの口調は淡々としているけれど、僕が怯えるには十分な内容だった。一体不利益な出来事とは何だろう。代わりに僕が床に伏せるとか、僕の声が出なくなるとか、いやもしかして僕は死ーー……。元々ネガティブ思考の僕だ。碌な想像しか浮かんでこない。僕はそれらを振り払うように頭を振る。それでも、と思う。例え僕がどうなろうとも王を助けたいのだ。そう思った僕は勢い良く天に向かって祈りを捧げた。
ふわり、と心地よい香りが辺り一面に広がった。香りの元を辿れば美しい男の掌に行き着く。小さなオレンジ色の実がころころと踊っていた。
「君だろう? 結婚式の日にこの実を咲かせてくれたのは。急に生えてきたので驚いたよ」
「…………」
「色々とすまない。俺がもっと早く気付いていればこんな事にはならなかった」
美しい男が何を言っているのか分からなくて僕はただ聞く事しかできない。しばらくすると実の香りに誘われたのか一羽の鳥が姿を見せた。
「ああ小鳥これはダメだよ。大切なものなんだ」
美しい男が少し困ったように、でも楽しそうに微笑んだ。僕はその様子を興味深く見守る。鳥が何かを訴えるようにさえずった。