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01 暁のハーモニカ

勉強のために書かせていただきます。

ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いします。

 ――麦畑は黄昏に染められて、ガーネット色に輝いている。

 どこまでも続く地平線と、すっかり影だけになった森の木々。そして一面に広がる麦畑は、そのどれもが落日の訪れを教えてくれた。


 都市国家ユーフィリアの一角であるここメルクニル村は、秋の実りに湧いていた。

 人口百人程度の小さな村だが、その割りには住民の生活水準が高いのが特徴で、舗装された路面や排水溝、下水道等の各種ライフラインが整っている。

 それは前任の領主、アマリア・フォン・ラインハルトと言う貴婦人の業績だ。疫病が村に蔓延した際に私財を投じ、急ピッチで衛生環境を改善した。先進技術である上下水道を備え、石と砂利で水捌けのいい様に路面を舗装した。そして公民館を改装して感染者を隔離し、栄養のある食事を半年に渡って村全体へ配給した。

 その結果、疫病を防ぐ事は出来なかったが、二次感染は未然に防止できたのだ。死亡率は他所の町と比べても半分程度で、十人中二人と言った所。その功績を讃えられたアマリア婦人は、惜しくも疫病で命を落としてしまったが、村人から尊敬と感謝の念を込めて「聖母」と呼ばれている。


 降り注ぐ夕日をギラギラ浴びたハーモニカが、物憂げにレクイエムを奏でていた。

 その銀メッキの本体を咥えた少年は、音も景色も置き去りにして自分の世界に入り込んでいる。白い塗装の剥げた手摺に身を預け、慎ましい神官の様な雰囲気を醸し出したまま。風車小屋のてっ辺にある踊り場から、遠く遠く、どこまでも遠く、ハーモニカの音色を風に乗せて見送った。

 まるで地平線の向こう側に死者の国があって、そこに住む彼の両親の魂を鎮めているかの様に。


 少年の両親は、二年前の疫病で死んでしまった。

 場所はメルクニル村ではなく、遠く離れた都市国家ユーフィリア。

 当時、少年が八つの時。なす術なく弱っていく両親は、ただ少年に「みんなを、怨むんじゃない」と、うわ言を繰り返しながら死んでいった。

 周囲の大人は誰も助けてくれず、それどころか、少年を病原菌扱いして家の中に押し込めた。この時、少年ははっきりと血が凍っていくのを感じていた。


 ザワザワと、秋風に揺られた麦畑が鳴いている。演奏の唯一の観客は静かに頭を垂れたまま。

 少年のまだ幸せだった頃の思い出の中では、いつも父親がハーモニカを吹いてくれていた。もちろんそれはレクイエムなんかじゃない、ごく一般的な大衆音楽だ。

 デュークも母親も、父親の奏でる優しいしらべが大好きだった。

 やがて二人が去って、少年が孤独の本当の意味を理解する頃、彼を支えてくれたのは両親の思い出と形見のハーモニカだけだった。。

レクイエム――涙の日。依然として整理のつかないあの日の事を、デュークはただ奏でる事でのみ清算できる。

 その歌がこの世に音として溢れる間だけは、彼は家族との繋がりを感じていられる。冷たく堅い石の様になった心を少しずつ解きほぐしていったのは、ハーモニカの優しい音色だった。


 やがて、太陽が半身を地平線に隠した頃、自分の為の演奏会は終わりを告げた。

 ふと、腕に着けた蒸気時計―所持者の魔力を使い、蒸気とゼンマイの力で時間を刻む腕時計―に視線を落とし、目を剥いた。いつもより演奏に熱が入ってしまったためか、時間管理が疎かになっていたのだ。

 彼、デューク・ニコル・アウグストの両親が死んで早二年。都市国家ユーフェリアのスラム街で乞食同然の暮らしをしていた所を祖父に引き取られ、デュークはこのメルクニル村へやって来た。

 彼の祖父は元傭兵で、祖母とは大昔に死別している。現在、デュークは祖父と二人暮らしだった。

 そして、祖父のカミナリが落ちることをデュークは何よりも恐れている。彼は厳格で、時間には特に厳しい。

 現在時、午後五時四十五分。彼の家まで約二十分の道程だが、門限までは十五分しかない。一分遅刻する度に、腕立て伏せが六十回増えてしまう。五分×六十回は三百回。それだけはなんとかして避けたい。三百回なんか人間に出来る回数じゃない。

 祖父は、それを平然とやってのけるのだが――。


 都合三百回と言う自身の置かれた絶望的な状況を理解し、顔面蒼白になったデュークは、風車小屋から飛び出した。村の外周からドーナツ状に広がった麦畑を置き去りに、日没に暮れなずむあぜ道をひた走る。

 近くて遠い帰り道を、ただ一人馬車馬の如く。




「爺や、今度はあれが食べたいのだけれど」


 商店の軒先を改装して路上で串焼きを販売する店を、美しい少女が指差した。

 カトレア・フォン・ラインハルト。アマリア婦人の一人娘であり、今年で十歳に成ったばかりだ。

 母親譲りのプラチナブロンドの長髪は、動きに合わせてサラサラと波打っている。エメラルド色の瞳の上で切り揃えられた手入れの行き届いた前髪の所為だろうか、豪奢なフリルがいたるところに散りばめられたロココ調の黒いドレスの所為だろうか。

 全体的にあどけない、美術品の様な雰囲気を醸し出していた。


「なりません。あれほど食べたではないですか。第一、貴族が買い食いなどと……」


 額に深いシワを蓄えた老人が困った様に眉根を寄せた。仕立てのいい礼服に身を包み、カッチリ整えられた白髪交じりの黒髪が、首を振る度にわかに揺れている。

 串焼きを恨めしそうにねめつけると、ハァとため息一つ吐いて、カトレアは従者に向き直った。


「……久しぶりに屋敷から外に出たのに、こう言う時くらい大目に見てもらえないのかしら?」

「なりません。これも社会勉強の一貫ですので、お嬢様にはお金の使い方と金銭感覚を身に着けて頂きます」

「またお勉強なのね。爺や、私も息抜きが必要だと思うの。お勉強も習い事もちゃんとこなしているのだし、――ね?」


 カトレアは下から小動物の様に上目遣いに見上げると、柔和な笑みを貼り付けた。彼女の必殺おねだりスタイルだ。

 爺や――マリウスはカトレアに非常に甘い。今日も既に予算を超えて買い物をしている。カトレアの企みが分かっていても、マリウスには抗えなかった。


「では、最後に一つだけですよ?そろそろ日も暮れますし、お屋敷に帰ったら夕食もありますし……」

「分かってるわ、ありがとう爺や。さてと、何にしようかしら……」


 とはいえ、小さな村だ。出店の数も十に満たず、彼女もおおよそ店の位置は覚えている。

 ただもったいぶって探しているだけだ。それを買ったら楽しい散歩の時間も終わり、明日から再び淑女になる為のレッスンが始まる。

 その抑圧された生活に戻る事から、少しでも目を背けていたい。そう言った思いがカトレアの胸中に渦巻き、小さな歩幅がより一層狭くなっている。

 カトレアの門限は七時。楽しい時間は刻一刻と終わりへ近づいている。


 マリウスはそれ以上何も言えなかった。カトレアの横顔が酷く寂しそうだったからだろう。

 年端のいかない子供が、友達の一人も作れずに家督を継ぐ為の努力ばかりをする。その事が、彼には不憫に思えてならなかった。





 デュークは薄暗い路地裏を走っていた。既に村内に入り、近道を駆使しているところだ。それぞれの家から夕食の良い匂いが漂ってくる。

 現在時、午後五時五十六分。なんとか間に合った様だ。我が家はもう目と鼻の先、この小道の先の大通りを渡ったところにある。軽く上がった息を肩で整え、ラストスパートのために思いっきり地面を蹴った。

 見通しの悪い路地の先に、一台の目を引く馬車が見える。色とりどりの薬の入ったビンや、見たことのない道具の数々。そしてなにより、馬車の外装がこの地方では見られない様な独特な形状から、それが行商人の馬車である事はほぼ間違いないだろう。

 時間があったら見に行きたかった、と愚痴をそっと胸にしまい、加速したまま明るい大通りへ飛び出した。後ろ髪引かれる迷いを振り切る様に。


 だが、それがいけなかった。


 ――デュークは、誰かとしたたかにぶつかってしまった。


 衝突した反動で手から投げ出されたハーモニカと、受身も取れずに尻持ちを着いたデューク。

 ぶつかった少女が何事か喚いていたが、既に耳には入ってこない。

 天高く放られたハーモニカは、一際高い位置でギラギラと銀色の体を煌かせると、弧を描いてしたたかに石畳に打ち付けられた。


 呆然と、何が起こったか分からないといった様子で、デュークはその光景を眺めていた。


 あまりに一瞬の出来事で、もしかしたら悪い白昼夢かもしれないと思ったが、それは手から大切な何かが抜け落ちた喪失感によって即座に否定される。

 現実を受け止めるのにしばし時間がかかったが、改めてそこを見てみると、

 ――やはりハーモニカはバラバラに砕け散っていた。


 どっと絶望感に襲われたデュークの目の前に、先ほどぶつかった少女が憤怒の形相で迫って来る。


「……あなた、人にぶつかっておいて謝罪の一つもないのかしら?名を名乗りなさい、この恥知らず」


 冷ややかな口調とは裏腹に、少女は怒り心頭の様子だった。こめかみに浮かんだ青筋が、その度合いを物語っている。

 傍らに控えた付き人がオドオドとたしなめようとしているが、少女はそれを片手を上げて制止した。


 一方でデュークは、ただじっとハーモニカを見つめている。

 バラバラになり、ひしゃげた銀色のカバー。樹脂製のボディは破片を辺りに撒き散らしており、リードやプレートはボディのすぐ傍に転がっている。大惨事だった。

 現実検討力の低下したデュークは、胸中に渦巻く絶望を払拭しようとやっきになっていたが、何度瞬きを繰り返してもハーモニカが元に戻ることはない。

 少女はそれを無視と捉えたのか、一層声音を荒げて食って掛かった。


「あなた!何とか言ったらどうなの!?失礼にも程があるんじゃないかしら!!」


「ハー、モニ……カ……」

「……は?」


 少年はうわ言の様に繰り返す。


「俺の、ハーモニ、カ……。壊れちゃった……」

「あれはあなたがぶつかった所為じゃないの!!いいから謝りなさ」


 静かに、一筋の涙がデュークの頬を伝った。

 能面の様な表情のまま滴り落ちた雫に、自分でも驚いた様な顔をするデューク。それは彼が両親の死後初めて流した物だった。

 無表情の顔から次々に溢れ出す涙は人形が泣いている様な不自然さで、しかし止まる事を知らない。


「ちょ、ちょっと!何で泣いてるのよ!私が悪者みたい、じゃない……」


 明らかに狼狽した少女の言葉尻からは、咎める様子は掻き消えている。

 眉根を寄せた従者の老人は、誰にも分からないようにため息を吐いた。「やれやれ、またですか……」と、独り言ちながら。


 カトレアが外出すると、大抵なにかトラブルが起こる。

 今回は何もなく、安心していた矢先の出来事だ。マリウスの心労は一気に膨れ上がっていた。

 屋敷に飼い殺されている現状では、カトレアが常識に疎いのも、貴族である事を鼻にかけるのも、どうにも出来ない問題だ。


 だからこそ月一回の散歩があり、そこで少しでも世間を知ってもらおうと言う意図があったのだが、実際効果は微妙な所。

 環境のせいで不憫にもカトレアには友達が居らず、その事はマリウス自身憐れに思っていたのだが、何度進言しても旦那様は取り合ってくれない。

 決まって、「庶民と馴れ合っては貴族の品格が落ちる、カトレアは嫁にいって恥ずかしくないだけの教養と品性を身につければそれでいい」と、返されるのが常だった。


 雇われの身でありながらも、マリウスはカトレアの父が嫌いだった。自身の娘を政治の道具としか見ておらず、数年に一度しか顔も見せない。

 政治家としては優秀でも父親としては愚劣な男。現にアマリアの葬儀にも、彼は参列しなかった。


 それでもマリウスがこの家に仕えていたのは、前領主のアマリアとの約束と、カトレアをどこにも居ない孫娘の様に思っていたからだ。

 なんとかしなければ、きっとカトレアは不幸になる。

 アマリアからは、素敵なレディに育てて欲しいと頼まれたが、それだけではカトレアは決して幸せにはなれないだろう。

 どれだけ上辺を取り繕っても、その土台となる人間性が貧相なまま大人になっては、そこらに大勢居るダメ貴族等と同等になってしまう。


 カトレアには、そうはなってほしくなかった。

 庶民の出ながらに、長い間執事業に携わってきたマリウスは、その事を心から心配していたのだ。ただ、もはや従者としてしかカトレアに接することができず、寄る年波にも敵わない。

 後任予定の執事はカトレアが頑として拒否してしまうし、マリウスにも執事としての領分を超えた事はできない。まさに八方塞だった。



 執事が周囲のざわめきをジェスチャーでカトレアに伝えると、少女はハッとして周囲を見回す。ここは娯楽の少ないメルクニルの田舎村、少女の大声に何事かと思った野次馬が蟻の様に群がってきている。

思い切りバツの悪そうな表情で腕を組み、胸を張って少女は言った。


「……ノブレス・オブリージュ。貴族の名誉にかけて弁償させて貰うわ。私は、カトレア・フォン・ラインハルト。あなたはなんて言うのかしら?」


 商店や軒先の影から野次馬がチラチラと見守る中、少女は啖呵を切って見せた。

 デュークは涙を拭ってカトレアを見ると、驚愕に顔が引きつってしまう。ラインハルト家の名前自体は、祖父からよく聞かされている。

 睨み付けてくる切れ長の大きな瞳に一瞬目を奪われたが、すぐさま思考を切り替えて、デュークは名乗りを上げた。


「俺はデューク。デューク・ニコル・アウグスト。ぶつかってしまってごめんなさい。……あの、ハーモニカ直してくれるって本当?」

「貴族に二言はないわ。私は約束は必ず守るの、安心して頂戴。ねえデューク、日を改めて私の屋敷を訪ねてくれないかしら?あなたのタイミングでいいわ」


 この村に貴族は一つだけ。領主であるラインハルト家だ。村人なら誰でも彼等の事を知っているし、自宅が村役場になっている為に場所を知らない村民はいない。

――先の、デュークの両親が逝った疫病でカトレアの母親も死んでしまった。デュークがこの村に来たのは疫病騒動がひと段落ついてからだったので、直接接点があったわけではないが。

アマリアは最後まで村人の為に全力を尽くし、領主として持ちうる全ての権限を使って村民の救済に尽力した。

そのことは祖父から何度も聞かされていたし、ラインハルト家がこの村でどういう扱いを受けているのかも分かっているつもりだ。

数多くの村人は一命を取り止め、前領主である彼女はまるで聖女の様に村中から崇められている。村の中央にラインハルト家のブロンズ象を寄付金で立てる程、誰しもがラインハルト家に感謝しているのだ。

だから、その一人娘であるカトレアもまた、村の宝の様に思われている。

下手を打ったら祖父に殺されかねないと、カトレアが怪我をしてないのを確認して安堵のため息を漏らしたデュークは、義理堅いカトレアの物言いに胸中で頭が上がらなかった。


「じゃあ一週間後に。本当にごめんなさい。俺の不注意で壊した物なのに……」

「本当だわ、次からは気をつけてくれないかしら?あなたに出会う度に弁償してたんじゃラインハルト家はお終いよ」


 そう皮肉たっぷりに言われたが、もはやぐうの音も出なかった。居心地悪そうに立ち上がるとハーモニカの残骸をかき集め、一礼してとぼとぼと家路を行く。

 カトレアもまた従者を連れて反対方向へ歩いていった。


そして気付いた事が一つある。

現在時、午後六時十五分。

完全に終わったと嘆いたが、本当の地獄は家に帰ってから始まったのであった……。

当方遅筆の為、掲載は不定期となりますが、宜しければ最後までお付き合いくださいませ。

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