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2-2

「飛ばすから、しっかりつかまってて下さい」

 ……しっかりって……。ちょっと……。

 肩に乗った彩子の手を、騎道は自分の腰に回した。

 慌てふためいた彩子の気配は、騎道の背中ではね飛ばされていた。

 すぐに手を引っ込めても無駄な気がして、彩子は騎道にしがみつかされた形で、硬直してしまった。

 ……あたし、秀一に乗せてもらった時、どうしてた?

 平気で同じことを、していた気がする……。

「彩子さん、ほんとにこれでよかったんですか?」

 笑いながら、騎道が振り返る。

 彩子が選んだ、ピック革の指無し手袋ミトンのことだった。

「……だって、こういうの、欲しかったんだもの」

 ゴツンと、彩子は白いヘルメットの額を、ブルーの後頭部にぶつけた。広い背中が、癪に触る。

 滑らかにバイクは走り出す。往来の頻繁な中心部を、丁寧に走行してゆく。振り落とされる気配はなにもない。

 そっと、マフラーに彩子は顎を埋めた。

 無意識のうちに、騎道の着ているタートル・ネックと同じ色を選んでいた。デニム地のサックス・ブルーの冷ややかさの中で際立つ、サーモン・ピンクの柔らかい色使い。騎道の色白な顔立ちを、引き立てていた。

 ……何してるんだろ。私。

 悩んでいた昨夜が、嘘のようだった。

 街の中心部を抜け出して、騎道は静かに加速し、軽く上体を前傾させた。

 彩子は考えに気を取られたまま、背にもたれきった。

 目を上げると、前方に秋色の山が立ちはだかっていた。

 秦野山は、高原の気候に近いため、四季のうつろいが明確だった。山全体がみごとに色づいた葉を落としながら、冬の衣装に着替えようとしている。

 そうか……。御鷹姫。彼女に騎道は……。

『逢いに来たんだ……』

 そう騎道が言った夢。あの奇妙な夢を見た事実を、彩子は昨晩、はっきりと思い出していた。



 道路脇の雑木林が、いつの間にか山桜の林に変わった。

 秦野山のくねった山道がなだらかになり、山の中腹にさしかかる。開けた先には、翼を広げた鳥のように、両翼を前に突き出した建物がある。

 ブラウン・カラーのタイル張の壁面が、保護色のように周囲を包む山林に溶け込んでいた。光線の角度では、キラリと輝いてもみせる。

 楕円形の玄関前スロープの一角に、騎道はバイクを止めた。山を吹き降ろす風が強いため、玄関正面は透明ガラスの風避けが設置されている。そのガラス越しに、オフ・ホワイトの壁に掲げられた、一枚の絵が透けてみえる。

 来館者を歓迎するつもりの、大きな額縁だった。

 日本画の手法で淡白に描かれた、女人の肖像である。

 色打掛けは、押さえた色調ながら、朱色がかっていた。

 高く結い上げた髪が、高貴な武家の奥方であることを物語っている。豊かな黒髪に、贅沢な櫛やかんざしが映える。

 瞳は青みがかった黒。ひたりと、訪れる者を眺め、口元には幼子へ向けたような微笑がある。

 すべての人の子を圧倒する、間違いなく母性の顔立ちだと、彩子はその場で立ちすくんだ。

「……よく似てる。でも、一つだけまるで違う」

「誰に? 何のこと……?」

 我に返って、彩子は素早く騎道に聞き返した。

 尋ねるまでもない。肖像の女性は、この地に昔おかれた白楼閣という名の屋敷の女主人。御鷹姫に違いない。

「顔立ちが、彩子さんに。そう思いませんか?」

 肖像を見つめ騎道が言った。

 その瞬間、彩子は自分の視線が冷え切ったと感じた。

「あたしは、死んだ母さんに似ているって思ったわ」

 見た瞬間、胸に込み上げてきたのは、懐かしさだった。

 ここへは、彩子は初めて来た。道々、騎道にそう話すと、彼は意外なくらい驚いた。二度ほど学校行事で来る予定はあったが、その度に怪我や病気で欠席せざるをえなかった。

「でも彩子さんとは、髪が違うね。癖のない髪だから、ちゃんと結い上げてある」

「騎道はストレート・ヘアの方が好き? 男の子たちって、みんなさらさらの長い髪が好きよね」

 意地悪く聞いてみる。自虐的な自分に気分は最悪だった。

「僕は、どうかな……? 考えたこともないな」

「あたしはこの髪嫌いよ。チリチリ頭って、よくひっぱられたりしたもの」

「彩子さん……」

「情けない顔しないで。幼稚園の頃の話。そーゆー失礼な子たちはみーんな、ひっぱたいてやったわ」

 そうして家に飛んで帰ってから、母の腰に抱き付いた。

『こんな髪イヤっ。あたし、いらないっ!』

 泣き叫んだのは、彩子と母親の二人だけの秘密だった。

 兄の勝司にも知られたくなかった。彩子の唯一の弱みなのだから。修造は笑い飛ばすだけ。悦子以外に、彩子の気持ちをわかってくれる人間はいなかった。

 ん? ひくひくしている、騎道の両肩に気付いた。

「男らしくないわねっ? 笑いたかったら、堂々と笑ってよ」

「ゴメン、ゴメン。でも想像すると、なんだか……」

 あー、もうっ! こんな奴に言わなきゃよかった!

 むくれた彩子に、騎道はニコニコしながら取り繕った。

「そこまで活発な彩子さんには、十分似合ってますよー」

 ミニ・リュックを顔面に振り回される寸前で、騎道は後退り、軽く駆け出した。

「コーヒー、買ってきますから」

 そんなもので許すもんですか……。

 舌を出す。

 彩子はもう一度、御鷹姫を見つめた。

 磨かれたガラスに、彩子のシルエットも浮かび上がる。

 御鷹姫のほっそりとした襟足に、彩子の癖のある髪が重なり、二人が一つになる。

『顔立ちが、彩子さんに。そう思いませんか』

 違うよ……。年が、絵の方が上よ。それにあたし、こんなに優しい目なんてできない。

「……怖いくらい似ているけど。あたしはあたしよ……」

 呟いて、いつまでも彩子はそこに佇んでいた。



 熱い缶コーヒーで、二人は冷えていた体を暖めた。

 騎道は彩子に、御鷹姫の生き様を知っているかと尋ねた。

 知らない人間は、この街にはそういない。

 彩子の答えは簡潔だった。

 彩子のように、御鷹姫の為の史料館と言える、この場所を訪れない住民は少なからず居るだろう。だが御鷹姫は、街ではいい意味でも悪い意味でも有名だった。

「学園長室に移された扇は、御鷹姫の唯一の遺品なの。

 大火で亡くなる前日に、麓の藩屋敷に届けられたそうね。

 まるで、自分が亡くなることを予期していたみたい。

 あの火事が自殺なのか事故なのか。熱心に研究を続けている人は多いらしいわ。

 でも、いくらライバルが現れたからって、六代藩主のたった一人の側室として幸福な時期だったのに、自殺するなんて考えられない気がするけど」

 騎道は、人の認識の曖昧さを認めずにはいられなかった。端からは幸福に見えても、心は違うこともあるのだ。

 しかし、これが当然の成り行きなのだろう。三百年も前の、表舞台に現れた期間はほぼ10年という女性の生き様を、正確に把握しろという方が無理だ。

 いつまでも引き摺っていることの方が、ある意味では異常。時の流れに、逆行している。

 扇を預けた。いや、隆都から贈られた品なのだから、返したと言うべきだ。扇は、御鷹姫が生存していた事実を裏付ける唯一の品。彼女にとっては、藩主の寵愛を受けたという確かな証しではなかったか。

 返した……。隆都への拒絶? 断り?

 少なくとも、届けると決めた時点で御鷹姫は何かを決意していた。託された隆都は、その決意の意味を悟ったはず。

 一人思索に暮れる騎道を、彩子は見守るしかなかった。

 声を掛けては、張り詰めた氷を砕くのに等しいように思えた。それほど、厳しい表情に変わっていた。

 目を上げて、騎道は罰の悪い顔をした。

 黙って、史料館を背に歩き出す。

 彩子も後についた。

 スロープ脇の芝生を横切ると、あとは一面、山桜の林が続いていた。ここは三百年余、人の手で整備されてきた。

 なだらかな斜面を、騎道は斜めに下ってゆく。

 桜舞う春ならば、老若男女、さまざまな人々がこの辺りを散策するだろう。今は二人きり。

 残り少ない葉を落とす木立を、彼等は歩いた。

 木漏れ日が眩しかった。敷き詰められた桜の枯れ葉は乾いていた。厚く積もって、彩子の爪先をやわらかく包む。

 騎道が足を早めた。弾むようにして、枯れ色の背中を追いかけながら、彩子はいつか息を切らしていた。

「……さすがに、ないな」

 周囲を見渡し、騎道はようやく足を緩めた。立ち止まり、少し開けた草地の中心に立ち、空を見上げる。

 この辺りに、桜の古木があったと、騎道は言った。

 頭上を横切る羽音に、彩子も顎を上げた。

 大きく翼を広げた鳥の影。悠々と、真っ青に澄んだ空を渡っていった。

「鷹かノスリだね。そういえば、道路脇に立て看板があったな。野生の猛禽類を保護しよう、か。

 昔は、この辺りにも大名お抱えの鷹匠が居た。御鷹姫の実家にあたる島田家がその筆頭だった」

 彩子は顎を引いた。

「……そうなの」

「御鷹姫も鷹を操ることが出来たんだ。出生を隠して、島田家に匿われていた頃。彼女は土蔵に籠もった身で、迷い込んできた鷹の雛を飼い慣らしてしまった。

 自分の身代わりのように、空に放して暮らしていた」

「……騎道……?」

 彩子の不審な目を、騎道は真っ直ぐに受け止めた。

「御鷹姫と藩主隆都の馴れ初めは、あまり知られてはいないらしいね。

 鷹狩りの場で、隆都が射抜いた一羽の鷹。あまりの見事さに、鷹匠島田家の所有と察した彼は、謝って射落とした侘びを言いに島田家に立ち寄った。

 けれどそれは御鷹姫の鷹だった。唯一の友と思っていた鷹の死に、じっとしていられず、付き添いの女の手を借りて彼女は土蔵を出てしまった。彼女が17歳の春だった。

 そこで二人は巡り逢い、隆都は先代の残した、悲劇の生き証人に心を痛めた」

「だから、御鷹姫と呼ばれるのね」

「……そう。彼女の本当の名前は、こう、と言うんだ」

 こ、う……。

 夢の中の子供は、何と呼んだ? コウ姫……。

『お姉さん、コウ姫に似ているね……』

 彩子は額を押さえて、袴と羽織姿の子供の幻を追い払った。

「彼女が教えてくれたんだ。

 とても嬉しそうに、微笑みながら。彼女にとっては、あの時点でまだ、懐かしむ過去にはなってはいなかった。

 彼を信じていたんだ……」

「……彼女って、誰のことなの……?」

 聞くなと、彩子の胸のどこかが痛みを覚えた。

「こう姫だよ……。彼女は亡くなる寸前まで、藩主隆都を信じて愛していた」

 騎道は、彩子には意味の通じない言葉を言い継いだ。

 彩子の痛みに気付かないままに。

「こんなに寂しいところに、一人で置き去りにされたら、どんな気がすると思う?

 どんどん日が暮れて、真っ暗になって。聞こえるものといったら、枯れ葉の落ちる乾いた音と鳥の叫び声、冷たい風の音だけで。……それも10歳くらいだったら?

 怖いよね。泣き出すのも無理ないと思うだろう?」

 迷い子のように、騎道は林を見渡した。

「その子は、泣いたの?」

「うん……。待っていろって言われていたから、探しにいくこともできなかった。光輝とはぐれたら、一人で帰れないってわかっていたからね。寂しくて、不安で。あのままだったら一晩中泣いていたかもしれない」

 一度草地に目を凝らして、騎道はその場でぐるりと、丸く歩いてみた。騎道は再び、自分の考えに沈んでゆく。

 また置き去りにされた……。騎道に振り回されている自分に、彩子は苛立ち始めていた。

 形にはならない確信が、彩子にあった。

 すべての中心に、近付きつつある気配。閉ざされていた騎道の扉が、鍵を壊される瞬間を、感じていた。

「……今度は何?

 ピクニックに来たわけじゃないこと、忘れないでね」

「その話はちょっとまってて。信じられないな。あれから随分経ってるのに。うまくすれば、こっちも使える」

 打って変わって、騎道の声が生き生きと弾みだした。

 はぐらかされた彩子は語気を強めた。

「騎道!?」

「彩子さん、危ないから少し下がって」

 コートと時計を預け、彩子をその場から数歩下がらせる。

 一歩行きかけて、騎道は引き返した。

「これも」

 少しうつむき、前髪を払うように外した眼鏡を、彩子の手の中に押し込んだ。

「! どういうこと?」

 素早く背を向け、駆け戻った騎道。何の変哲もない草地で、慎重に片膝を付いた。

 右手を枯れ葉の中に差し込む。

 ギン! 重みのあるクリスタル・ガラスを打ち付けたような、透明だが低い音が大地から生まれた。

 彩子は位置を変え、長めの前髪の下、瞼を伏せた騎道の横顔を確かめホッとした。失明をしたい気はないらしい。

 だが、騎道は瞼を上げた。膝を引き寄せ、覗き込むように前に身を乗り出した。

 穴が、開いていた……。騎道の膝元に。

 黒々とした円形の内部には、縁から零れた葉が舞い落ち、吸い込まれてゆく。

 騎道はためらいもせず、中で飛び降りる。

 わずかに、その頬が引き締まっていた。


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