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彩子は夢から目覚める為に、騎道に背中を預け目を閉じた。
「夢ではないよ。現実に起きたことだ」
「……信じない」
丁寧に押し返すように、否定した。
「信じてほしい。僕はもう、一つも嘘は言っていない」
「信じられるわけがないじゃない。
騎道が、あの子? そんなの、誰が信じるっていうの?」
「僕らは、時間を越える」
彩子は騎道を振り返らなかった。
穏やかさを保った声音が、彩子の耳を打つ。
「僕と光輝、学園長代行。他にも仲間はいるけど、今、この時代に存在する能力者は僕ら三人だけだ。
以前、一緒に旅していた僕と光輝は、一時的な経由程度のつもりでここに来た。そうして、三百年ほど前の、こう姫に会った。
今年になって光輝がこの街に来た理由は、任務の一つだ。
この時代と空間の監視。安全を確認する為。
数年後に、ある重要人物が、この日本を訪れても大丈夫かどうか調査していたんだ。
光輝自身は、僕と同じように御鷹姫を忘れていたはずだけれど。この街に住み着いた事実は、偶然ではないのかもしれない」
再び銀盤に歩み寄った騎道は、眼鏡越しに視線を注ぎ、銀の輝きが跡形もなく消えるのを見守った。
「これは、別の世界への出入り口の一つ。こう姫の事件以来、なぜか封鎖されてきた。おかげで使えるゲートが一つだけになって、ここに来るのにはみんな苦労してた。
もう少し調べれば、こっちも使えるようになる。
エジプトのアスワンに一つ。これは常に使用可能になってる。不定期で、チベットの奥地にもう一つあるんだ。
僕は、アスワン経由でこの街に来た」
信じない? 騎道は煙に巻くような笑みで彩子をうかがった。大袈裟な身振りで、彩子は頭を振った。
「だからといって、好きな時に出入りできるわけじゃない。
上司の許可が必要だ。それと、過剰干渉しない良識。
僕らは過去に、その禁を犯した……」
最後の一滴に、騎道は指を浸し、何かの願いを託した。
「御鷹姫の怨念は存在しているよ。
統磨さんを操り、三人の人間を死なせ。その統磨さんの行動に気付いた上坂さんを、結果的に死に追いやった。
……直接、手を下したのは数磨君だった。数磨君はお兄さんを庇うつもりだったんだろうが」
痛々しく、騎道は息を吐いた。
「統磨さんの死で、事件はすべて終わったように見えたよ。
けれど同時刻に連城さんが亡くなった。彩子さんが思う通り、あれは彼女の意志じゃない。御鷹姫は異能者である数磨君を今度は操り、連城さんを『自殺』に追い込んだ。
その結果、四方に血の烙印が生まれた。
御鷹姫の怨念をより増幅するため。彼女の本当の狙いを成就するために」
腕を組み向き直る騎道に、感情的な揺れは消えていた。
それは、込み上げてきた彩子の怒りの衝動をたやすく冷ました。効果的な意志の強靭さだ。5人もの命が奪われた現実を、彩子は憤る代わりにしっかりと胸に刻み込んだ。
「今の御鷹姫は、三百年間、他の女性の体を乗っ取り、恨みを吐いて眠りについていた怨霊とは違う。
意志を持って、欲望を達成するために手段を選ばない。
この先、どんな犠牲も厭わないだろう。この街中を、魑魅魍魎がうろつく死の街にしても構わない」
切れ間のない風が、二人の間を流れていった。
「田上遥子という女性の名前を知っていますね?
彩子さんの、ひいおばあさんだ。御鷹姫の転生者として亡くなった。この人」
差し出された写真を彩子は見た。すっと表情が消える。
「……そっくりね。私と。髪のくせもおんなじ」
平坦な声で、彩子は騎道の意図を先んじた。
騎道は、春日から借り出したセピア色の写真をしまった。
「今年の彼女は、冥府に戻る気はない。
生まれ変わりたい。
生前とまったく同じ顔をもつ、君の体が欲しいんだ」
鋭利な断定を茶化すように、彩子は小首を傾げた。
「その通りかもしれないわね。あんなに似ているんだもの。
それに。昨日の秋津会長にも言われたわ。同じことを。
私はあの人の器だって」
「彩子さん……」
「ご忠告を、ありがと。
もっと早くに打ち明けてほしかったわ。怨霊に付け狙われているからって、あたしが怖がるとでも思ってたの?
敵を知っていた方が、心構えがしやすいものなのよ」
「だからといって、君一人では対処できない。
見えない敵は、不安を増長させるだけだ」
「? 誰が今の話しを信じるって言ったの?
あたしは信じないわよ。怨霊だとか、騎道が時間を越えるとか。秋津会長が異常なのは事実ね。あの人も騎道と同じように、怨霊に執心しているみたいだけど」
目を見張る騎道に、彩子は冷笑を込めて畳み掛けた。
「さよなら。面白かったわ、君の推理。
……とってもきれいで、悲しい白昼夢だった……」
夢……。彩子は、切ないばかりの悲劇だけを、心に焼き付けた。御鷹姫を一人の女性として、哀れに思った。
「んでも、刑事の娘を説得するには不十分ね。
そうだな。父さんをその話しで納得させることができたら、信じてやってもいいわよ。
黒幕は三百年も前に亡くなった一人の女でした、なんて」
「どうして今更、信じないなんて言えるんです?
君は思い出したはずだろう? 現実に、何度か彼女に襲われて、昨日は……」
「君は助けに来なかった……!」
言い切る彩子の目前で、騎道は言葉に詰まった。
「二度と、あたしを守るなんて口にしないで。
できないのよ? 無理なの。騎道だって完璧じゃない。
君は、全知全能の神様じゃないんだから!」
挑むように言い切る彩子。腕に抱えていたコートを投げ付けて、自分が着ていたコートも脱いだ。
「……一人で帰るわ。これは、返す」
押しやって、彩子は歩き出した。
「一人じゃ危険だ。御鷹姫は、彩子さんの一番無防備な状態を狙っている」
追いすがる騎道は、話題を変えて彩子を伺った。
「彩子さん。史料館のあの絵。モデルは飛鷹悦子という女性だそうです。君のお母さんですね」
「!」
彩子の頭の中は、完全に真っ白になった。
「コーヒーを取りに行った時、尋ねたんです。
モデルに選んだ訳は誰も知らないようでしたが、藤井家の当主は知っていた。あれは、藤井家の寄贈品です。
製作は今から10年前。彼女が29歳の年で」
藤井家の女当主が現れたのも10年前だった。あの時、悦子はもう一度会った? この絵の依頼を受けた?
……どうして? ……どういうつもりで……?
「……やめてよ。母さんの話しなんて出さないで……!」
彩子は額を押さえた。何も考えられないのに、足は勝手に前へ進んでゆく。
「斜面を右へ、斜めに下って」
騎道のナビゲートに、彩子は渋々従った。雲を踏み締めるような起伏と、雑草に覆われた斜面。転倒を持ち堪え、アスファルトを踏み締めた頃には、息が完全に弾んでいた。
しゃがみこんだ彩子の肩を、白いコートが覆った。
「バス停は、もう少し下った所にあります」
しばらく押し黙って、彩子は息を整えた。
「……どこまでついてくる気?」
「家まで。彩子さんの家には、結界を巡らせてあるから安全で。だから一人で出歩かないで。
いつでも、僕を呼んで下さい。携帯電話の番号は」
ポケットを探る騎道。彩子は遠い視線で、一人決めする相手を見守った。無論。心の中で、手渡されるだろうメモは、すぐに捨てると決めていた。
なにげなく路上を見渡していた騎道の視線が、凍り付いた。一台のセダンが山道を下ってきていた。
滑らかな白銀の車体。優雅な走行を一転させて、運転者は凶暴な角度を選びハンドルを切った。
立ちすくむ彩子。車は、騎道を狙い突っ込む。
接触寸前で飛び退く騎道。急停車する車と男を見返した。
「乗るんだ、飛鷹」
低い響きが命じた。
あからさまに騎道への敵意を示した、凄雀遼然。
突然の行動に、彩子は怯えながら彼を見た。
だが凄雀の誘いは、彩子の心を溶かしていた。
一瞬の真っ白な意識の中で、彩子は二人の男を秤にかけた。開けられた助手席に彩子は滑り込む。
「待って下さい! 彩子さん!」
ボンネットに手をかけ、騎道が立ちはだかった。
彩子はうつむいた。自分の肩に手を回す。落としてしまったらしい。コートはそこにはなかった。
「!」
警告無し。凄雀が、アクセルを一杯に吹かした。
ヤメテ……!
なめらかにギアを入れ替える。ハンドルを切る。軋み、砂利を蹴散らすタイヤ。軽い、ボンネット上の振動。
彩子は咄嗟に振り返った。
路上に、受け身を取り体を起こす騎道が居た。
車は遠ざかり続ける。彩子は凄雀の横顔に視線を移した。
何事もなかったような、冷ややかな顔立ち。一人の人間を、あわよくば跳ね飛ばそうとした男には見えない。
どうして、だろう……。
底知れないほど冷酷な男を選んだ自分自身に、彩子は尋ねかけていた。
答えは出てこない。真っ先に、置き去りにした一人が浮かぶ。その面影を打ち消す。もう一度、なぜ? 問い掛ける。考え疲れて、彩子はシートに深くもたれた。
「騎道から何を聞いた?」
「……何も。夢みたいな、口約束だけです」
彩子は沙織を思い出して、もう一度、肩を強張らせた。
口封じ。凄雀なら、ためらいもせずに選択するだろう。
彼等はあまりにも大きな秘密を持っている。それが、事実であるならば。
知らない。聞いてない。信じないから、聞かないと同じ。
……守るなんて、できるはずがない……!




