3-4
「それもよかろう」
凄雀は正面から目を逸らさず言った。
耳を疑ってしまった。もっと厳しい詰問に、彩子は身構えていた。
「何が起きているかは、聞いたはずだな」
念を押され、これにはうなずくしかなかった。
「怖いか?」
チラリと、凄雀が彩子を見返した。
低く笑われているような気がして、彩子は顔を窓に背けた。凄雀がヒーターを操作し温度を上げた。
肩に回した腕を解いた。
けれども、彼女のことを考えるとゾッとする。
昨日の、欲望をむき出しにした女の声。耳ではなく、体中に張り付いている気がする。気を緩めたら、哀しいまでの渇望に巻き取られ、委ねてしまいそうになる。
彩子は目を閉じた。
あんなにも優しい御鷹姫の笑みを見せられたら。ほんとうに『もう、いいよ』。声をかけてしまいそう……。
かわいそうな人。御鷹姫には罪がないのに。
でも。
襲いかかる女に、慈愛に満ちた母の面影はなかった。
……あんなふうに、人間は変質していくのだろうか。
ただ狂ってしまうだけでなく。欲望の為だけに、どんな犠牲も視界には入らなくなるのか。
彼女一人の存在が踏みしだいてきた命に、彩子は思い当たった。……一体、何人居るのだろう。
「怖くはないか、君は」
感心したように、凄雀は吐き出した。
じんと、指先から温もりが登ってくる。彩子は左手で頬杖をついた。どうしようもなく、頬が震え出す。
「あ……!」
さほど急でもない右カーブ。遠心力でほんの少し浮いた肩を、凄雀がすくうように引き寄せた。
ふいを突かれた彩子が混乱している隙に、しっかりと腕を回しハンドルを握り直す。
子供のように抱きすくめられて、彩子は身動きできなかった。押し当てられた頬の下に、胸の鼓動が聞こえてきそうなほど。
「怖いならはっきりと言ってくれ。
意地を張るな。最悪の癖だ」
「……どうして、ですか? こんなのおかしい……」
助手席に誘われたことから、間違っている。
彩子の頬にみるみる血が登った。
「何がおかしい? 泣けない子供を、あやしているだけだ」
目を閉じて、彩子は少しだけ笑った。
「もう、大丈夫です。学園長代行?」
わざと彼の地位を引き合いに出した。
「面白味のない娘だ。もう少し女らしくなれないのか?」
頭に押し当ててくる顎を、首をすくめて避けながら、彩子は言い返した。
「あたしはまだ、子供ですから」
呆れて、凄雀はギアに手を伸ばした。助手席に座り直した彩子は、丁寧にシートベルトをかけた。
「行きたい所はあるか?」
「遊園地でも、いいんですか?」
「却下だ。家に帰っておとなしくしていろ。手間が省ける」
投げ捨てるような口調が、復活した。
「いつでも私が駆け付けられると思うなよ。私の教え子であるというだけの関係だ」
「わかっています」
忠告を素直に受け入れて、彩子は姿勢を正した。不思議なことに、誰のどんな言葉よりも気分は軽くなった。
「……私、学園長代行の選んだ理由が、わかりました」
教えても、凄雀の気紛れで突き放すような態度は変わらないだろう。軟化させるつもりも彩子にはなかった。
「代行は、騎道みたいに、命を賭けるなんて言い出しそうにないから……」
車は、まるで時間を稼いでいるかのように、馴染みのない道路ばかりを選び、事実、漂流していた。
凄雀はオート・ウィンドゥをわずかに下げ、煙草を片手で取り出し火を付けた。細い紫煙が、外へと吸い出されていった。
「よく、わかったようだな」
「はい……」
騎道は、危険過ぎる……。自分が傷付くことを恐れない男なのだ。
「……あいつには、あんな生き方しかできない。いくら矯正しても無駄骨にしてきた。
それでもああして生きているんだ。並の強運ではない」
凄雀の嘆きに、彩子はくすっと微笑んだ。
「二人と居ない、最強の騎士だ。……あの男は」
でも、無敵というわけにはいかないわ……。
彩子は唇を引き締めた。一人で、なんとかしなきゃ……。
「いいんだな? 帰るぞ」
彩子は我に返った。反射的にうなずこうとして、やめた。
必死に頭を巡らせた。このまま殻に閉じこもってしまっていいわけがない。騎道が造った、安全の中に。
「……あ、でも。私、住所がわからない……」
折角思い付いたのに、肩を落とすしかなかった。
「誰だ?」
「学園の一年生です。佐伯いずみ。9月の半ばから、ずっと登校拒否をしているらしいんですが」
「ふん。それも私の教え子ということになるな。
聞き流していたが、教師の遠田と関係があった女生徒だな。遠田が、一度謝りにきた」
登校拒否の理由までは、彩子は知らなかった。
「噂ほど深い関係ではなかったと言っていた。
遠田の夫人が事故にあって怪我をしたのは、自分のせいだと錯乱しているようだ。遠田は、佐伯がそんなことを言い出す理由がわからないと困惑していたが」
何かが、彩子の中で繋がった。
学園の裏手、御鷹姫の社。
あそこでは神称である白楼后と呼ばれる、女神の社の前に佐伯いずみは居た。
女や少女たちが、女神として祭られた女性へ、切ない願いを賭ける因縁の地に。
凄雀が携帯電話を取り出した。学園の事務室を呼び出すと、彼は佐伯の住所を調べさせた。
十数分後。降り始めた雨の中、白銀の車体は、佐伯の表札が掲げられた石造りの門前に停車した。
応対に出たのは、頬をやつれさせた若い母親だった。
いずみの、クラブの先輩だと彩子が告げると、疑いもせずに彼女は表情を明るくした。
おかげで、嘘を付いた後ろめたさを彩子は免れることができた。いずみの部屋の前に案内されて、一言頼んだ。
「しばらく、二人きりにして下さい」
すがるような目をして、母親は引き返していった。
苦悩しているのがいずみだけではないことに、彩子は事の重大さを再認した。
ほんの少しだけ、強すぎた感情。願い。紙一重の差が、不幸を呼ぶ。一つの始まりになる。
この世では。
感情も望みも、人が生きている証しなのに。
「佐伯さん? 起きている?」
ノックをし、すぐにノブを回してみた。
鍵はかかっていない。彩子は少しホッとした。
外界を完全に遮断するほど、心を閉ざしているわけではないのだ。誰かがドアを開けてくれるのを、心の底では待っていた……。ささやかな意思表示だと、彩子は思いたかった。
「……飛鷹…先輩……? ……どうして……?」
「よかった。名前、知っていてくれたんだ」
当惑は、すぐに警戒心に変わった。
リップを丁寧に縫った形のいい唇を、いずみは引き締める。膝の上に広げたファッション雑誌に視線を戻した。
「……名前だけです。あたし、先輩とは全然お付き合い無かったんですよ?」
気に入らない相手を無視するのは、好き嫌いの激しいいずみにとって、日常的な行為だった。冷淡な態度に戸惑う誰かを目の隅で眺めるのも、優越感をくすぐられる密かな楽しみの一つだった。
けれど彩子は堂々と部屋に上がり込んで、いずみがもたれるベッドの縁に、ぽんと腰掛けた。
弾んだスプリングに、いずみは驚いて顔を上げた。
「かわいいっていうより、女らしい感じの部屋ね。
香水の匂いがするし。あは。でも、縫いぐるみが一つもないのは、あたしの部屋と同じだな」
いずみは、ぽかんと彩子を見上げてしまった。
言われてみれば、縫いぐるみなんて、みんな妹にやってしまった。お気に入りだったキリンも、子供っぽいからと全部押し付けた。
タンスの中身も同じだった。子供っぽい色はダメ。子供っぽいデザインなんて、考えられない。あたしは……大人の女になるの……! そうして……。
なのにあれから、美容院にも行ってない……。 伸び切った髪を耳にかけながら、いずみは彩子を睨みつけた。まるで自分をこんな目を会わせた、張本人であるかのように。
「そんなに怖い顔しないで。先生のお使いで来たわけじゃないのよ?」
「じゃあ帰って下さい! あたし、これから美容院に行かなくちゃ。こう見えても結構忙しいんです」
「そう? ごめんなさい? 途中まであたしも付き合っていいかな? 珍しいわね。外に出るのは何日ぶりかな?
お母さん、心配なさってたから喜ぶわよ?」
立ち上がりかけていたいずみは、根が生えたように座り直した。雑誌を払い落とし膝を抱えた。
「誤解しないでくれる? お母さんに頼まれたから、来たわけでもないのよ」
彩子はのんびりと訂正して、ベッドの縁で足をぶらぶらさせた。
「聞きたいことがあるの。話してくれるまで、帰らないよ」
いずみは背中を丸くして、膝に顎を乗せた。可愛い抵抗に、背後で彩子は含み笑いを浮かべてしまった。
「佐伯さん。白楼后の社で願い事をしたんですって?」
「何のことですか? わかりません」
いずみの後ろ姿は、固まったまま。
「ちょっと。そーゆー態度、失礼だぞ?
ほんっとに、わがままな子ね」
「そーゆーのも、失礼ですっ。不躾って言うんですよっ」
「いいから、こっち向いてよ」
「ほっといて下さい! あたしなんて、誰も心配してくれないんだから……!」
彩子は大袈裟な溜め息を、いずみに吹き掛けた。
「誰に心配して欲しかった? 遠田先生?」
「みんなです。梶原も、逸見も。座間くん、山路、秋田三間菅野もっ。……誰もお見舞いにきてくれないんだからっ」
「あなたは行ったことあるの? その人たちのお見舞いに」
ぐっと、いずみは息を飲み込んだ。
「ね、一応聞くけど。その子たち全員、あなたの彼氏?」
「ええ。最低でも2、3日は付き合ってあげましたけど?」
「……。どーして、そんなことするのっっ?」
「勿論。意地悪してるんです」
だーっっ。
「あのねっっ」
「……仕返しです。いろんなものねだって、甘えて。うーんと嬉しがらせてから、ドーンと突き落としてやるの。
男って軟弱だもの。頭悪いし、単純だし。
ちょっといい顔すると、簡単に言うこと聞くんだ……!」
ぱちんと、いずみの頬が鳴った。
「痛ったーい」
「彼等に殴られなかっただけ、助かったと思うのね」
お邪魔しましたった。言い捨てて、彩子は立ち上がった。
「! だって、向こうが悪いんだもの!
いつの間にか追い抜いてくれて。男だからって威張って、人を見下して……。背だって高くなっちゃうし、全然、変わっていっちゃって。
あたし……、追いつけないのが悔しかった……!
ほんとの中身は、全然子供っぽいのに……。あいつら格好つけて、バカみたいで……!」
「……そうね。同じ所に居たはずなのに、向こうだけ、一歩先に進んじゃうんだよね。
……守ってやってるって、身勝手な顔して」
いずみは、彩子にこくんとうなずいた。
「でも悔しいけど。ほんとに、庇ってもらいたくなるらい、あたしたち全然弱いわ。腕力じゃ勝ち目はないしね」
「先輩、守ってくれる人が居るんですか?」
目の色を変え、いずみは擦り寄ってきた。
頬を堅くして、真剣な瞳をしばらく見返してから、観念したように彩子はうなずいた。
「羨ましい……。あたしなんて、誰もいなかった……。
……みんな、一番大事な時に知らん顔して。
うん。それも仕方ないくらい。ひどいことしたんだ……」
「佐伯さん」
いずみは、座り直す彩子の膝にすがりついた。
「先輩だけで……。来てくれたの、飛鷹先輩だけ……。
あたし、先輩のこと嫌いだった。いつも颯爽としていて、男子たちと対等に口利いて、言葉で負かすことが出来て。
一番嫌いなタイプだって決めてた。……でも本当は、一番、理想の女の子なの。
先輩が、自分を弱いって認めるの似合いません。同じこと考えてたなんて。……少し、嬉しいけど」
彩子は、いずみの頭をなでる手を止めていた。
彼女が自分の鏡のようで、一瞬、背筋に冷たい違和感が走った。できることならその瞬間、いずみを放り出したい気分に駆られ、そんな自分が怖かった。
しがみつく暖かさが、それを引き止めていた。ほっとしながら、後ろめたい肌寒さを押さえて、彩子は話題を変えた。
「佐伯さん。教えてくれないかな?
私、あなたが社から出てくる姿を見たの。その三日後に、あなたは登校拒否を始めたよね。なにがあったの?」
「…………。何もありません! 何も……!」
顔を伏せて、いずみは頭を振った。
「怖くなったんでしょう? ほんとうに起きるなんて、思ってなかったから。けれど遠田先生の奥さんは事故にあって大怪我をしてしまった」
「やめて……! 関係ないよ!」
小刻みに、いずみは肩を震わせた。
「つらいでしょうけど、本当のことを話してくれないかな。
私、責めに来たんじゃないの。知りたいの。
あなた、あの場所で誰かに会ったんじゃない?」
「……誰かって……?」
「話しをしたでしょう? 先生が自分だけを見てくれるように……」
「言わないで……!」
悲鳴に近い叫び声を、いずみは上げた。
「わかった。もう言わないわ。あなたが見たことの話しをしてくれる? 私が聞きたいのはそれだけ。その人、どんな身形をしていた? どんな顔? ちゃんと思い出して」
「嫌よ……! 何も見てない、あたしは知らないよ」
「……そんなに怖いんだ。あの人が」
彩子は、言葉を優しく、強引な力でいずみの肩を抱えた。いずみが逃げ出さないように。
「そうよね。三百年以上も生き続けてきた怨霊だもの。
不可能なことなんてない。あの事故だって、誰もあの人の仕業だなんて気付いてないし。不自然な事故でお終いね。
……これまでだって、彼女は一体何人の人を傷付けて、必要なら口封じに殺してきたのかしら」
いずみは震え上がった。ますます、唇を噛み締める。
「でも。心配しなくていいのよ。
今の彼女が一番欲しいのは、私だから。
あなたが何をしゃべっても気にも止めないわ。逆に、私に自分のことを知らせたがってるのかもしれないじゃない?
あなたを利用して、私に引き合わせる為の……」
「飛鷹先輩……? 何を言ってるんですか……?」
いずみは、厳しい緊張に満ちた彩子の顔を見上げた。
「私の顔を見て。目を見て答えて。
彼女、私に似てなかった? 髪の色は……」
「……先輩……? ……。ダメっ……何も知りません!」
どうあっても『彼女』の面影が、いずみの障害になる。
目を見張って顔を背けたいずみは、何か思い当たっている。彩子は、壊せない頑なさが哀しかった。
「佐伯さん。私、あなたの気持ち、少しわかるよ。
……好きになっちゃいけない人に魅かれるのって、苦しいよね……。その人を傷つけてしまうのは、自分が傷つく以上に苦しくて。自分が許せなくなるの。
そんなつもりじゃなかったのにって、後悔しても遅いの。
……何も悪いことをしたわけじゃないのに。
ほんの少し、人より余計、好きになっただけなのにね?」
彩子にしがみつき、いずみは呻くように泣き出した。
「今なら間に合うよ? 謝って、自分を許せることが、佐伯さんには出来るじゃない?」
「許す……。自分を……? いいのかな……?」
「大丈夫。沢山泣いたら、最初からやり直さなきゃ。
いろんなものが一度に壊れたように見えるだろうけど、まだ残ってるじゃない?
佐伯さんの居場所は、まだあるから」
しゃくり上げながら泣き続けるいずみが、彩子は羨ましかった。彩子は泣けなかったのだから。今でもこんなふうに、あふれるほどの涙を流せずにいる。