3-2
子供は、目に止まらない素早さで若者の手を逃れた。
『静まってよ、こう姫。あなたの方が疲れてしまう。疲れ切って、あなたの気配が消えてしまいそうだ』
どこに向かって駆け出すのかはわからない。彩子が見てとれるのは、湖のように穏やかな瞳が、水底から光を放つように輝きだしたことだけだった。
『見付けた。こう姫。僕、来たよ……、わかる?』
「見るな、彩子さん……!」
騎道の手が、彩子の視界を遮る。
『どうして、お出で下さらぬ……。
こうは、何もいりませぬ。扇も、絹も、櫛も手鏡も。
どうぞ、この手に。今一度……』
「どうして……!? 隠すことなんて何もないじゃない!」
彩子は、騎道の手を引きはがそうとした。
何が起きているの? あの女はどうしたの? 置き去りにされた子供のような声で。頼んでいるじゃない……!
騎道の指の隙間で、赤いものが揺れている。
彩子は、喉の奥で悲鳴を押し殺した。
炎の林、炎の草むら。炎だけがすべてを形造る、火の海。
その中で、二股にねじれた桜の大木に身を委ねる女。
彼女もまた。炎の人形に成り果てていた。
指先が、朱色の打掛けを握り締める。砕けよとばかりに。
『呪わしい……、この髪。この血……。何もかも、この手から逃げてゆく。我が異形なるがゆえに。
何かも無用じゃ。
燃えるがいい。すべて燃えて、灰になればいい……!
あの方も、あの方が愛した全ても。皆、灰にしてしまおう。わらわと共に、灰になるのじゃ……』
子供の清らかな影が、彩子の視界に立ちはだかった。
『こう姫。僕だよ。見えていないの……? こう……』
びくりと、子供は身を引いた。女の体が崩折れかかり、のろのろと、彼に顔を向けた。
一時にしてやつれた頬は、異様な赤みが差していた。眼はこうこうと見開かれ、獲物を見据えた狂気の色。
唇を噛み締めて、子供は駆け寄った。彼はまったく、炎を恐れない。逆に、青い燐光に包まれた子供の体を、炎は避け、退く気配すらあった。
女の手に触れる瞬間、突風が、小さな体を弾き飛ばした。
『……光輝!?』
目を怒らせ傍らに出現する光輝に、子供は怯えた顔を向けた。
『手を引け!』
子供は、大人びた顔でそれを無視した。
『こう姫、もう止めて。みんな燃えてしまうよ。
火が、あなたのご両親が愛した城下を飲み込んでしまいそうだ。たくさんの人が怯えているよ』
『……思い知るがいい。わらわの恨み。
我が炎が、地獄へと皆を、誘ってしんぜるわ……』
呪詛に満ちた高笑いが広がる。
燃え盛る咆哮と共鳴して、いつ果てるともなく続く。
『僕が居るよ! だから、みんなを助けて! 僕が、あなたの側に居るから。もう、落ち着いて』
体中で、子供は大声を上げた。
静まり返った中で、女はか細く問い返した。
『……若様が……?』
『うん!』
きっぱりと、子供はうなずいた。
『よいお子じゃ……。
若伴様は誰よりも、お優しいお子じゃ。わらわとお暮らしなさいませ。何一つ不自由はさせませぬぞ……』
女が、手を伸ばした。白い生身の人間の腕と指が。
『離れろ!!』
『いやだ! 光輝、放してよ!』
寸前で、子供は光輝に抱え上げられた。じたばたと手足を振っても、光輝は動じない。
雨が降り出していた。水滴は激しく女の頬に打ち付ける。
『お待ち……。その子はわらわのものぞ……!』
金の髪を振り乱し、女はゆらりと立ち上がった。
『忘れろ! こいつはこんな所で、お前一人に縛られていい人間じゃない。
呪いたければ呪え!
だがな。人を恨み続けることは苦しいぞ。
恨鬼となり、恨みだけで何百年か生き長らえることができたなら。長い時の果てに、その姿に再び出会えるなら!
その時は、褒めてやるぜ。
俺はお前に殺されてやってもいい。お前の恨みは、そこで晴らすといいぜ!』
『……待つまでもない。たった今、呪い殺してくれる!』
彩子は反射的に身を引いた。背後には、しっかりと抱き留めてくれる、確かな腕がある。
炎の腕が、女の足元から沸き上がった。何本もの触手が放たれ、若者と子供に伸びてゆく。
生き物のように、女の意に沿って、すべてが二人を飲み込もうとのしかかる。
炎の鳥籠に、二人の姿が包囲された。
雨が暴風雨にかわり、滝のごとく叩き付け始めていた。
水と炎の激しい交錯。天と地が逆転したような、荒々しさだった。
光が、赤い籠から溢れ出す。強烈な白光。
炎の腕は、光に溶けてゆく。
『……もうそんな力は、ないはずだぜ?』
『……光輝っ!』
叫ぶ間もなく、女の悔しげな姿がじわりと遠ざかる。
炎の海の中でも、一際鮮やかな色打掛け。
女はそれを握り締め、追いすがる途中で、よろめいた。
彩子は目を閉じた。それ以上、女を見ていられなかった。
『こう姫……っ!』
『お前は火をなんとかしろ。雨嵐はお前の管轄だ。急げ!
あの女は手遅れだ。もう死んでる……』
『でも心は生きてた。光輝、戻って! 邪魔しないでよ』
バシンと、子供は頬を張られた。
『生きている人間の方が先だ。……死んだ者は、黙って土に返してやれ』
雨足が更に強まり、彼等の姿をかき消す。嵐が、炎の勢いを絶ち切らんとするように猛威を振るっていた。
『光輝はひどいよ。冷たすぎるよ……。
どうして僕の邪魔をしたの? どうしてあの人を止めちゃいけないの?
光輝、あの人を好きじゃなかったの?』
子供は全身でしゃくりあげていた。静かな薄靄の中、子供を監視するように、若者は後をついて歩く。
『僕、大好きだったのに。
ほんとに、ここに居てもいいって……』
ふいに、オルゴールの蓋を閉じたかのように、あたりがしんと静まり返った。
聞こえるのは、押し殺した騎道の声。
「ばかな約束をしようとした……、僕のせいだ……」
彩子の左の肩に、暖かい重み。騎道が顔を伏せ、額を押し当てている。
「旅立つあの人の魂を、この世に引き止めて……」
「ううん。誰かのせいだけじゃない。……そう見えたわ。
あの人は、少しずつ狂い始めていたの。それを、誰も正してやれなかっただけ。寂しくて、誰にも頼れずに。
……怖かったのよ」
怖かった。その寒々しい震えが、彩子にはよくわかる。
騎道の手を取り、彩子は眼鏡を握らせた。
息を吐いて、強張ってしまった肩の力を抜いた。首をうなだれた騎道の頬に、彩子は指を触れさせた。
もう一度息を吐き出して、白いもやの行方を見届けながら彩子は言った。
「ねぇ? これも夢だよね?」
騎道がはっと、身動ぎした。
「昨日、夢の話をしたでしょう? ……思い出したの。あれとよく似てる。袴の子、あの子も居たわね。
……正気を失った御鷹姫によく似た女が、私たちを襲ったことも、思い出したわ」
彩子の傍らで、騎道は膝を立て座り直した。
「全部、騎道が見せた夢だよね。……きれいで、哀しい夢だけど」