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3-1

「……なに……よ……、これって……」

 コートを抱き締め、彩子は立ち尽くした。

 彼女以外、誰も居なくなってしまった。騎道はどこに?

 彩子は前進を選んだ。騎道が言い残した『危ない』という忠告を、忘れたわけではないが。

「……おばかっ。

 ほんっとに。訳わかんない奴なんだからっ!」

 思いっきり踏み締めた足元に、小刻みな地鳴りが伝わってきた。びくんと、体が硬直する。

 黒い闇の縁に、片手がかかる。もがくように体を引き上げて現れたのは、青いジャケットの騎道。草地を蹴って、騎道は彩子に向かってきた。

「伏せて、彩子さん!」

 突風のように彩子を抱きかかえ、騎道は大地に転がった。

 庇われた彩子は、頭上を、うねる振動が通り過ぎているのを感じていた。こだまのように、何かが拡散していく。

 木々の間を、解放された雄叫びを上げながら逃げ出してゆく、聖なる気配があった。そう。悪意はなかった。

 騎道が寝返りを打って、彩子を解放した。

「何が起きたの……」

 慎重に、空を見上げながら彩子は尋ねた。

「……静かに。聞こえる」

 騎道の手が、投げ出した足の方向を指差した。

 彩子は体を起こし、目を凝らしてみた。

 騎道が言う通り。聞こえるのだ。泣き声が。

 男の子のすすり泣く声。一度だけ、聞いたことのある声。

『光輝……、どこに行ったの……? 一人じゃ帰れないよぉ……』

 今は黒から銀に色を変え、輝き始めた奇妙な空間。

 銀の水盤の上に、少年の姿が浮かび上がっていた。

 彩子の夢に現れたと同じように、袴姿でいながら金髪をもった10歳ほどの少年。彼の背後には、葉を落とした桜の古木が影を落としている。

 彩子は目を疑った。瞬きをしても、陽炎のように彼の姿を透かし、向こう側に林立する現実の桜の林が見える。

 なのに少年は、生きている者のような存在感をもっている。精巧な立体映像のよう。奇妙なまでに、胸に迫る、彼の心細さ。秋の夜の物悲しい情景だった。

 はっと顔を上げ、少年は蒼々とした大きな瞳を見開いた。

『……お前……。わらわと同じか……?』

 息を切らした女の声が沸き起こった。

 心の叫びのように、彩子に聞こえた。

『お姉さん、僕が見えるの……?』

 恐る恐る、子供が尋ねる。

『……ええ。見えるとも。わらわは夜や闇を恐れぬ』

『大変だ、光輝に叱られる』

『光輝とは? お前の連れか? 案ずることはない。叱られぬよう、わらわが頼んでしんぜよう』

 白い手が、少年に向かって差し伸べられた。

『さあ、おいで。怖くはないであろう? わらわもお前と同じ。同じ髪をもっているではないか?』

 金髪の子供が見上げる先に、女の人影が鮮明な輪郭をもって現れた。長く波打つ金髪を背に下ろし、その下には、雅な打掛を羽織っている。

 手を引き合い、立ち去る二人を、彩子は見送った。

「騎道……」

 振り返ろうとした彩子の肩を、騎道は背後から押さえた。

「黙って、よく見ていて下さい。古い時代の記憶です。こんな所に封じられていたなんて、思ってもいなかった……」

 彩子は目を見張った。新たな情景が、銀盤の上で繰り広げられていた。

 打掛の女は、甲斐甲斐しく子供の世話を焼き始めていた。

 部屋を暖め、熱い粥をすすらせ、火鉢で温めた新しい羽織袴を着せ付けた。愛しげに子供を見つめるその横顔に、彩子はどきりとした。

「あれは御鷹姫。彼女が亡くなる、数日前のことだ。

 泣いていた僕は彼女に連れられて、白楼閣に来た。

 広い屋敷には彼女一人しか居なかった。夜は、使用人たちは麓に近い屋敷に移動することになっていたんだ。慣れないことをして、あの人は指に火傷をしたくらいだ」

 戸惑い顔で、火傷した右手の指先を口に含んだ。

 心配して擦り寄った子供に、頭をゆるく振って、女は大丈夫だと微笑んだ。

 御鷹姫……。あの人が……。

 肖像画と同じ顔だった。騎道がそれでも違うと言った理由がわかる。髪が違うのだ。

 金髪。それも結い上げてはいなかった。波打つ髪を結い上げるのは、なかなか難しいのだろう。豊かな髪は、ああすることが一番魅力的でもある。

「たぶん僕の記憶だ。感情的な僕らしいよ」

 珍しく皮肉を込めて、騎道は呟いた。

 始めははにかんでいた子供は、いつしか女の膝で眠りについた。

 細い金髪を何度も何度も、女は丁寧に撫でる。和と洋の取り合わせでありながら、彼等は一対の親子のようだった。

「彼女は僕を、無条件で愛してくれた。

 死産した子供の為に、毎年、男物の服を設えていたから、僕が転がり込んできても彼女には何の違和感もなかった。……本当は女の子だったのにね。

 その子と僕を思い重ねていたことは事実だけれど、それを誰にも責めることはできない。

 子供を亡くしたことで、狂い始めていたから。僕を身代わりにすることで、彼女は正気に返ろうとしていた」

 暗闇の中から、落胆し、凍えそうなほど寂しい顔の女が浮かび上がった。傍らには、背を向けた若者の姿がある。彼も、輝く金髪。細身の後ろ姿に、一瞬、今の17歳の騎道がそこに居るのかと、彩子は錯覚した。

『……どうぞ、あの子をお連れ下さいますな……』

『だめだ』

「! ……光輝……!」

 騎道が、背後で小さく叫んだ。

『明朝、出てゆく。教えろ。あいつはどこに居る?』

 背筋を伸ばし、女は顔を背けた。

『くそっ。広すぎて探しようがないってのに。この屋敷、他に誰もいねーし……』

『今、しばらく……』

『俺たちはこの土地の人間じゃない。最初から、会わなかったものと諦めろ』

 畳を蹴って立ち上がった久瀬光輝は、年格好さえも騎道によく似ていた。年は二十歳前後。釣り上がった目尻で、すがりついた女を伺った。

『放せよ……』

『……一人ではないのだと、わらわがどれほど安堵したか、お前にはわからぬでしょう。

 この呪われた髪を。恨み続けてきたこの色を、あの時ほど、美しいと思ったことはなかった……!

 なんと美しい、仏のごとき子だと……。

 あの子を、わらわから取り上げるというのですか?』

『最初から、お前のものじゃないぞ!』

『……では。あなたが』

 女はすぐに言い添えた。

『俺が……? 本気で言っているのか?』

『どうぞ。わらわの全てを差し上げましょう……』

 艶然と微笑んで、女は打掛を肩から払い落とした。

 騎道の両手が、彩子の目を塞ぐ。

「光輝の記憶も混ざってるみたいだ。……やっぱり、こんな真似……」

 ……騎道は、見ていなかったの?

 取引を申し出た女の向けた、光輝の一瞬の戸惑い。

 彼女に凋落してゆく、諦めの暗い笑みを。

「三人で、暮らしたの? 他の人は平気だった?」

「驚いてたね。でも、こう姫が口止めをしていたし、この点では、彼女は怖い人だったから。一睨みで済んでしまったくらいだ」

「あの髪を憎んでいたのね」

「彼女には外国人の血が半分流れていた。だから、この山に閉じ篭もる必要があったんだ。

 鎖国令が定められたこの時期、藩の存亡にもかかわることだからね。秘密を知っていたのは、口止めされた使用人の他には、藩主とその最も近しい人間だけだった。

 こう姫の没後、使用人たちは全員、出火の責めを負わされ断罪された。たぶん、口封じだ。

 この頃、最愛の藩主隆都とは、感情の行き違いがあって疎遠になっていた。その上、彼には正室候補まで現れて、彼女はこの時期ひどく動揺していた。

 あの髪のために、麓に降りて正室の座を得にゆくわけにもいかない。……子供も、生まれる望みも少なかった」

「…………」

「そこに僕らが現れた。取り残される寂しさで、どうしても引きとめたかったんだろうね」

『光輝? 僕、嫌だよ。こう姫が可哀相だよ。

 もう少し、ここに居ようよ。光輝? 怒ってるの?』

 彩子は、力の緩んだ騎道の手を避けた。

 邪気のない子供の笑顔。

 彩子の肩に、騎道の吐息が落ちた。

 晴れ晴れとした誇らしい声が、情景を切り換えた。

『御覧なされ、若様。あの川を。

 この秦野山から真っ直ぐにお城へ下ってゆく川は、わらわのお父上が図面を引かれた、人の手で造られた川じゃ。

 桜川という、美しい名が付けられている。

 名付けたのは、お城に住まうお殿様。父様が渾身込めて描かれた図面を、一つ一つ造り上げたお方じゃ。

 あちらの美しい橋も、その向こうの大きな砦もそう。

 わらわはどれもこれも、大切に思うている』

 膝に抱いた子供に、女は誇らしげに笑い掛けた。

『こう姫のお父様……?』

『この髪を下さった方でもある。……今も、大好きな方。

 父様は、こうに図面を。母様は、こうに命を残して下された。

 ……一度はお恨み申したが、どちらも愛しい方々じゃ』

 女は苦しい笑みを空に向け、しっかりと子供を抱き締める。聡い瞳で、子供は促されるまま女に甘えた。

『若様にも図面の見方を教えてしんぜんしょうぞ。

 父様の図面を、一枚一枚書き写してお渡ししたのは、他の誰でもない。この、こうなのですから』

 こくんとうなずく子供に、女に同じようにうなずいて返した。

触れ合うよりも強い絆は、彩子はどきりとさせる。

 二人は実の親子のようだった。女は子供の行く末を案じる。平凡な母親にしか映らない。

 ……お母さん……。

 子供は、決して母とは呼ばなかった。

 その代わりのように、彩子は胸で呟きかけていた。

 どこからともなく、パチパチという耳障りに音が漂ってくる。彩子は体を強張らせた。肩に乗った騎道の手の重みが、無意識に込み上げてくる怯えを宥めてくれる。

 一転した暗闇。炎のはぜるあの音は、その奥から高まり、辺りを飲み込む勢いで迫ってくる。

『……光輝……? ここ、どこ……』

 寝ぼけ眼をこすりながら、子供は尋ねる。傍らで立ち尽くす若者に気付き、事態を悟った。

 二人に降り掛かる嵐のような火の粉が、すべてを物語っていた。投げやりに若者が髪をかきむしった。

『こう姫は……? どうして……? 屋敷が燃えているよ!』

『帰るんだよ! いいな! ここを開けるから、手を貸せ』

 桜の古木の根元を、光輝が指した。

『光輝!! 光輝には聞こえないの? こう姫が呼んでるよ。

 行ってあげなきゃ』

『俺たちには関係ない……! あの女が、勝手に狂っちまったんだ。……もう止められないぜ』

『……狂う、って……』

『正気じゃない。……バカな女だ。意地を張らずに、山を降りれば良かったんだ。髪なんか切り落としちまえば済むじゃないか! あれだけ憎んでいて、どうして出来ない!?

 ……切る勇気もない。あの男を忘れることも出来ないのに、お前や、俺を身代わりにしようなんて……』

『光輝! 助けてよ。こう姫を助けようよ。……行かないでって、呼んでるじゃないか!?』

『俺たちのことじゃない! 行くぞ』

『いやだ。燃えてしまうよ。放っておいたら。みんな。

 山も、麓の城下も、こう姫もみんな!』

『待てっ!』




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