プロローグ 始動
少年は走る。
背後から迫る襲撃者を振り切るために走る。
全力で警告音を鳴らす生存本能に従って走る。
ときおり地面に茂るつる草や木の根が障害物として立ちはだかり、少年はそれを乗り越えて進まなければならなかった。
呼吸は荒く小さな口からゼエゼエと息がこぼれた。
わき腹が針を刺したように痛み限界はそう遠くない。
それでも少年は足を止めない。
地平線の向こう側まで緑が喰い尽くしたこの世界をひたすらに走る。
少年を取り囲んでいるのは薄暗いジャングルだ。
あたりにはこげ茶色の樹木が背筋を伸ばして真っ直ぐに立ち並び、朝露で湿り気を帯びた表皮をてらてらと輝かせていた。
樹木の高さは五十メートルから三百メートルまでと様々で、かつて繁栄を極めたメトロポリスを想起させ、悠然と地上を見下ろしている。
大地は細長い植物たちがはびこり、落ち葉と合わせてエメラルドグリーンの絨毯を敷いている。
上を見上げれば、幾重にも絡み合った枝たちが我が物顔でハイウェイを形成し、太陽の恩恵を独り占めにしていた。
深緑の葉の間から僅かに覗く空は、はるか昔と変わりない澄んだ青色をたたえていたが、今の人類に手が届くものではなかった。
少年は地下に建造されたシェルターで生まれた。
この時代にしては裕福な家庭に恵まれ、両親の愛情をたっぷりそそがれて育ってきた。
栄養価の高い食事や清潔な衣服など貴重な物を。
少年はすくすくと育ち勉強、運動ともに好成績で心根もやさしかった。
ただ好奇心が人一倍強く地上の世界に興味を抱いてしまったのは失敗だった。
少年のはるか後方ではこっそり忍び込んだホバートラックが、〈浮遊車両〉と呼ばれる乗り物の一種がオレンジ色の炎に包まれ黒い煙を噴き上げている最中だ。
積まれていた補給物資の数々はやがて灰になるだろう。
すべて襲撃者一体の仕業によるものだ。
車両の外ではピンク色にぬめる腸を腹部からこぼし、男女がうつぶせに横たわっていた。
それは少年の両親だった。
「あっ」
十分も走ったところで少年はつまずき水たまりにつっぷした。
手を足を顔をまっさらの白いシャツを泥水が汚す。
涙を浮かべながら顔を上げ足元を見ると、虎アリの足跡に雨水がたまり、ぬかるんだ窪みをつくりだしているのが分かった。
これに足をとられてしまったのだ。
これは虎アリのテリトリーに立ち入ったというサインであり、危機的状況であったが、少年がそのことに頭を巡らせている時間はなかった。
なぜなら虎アリなど比べ物にならない凶暴な襲撃者が、狡猾にこれ幸いと獲物の隙につけこんできたのだ。
少年の頭上で枝のきしみ、ねっとりとした風が吹いた。
次の瞬間、目の前に二本の脚が現れ泥を跳ね飛ばした。
眼前に立っていたのは体長二メートルほどの怪物だ。
全身を覆う緑色の皮膚にはところどころ苔が生えており、ヌメヌメと光っている。
手足には三本ずつ鋭いかぎづめを生やしており、縦に細長い頭部には顔面の三分の二を占める大きな目玉が一つ。
そして頭頂部からは怪物の腰のあたりまで一本の触手が垂れ下がっていた。
それは怪物の意のままに形を変える変幻自在の武器であり、この個体が一本級というタイプであることを示していた。
いま触手の先端からは刃渡り八○センチほどの白刃が現れ、悪魔的なきらめきを放っていた。
これが襲撃者の正体であり、この地球で食物連鎖の頂点に君臨する生物、〈オルカリア〉だ。
少年は顔を上げたままピクリとも動かなかった。
恐怖と絶望が感情を埋め尽くし、抵抗する気力をことごとく奪っていった。
最期に頭をよぎったのは両親の死のことだ。
二人は自分を逃がすために殺された。
それが余りにも悔しくて何もできないことが惨めだった。
オルカリアは少年を見下ろすと、何の感情もなく機械的にごくごく自然に頭の触手を振るった。
白刃が直線を描いて走る。
少年の瞳に映るオルカリアが縦にずれて見えた。
ややあって気が付いた。
自分の右目がまぶたと一緒にたてに切り裂かれていることに。
遅れて血液が飛び散り、真っ赤な華を咲かせた。
「うわあああ、あああ……」
悲鳴を上げ目を押さえる少年めがけて、オルカリアはもう一度、今度は息の根を止めるつもりで触手を振るう。
最初の一撃でこの人間という哺乳類と自らの力の差を理解したからだ。
このオルカリアは非常に慎重な個体で、どんな獲物の対しても侮ることはなかった。
獲物を仕留めた後は肉に種を植え付け、さらに仲間を増やしていくだろう。
コンマ数秒の短い時間の中で放たれた触手は正確に、刃を少年の心臓めがけて槍のように突き出され、
到達することはなかった。
「……?」
いつまでたっても決定的な瞬間が訪れないことに疑問を抱き、少年は痛む右目を抑えながら前を見た。
なぜまだ心臓が動いているのか知りたかった。
息を吸えることが不思議でならなかった。
そして瞳に映ったのは白銀のガントレット。
それがしっかりと触手の刃を掴んでいたのだ。
ガントレットから視線を移すと、そこには少年を救った人物がいた。
西洋鎧にも似た白銀のパワードスーツをその全身に纏っていた。
身長はこのオルカリアと同程度だが、横幅は一.五倍ほど大きい。
触手を受け止めた衝撃のせいか、頑丈そうな脚部が泥に跡を残している。
身じろぎをするたびにモーター音が聴こえた。
そして重厚なヘルムを黒煙が立ち上る方角へ動かした後、少年の方に振り向け声をかけた。
「遅くなってすまねえ。救難信号を受けてから全速力で飛ばしてきたんだが、間に合わなかったみてえだな……」
男の声だった。
声色から中年男性だということがわかる。
重くもの悲しい雰囲気を漂わせ今まで出会ったどの大人とも違う。
顔はバイザーで隠され表情を見ることは出来なかったが、怒り激しくで歪んでいるのだろうと少年は思った。
それはもしかすれば自分の怒りよりも深く、矛先はオルカリアと男自身に向けられていた。
「いくぜ、化け物」
男は言うと万力の力をこめ、今度は触手を両腕で掴んだ。
そして先につながっているオルカリアごと自らの頭の上でぐるぐると回転させた。
風を起こし小さな竜巻が発生してあたりに散らばっている落ち葉や小枝を巻き込む。
オルカリアはバタバタと手足を動かすがないも出来ない。
唯一の武器を抑えられなすがままだ。
そして男は遠方にそびえたつ巨木までオルカリアふっ飛ばした。
鈍い衝突音がこだまし上から葉がパラパラと落下する。
男一瞬そちらに目をやると、すぐさま腰を落としクラウチングスタートの体勢をとった。
自らの肉体を加速させ、一気に勝負を決めるつもりだ。
飛ばされたオルカリアは樹の幹に手をつき体勢を立て直そうとしたところで硬直した。
男が高速で腕を振り銀色のミサイルめいて突っ込んでくるのが見えたからだ。
慌てて触手を操作しようとするがもう遅い。
男は全体重とスピードを乗せたパンチ繰り出し、オルカリアの頭部を粉々に粉砕した。
果物を潰したような音が響き紫色の体液が噴き出す。
そしてパキンという音色が聴こえ、オルカリアの心臓と脳にあたる部分、〈核〉と呼ばれる紅い結晶が割れた。
核の消失を受け全身がタールのごとくドロドロに融け崩れ始める。
戦はあっけなく決着した。
あとには何ものこさず樹木の肥料になるだろう。
男は走って少年の元に戻ると、
「おい! しっかりしろボウズ!」
とても大きな声を出した。
それは少年の身を案じてのことで、本人はなぜ心配するのか分からず、右目から血を流し続けた。
やがて男の声を子守唄のように聴きながら、夢国へ旅立つように少年の意識は闇へと落ちていった。