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馨は慌てて姿勢を正した。
馨 「ごめんね。待った?」
kimi 「少しだけね。」
「kimi」?なんで「kimi」なんだろう。チャットでのHNは自分でつけられるのに。
HNは親の世代が自分達につけた名前とは感覚とは別のものだ。普通はもうちょっとナルシスに溢れた名前をつけるものなのに。
馨 「kimiさんって言うんだ?」
少し間を置いて返事が来た。
kimi 「変わっていると思ったでしょう?」
馨 「いや、別に。」
本名が、「公子」とか「貴美子」なのだろうか?
それはおいておいて、この女からは、返事がなかなか返ってこない。
いたずらだろうか?
そう訝っていると、kimiからの返信が書き込まれた。
「kimi ここにはよく来るのね」
「馨 うん。ほとんど毎日のように来てるかな?」
「kimi 私は、実は初めてなのよ。」
「馨 そうだと思った」
馨は納得した。
「kimi どうしてわかるの」
馨はちょっとためらった。
「馨 入力が、少しだけ遅いから」
彼女を傷つけていないかと少し心配になる。
「kimi ごめんなさい」
やっぱり言わなければよかったかな、と思いつつ、
「馨 いいんだよ。ここに初めてきた人は、大抵そうなんだ。」
と少しフォローしてみた。
「kimi そういえば、さっきの部屋では速すぎて話についていけなかったの」
初めてというこの女に少し興味が湧いてくる。
僕達には、慣れっこの、少しケバケバしい紫と黒と黄色のチカチカ派手な場所。
初めての人には、一昔前のキャバレーみたいな、このサイトがどう映るのだろう。
それに、ビアンサイトに入る時は、誰でもドキドキするものだ。
「馨 どう?ここに入ってきて」
kimiは驚きを隠せない様子だった。
「kimi まるで別世界がいきなり目の前に広がったみたいだわ…。」
馨も、ここを始めて「アンジュ」に教えてもらった時は、不思議の扉、妖しい世界の扉を開いてしまったような気がしたものだ。
「kimi おまけに専門用語が沢山出てきて、わからない事だらけよ」
「馨 例えばどんな?」
「kimi タチ、ネコ、トランス、フェミ、FTM?」
僕らには当たり前になっている言葉達。ビアンチャットを始めた頃には、僕も「タチ」だの「ネコ」だのがわからなくて困惑した覚えがある。
「馨 あのね、”タチ”はビアンの攻め側で、”ネコ”はビアンの受け側」
「kimi つまり…、タチは男っぽい人で、ネコは普通に女らしい人?」
「馨 僕らみたいに、男っぽい”タチ”もいれば、どっからどうみても女らしい”タチ”もいるの」
じゃあ…と彼女がためらいがちに尋ねる。
「kimi 馨さんは、かなり男らしい?」
「馨 いや…。」
「バリタチ」というと、何か「バリバリの男ファッションで決めた、カッコイイ人。もしくはイカツイ人」というイメージが僕にはある。
「馨 僕の事は、”ボーイッシュなタチ”とでも思ってくれると丁度いいとおもう。」
ビアンの集まるクラブで、頭を撫でられながら、「可愛い」とドラッグクィーンからおでこにキスされてしまう僕は、言ってみれば「ボーイッシュなタチ」というところなのだろう。
「kimi ”ボーイッシュなタチさん”ね。わかったわ。ところで、馨さんは、ここで彼女を探しているのかしら?」
「馨 そうだよ」
答えると、それならお邪魔じゃないかしら?とこの女は訊ねてきた。
やはり、特に相手を探しているという訳ではなく、インターネットをしている間に、迷い込んでしまったのだ。
時計を見た。もう1時か。待っていても誰もこない事もある。
それと、何も知識がない彼女が、他の部屋に行っても、落とされてしまうのは可哀想だ。
今日はこの「kimi」がラストのお客さんで、そろそろ部屋を畳む事にしようと決めた。
「馨 一応そうなんだけれども、別にいいよ。なんでも聞いてよ。」
「kimi 優しいのね。貴方は。」
優しいじゃなくて、単にお人好しなのだ。
「口説き」ではなく、普通のトークをするのも、新鮮な気がした。
一通り、用語について説明すると、この人は満足したようだった。
「私がチャット、不慣れだったので疲れたでしょう?」
「そんな事ないよ…」
子供にはない、落ち着いた雰囲気の彼女に、僕は好印象を持つ。
「馨 ねぇ」
「kimi ねぇ」
僕らは同時に同じ言葉を入れてしまった。
「馨 kimiさんからどうぞ」
「kimi 今日はとっても楽しかった。優しくしてくれてありがとう」
「馨 僕もなんだか不思議と楽しかったよ。こういうのも新鮮だね」
「kimi 私、チャットって、今日が初めてだったの。緊張したわ!チャットって面白いのね!」
この女が、少しワクワクしているように僕には思える。
「馨 そうさ。僕なんか、もう完全な中毒だよ」
「kimi よかったら、明日もお話できないかしら?もっといろいろなお話を聞かせてほしいわ」
そう!その言葉をなぜか僕も言いたかったんだ。
「馨 じゃあ、部屋を作って待ってるよ。明日の10時でOK?」
「kimi 了解。じゃあ、また明日会いましょうね。きっとよ。」
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もうすぐ5時。バイクを止めて、本社ビルに戻る。
ここは居心地のいい職場だ。
「よう!兄ちゃん」隣のデスクから人懐っこい声がする。
「よ!岡本君」
「なんだ、そそくさと仕事終わるのかぁ?」眼鏡の奥の目がいたずらっ子のように笑っている。
「爺さんに構ってる暇はないよ」
「なんだぃ、姉ちゃん。男とデートか?」
「んなもん、いないってば」
「ちょっと待ちなよ。一杯やって帰ろう。」
「駄目。今日はバイクだからさ。」
最後の書き物を終えると、僕はとっとと荷物を持ち、走るようにロッカールームへ行った。
自前のバイクに跨り、まだ日の高い街の中を駆け抜けていく。
風が地肌の間をすり抜けていく。なんて心地いいんだろう!!
マンションまでひと走りして、エレベーターを昇る。ドアを開けると、僕の城が広がっている。
畳にすれば8畳もないであろう部屋と4畳ほどのキッチン。
落ち着いたベージュでカーペットから、カーテンまで統一している、お気に入りのスペースだ。
「一人暮らしは寂しくない?」と聞かれるけれど、特にそう思った事はない。
なぜなら僕はそう、パパとママに守られているとわかっているからだ。
実は、そのパパさんと、ママさんは、一昨年からNYに住んでいる。
小さい頃に、東京から九州へ転校したママは
「日本国内でも大変なギャップに苦労をするのに、この子を外国になど行かせたくない!!」と泣いてパパに猛反対してみせた。
父さんは、コーヒーひとつ、母さんがいないと作れない。
まるで一昔前の父親のような人だ。
仕事場では、「鬼」と呼ばれているような人。
それなのに、そんな父さんが、実は母さんがいなくては一日でも耐えられないという事も僕にはわかっている。
僕を「自分の傍においておきたい」、と必死に説得するパパ。
「子供をおもちゃみたいに、好き勝手に動かさないで!私はここに馨と残るから!」と、めずらしく頑固になっているママ。
その日も二人は言い争っていた。
もう、二月も話し合っていて、埒があきはしない。
それぞれに想いがあるのはわかっているのだけれど、僕は二人の口論に耐えられなくなってくる。
苛々(いらいら)が頂点に達しそうになったその時、僕の頭の中に、ある光景が浮かんできた。
パパが一人でぽつねんと淋しそうに座っている。ママが実家に用があって家を空けた3日目の事だった。
「馨」
「うん?」
「…なんだか我が家から太陽が消えてしまったみたいだ」
僕だって、パパとなんだかんだお話しているのにそれはないだろ、とあの時は呆れたものだ。
パパときたら、母さんがいないだけで「毎日が夜中」になってしまうのだろうか。
ハッと我に返った僕は、「僕に提案があるんだ」言い争う二人に必死で割って入った。
そして、2週間かけて口説きに口説いた末、セキュリティ会社2社と契約する事、母さんの姉の家が隣にあるマンションに住む事を条件に、僕は志願して、一人ここへ残った。
もうあれから2年程になる。
僕は頭を切り替え、机の椅子を引いた。そろそろあの人を待つ部屋を作らないと。
PCでいつものあのサイトを探す。
どうにか9時30分には部屋が開くと、コピーペーストしていた文字を貼り付ける。
−kimiさん、来てください−
どうして僕はわくわくしているのだろう?
別にすぐ落とせる相手でもあるまいに。
そういえば、僕はkimiの事をまだよくしらないのに。
サイトでの口約束は多い。
本当に、彼女は来てくれるのだろうか?
パソコンの前で馨はそわそわしていた。
あのkimiさんて人は本当に今日も来るのだろうか?
どうやら、「違う世界を覗いて興味深々」チックな人だし。
別に僕じゃなくても、気のいい、親切なビアンがいれば、その人にいろいろ聞けばいい話だ。
いや、もう既に聞いているかもしれない。
10時じゃなくて、もっと早く部屋を開いておけばよかった、と後悔する。
銀色の四角いフレームの針時計を見上げると、時間は9時58分になっていた。
時計の秒針が10時を指す。
僕はもう一度エンターキーを押す。