2-1
十月最後の土曜日は晴天だった。
早朝の青々とした空の下、街は清々しさに包まれた。
肺の中まで清めるような冷えた空気が、間近な冬を予告する。張り詰めた気配は、人の心を引き締める。
ひっそりとした緊張感を次第に破る、看護師や患者たちのざわめき。クレッシェンドしてゆく人の気配を感じながら、尾上は一人、診察室でぼんやりとしていた。
頭の中は、高速で回転している。抱えている患者たちの今後。治療法。昨日の反省。厳しく、自分に落ち度はなかったか、自問する。
戸口に立った飛鷹修造に気付いたのは、超常的直感による導きだった。コートの襟を立てた飛鷹は、考えに没頭する尾上に、声を掛けるのをためらっていた。
「……何か、彩子君のことですか?」
尾上は思索の中で、読み上げるように尋ねていた。まるで飛鷹の顔に書かれていたかのように。
飛鷹の険しい表情は、以前会った頃とわずかな違いもなかった。うなずいて、飛鷹は部屋へ入ってきた。
「どうですか? あいつは、まだ炎を怖がっていますか?」
瞬きをして、尾上は我に返った。赤の他人同士で、言葉を介さずに意思を通わせていた事実に気付いたのだ。
妙な一致だとわかっても、質問に対する返答は同じだ。
「ええ……。最近はよくなっていますね。完全には無理でも、日常生活には支障のない程度には回復する見込みはあります。それもここ一、二年以内になるでしょうが。
それが、どうか?」
診察机を挟んだ椅子に、飛鷹は掛けた。
「私は、少し嬉しかったくらいなんですよ。あんな事件が起きて、部下の一人が亡くなったっていうのに。娘が火を心底怖がるようになったことを、喜んでいました。
……あいつは。彩子は、炎に近付けてはならない。
火を好むようになったら、お終いなんです……」
擦り切れかけたスーツの袖口を見せながら、飛鷹は自分の顔をなで下ろした。冴えない瞳を、彼は自覚していた。
「先生には、お詫びしなければなりません。
あの時点では、話す必要はないと判断していたんです。
だが……、嫌な気分だ。つまらんことを、あいつが言い出すものだから……」
「何のことでしょうか? 私でお力になれるのなら……」
「先生の、力をお借りしなければならない事態が、起きるかもしれません。……最悪の場合。悦子が、私の死んだ妻ですが、死ぬまで気にかけていました」
飛鷹は、背筋を伸ばして上体を乗り出した。
「先生は、藤井家に受け継がれる忌まわしい血筋の話しをお聞きですか? 狂死する、若い女の血縁者のことです。
最近では、大正時代。田上遥子という女です」
「……御鷹姫の転生者、と噂される女性ですね」
この街で育った尾上にとっては、興味深い過去の事例としか、認識のなかった一件だ。
「田上遥子は悦子の祖母でした。彩子にとっては、ひいばあさんに当たる」
「しかし……!」
尾上は立ち上がっていた。
迷信だ! 大正時代以後、そんな実例は途絶えている!
だから、この先も!
「……何も起こらなければ、それはそれでいいんです」
弱く笑った飛鷹を、尾上は黙って見返した。
彼の頭は高速で回転し始めた。どうやったら、この父親のマイナスな考え方を逆転させられるのか。座り直して、尾上はじっくりと検証を始める構えを見せた。
機嫌を取ろうという姑息な考えではない。
しかし彩子は、運転席の男に恐々と声をかけた。
「あ、あのっ……。体調は、いかがですか?」
昨日の帰りと同じ状況だった。凄雀が白いセダンを運転し、後部座席に彩子、あの時は学園長夫人の藤江も居た。
意識的に凄雀を頼ったのは、あれが始めてだった。
結果的には、藤江に連れ出された形で、自分から言い出さずにすんで彩子はほっとしていた。
ただ、あまりにも青白い凄雀の顔色に、藤江が計画していた買い物ツアーは中止された。その代わりに、彩子は重大な責務を、彼女に依頼されてしまっていた。
「……問題はない。行き先は?」
一蹴されて、彩子はおとなしく、三橋百貨店前と告げた。
いいのだろうか? エスケープした学生の、私設運転手?
……よくはない。困る。相手は学園長代行なのだ。
この異様な立場を悩む前に、大きな疑問が立ち塞がった。
どうして知ってるの、この人?
騎道との待ち合わせは十時。十分時間があるので、冬物の入れ替えをしていた彩子だった。
いきなり玄関を上がり込んできたのは、ダーク・グレーのスーツを着こなした凄雀遼然だった。せき立てられて、5分後には、彩子は車中の人になっていた。
慌てたので髪はぐしゃぐしゃ。たっぷりセーターとブラック・ジーンズで後部座席のドアを開けたら『風邪を引くつもりか』と怒られた。すごすごと、部屋に散らかした冬服から、彩子は兄のスエード・コートを拾ってきた。
すべてが凄雀のペース。
腹を立てたいけれど、内心、感謝していた。
一人で行動するなと、騎道は自分で言っておきながら、待ち合わせを指定した。
どういうつもり? 代行をよこすつものだったから?
凄雀は、携帯電話のコール音にスピードを緩めた。
「なんだ、お前か」
投げ捨てる口調で、凄雀は応対した。かなり気安い相手らしい。
「急な呼び出しだな。あいにく野暮用で……」
わめき散らされたのか、凄雀は顔をしかめて彩子を見た。
何? ……あたしに、関係のある話し?
「わかった。終わり次第、そっちへ出向く。
ふん。お前の脅しは、私には効かんよ」
……ひどいあしらい様……。
彩子は、電話の相手に深々と同情した。
「あの……、どうして今日は……?」
「今頃騎道は、青くなっているぞ」
は? えっとー、うっとー。
「あいつの裏をかくのは、簡単だな」
…………。楽しそーに、笑ってる……。
「あのっ。二人して、あたしで遊んでるわけですかっ?」
冗談じゃないわよ! 人の気持ちも知らないで!
バック・ミラー越しに睨み付ける。
「……。もう少し女らしくできないのか。車が機嫌を悪くする」
脱力……。どおせ、あたしは高級車には不釣合いですっ。
彩子は沈黙をお返しにした。
知りたいことははぐらかし、聞きたくもないジョークしか口にしない。……騎道とおんなじ。騎道よりも悪い。
騎道の裏をかくって……。迎えにくるつもりだったんだ。
あいつ、また嘘をついた……。
「どぉいうつもりよ! 説明しなさいよ!」
午前十時の開店寸前。三橋百貨店前に人待ち顔で佇んでいた少女が、表情を一転させた。
剣幕に怯んだのは、デニムの上下を着た細身の少年。
鮮やかなパープルが基調の大判ストールを左肩にかけただけの、かなりな薄着だった。
歩道を歩く全員が、若い男女の、あきらかな痴話喧嘩を微笑ましく振り返り、行き過ぎていった。
「??? あ、あの、電話しても誰も出ないから、もう家を出たんだと思って、これでも慌ててきたんですが……」
遅刻、じゃないですよね? と、許しを請う弱い笑みを騎道は作った。
「? 電話って、何よ?」
「やっぱり迎えにいくから、待っていて下さいって」
あ……、そっか。そういうこと。
なんだか、ぷんぷんしていた自分がバカみたい……。
「タイミング悪くてごめん。でも、何もなくてよかった」
先に謝られ、気恥ずかしくて彩子はうつむいてしまった。
騎道のことだから、彩子の自宅にも回ったはず……。
「……悪かったのは、こっちの方よ。遠回りになっちゃったんじゃないの?」
「そうでもないですよ。最初から、ここに寄るつもりだったし。バイクは駐車場に置いてきましたから」
行こ? 騎道に手を取られて、彩子はびっくりした。
「……こんなに冷えて。ストール一枚で、走り回るからよ」
自分のコートを脱いで、騎道に着せかけた。
やっぱり男物は、男の子が着た方が似合う。
秋晴れの日和と真冬のような厚着に、数分前から失敗したと後悔していた彩子だった。
「あげるわ。代わりにこのストールを貰うから」
騎道の薄着は、引っ越しの連続と、一人暮らしの生活苦のせいと彩子は看破した。事実、半ば的中している。
もう五年も兄は着ているのだから、この辺りで買い換える時期のはず。決め付けた彩子は、ボランティアの気分だった。取り上げたストールを両肩に巻き付けてみる。
「丁度いい組み合わせじゃない?」
「それじゃ、彩子さんが寒いよ。ちょっと遠出になるから」
まあ、丁度いっか。騎道が一人ごちた。
「彩子さん。物々交換はどうですか?
僕、コートを選ぶつもりで、この時間にしたんですよ」
開店を告げるオルゴールが、歩道に流れ始めた。
「家具も一つ探したいし。買い物上手な彩子さんに、付き合ってもらいたいなって……。
何か、僕の顔についてます?」
平和この上ないきれいな顔立ちに、平手の一つも飛ばしてやりたい彩子だった。
……揃ってエスケープした意味を、わかってるの?
こらえて、ミニ・リュックから封筒を取り出した。
「学園長代行のお母様から預かってきたの。
一人暮らしを急に始めて、君が苦労しているだろうから、これで入り用なものを選んでくれって、頼まれたわ。
でも、そんな気分になれないから。そっくり預ける」
騎道の手に握らせて、彩子は一歩離れた。
「あたし、その辺で時間潰してるから」
「なら、コート選んでて下さいね。すぐに戻ります」
……泣きたくなるくらい、緊張感のない奴。
「ちょっと、騎道!」
振り向く騎道は、はたと思い付いた。
「やっぱり、一緒に行きます? 家具売り場って何階かな」
「……5階。行くわよっ」
リュックをブンと振り回して、彩子は大股で歩き出した。
無闇と明るい。むちゃくちゃ、騎道は脳天気。
このペースに巻き込まれてやらないと、ゲームの駒は前には進めないらしい。
何だっていうのよ。騎道も代行も。
あたしの現実ってどれなの? おとぼけナイトに振り回されてる今? 見えない誰かに付け回されていた昨日?
「……う。お母さん、こんなに大金……」
背後で、騎道がうめいている。落とすかもしれないからと、彩子にもう一度預け直し、騎道は尋ねた。
「学園長代行ですか、彩子さんを送ってきたのは」
そっけなくうなずくと、騎道は額をカリカリとかいた。
「また、先を越されちゃったなぁ」
明るく、落胆してくれる。
けれど逸らした表情を、ディスプレイの鏡が一瞬だけ捕らえた。見るともなく、彩子は目の当たりにしてしまった。
ひっそりと沈んだ、戸惑いの陰りが瞳にあった。
この時から、騎道に習って自分を隠そうと、彩子は決めた。おたおたしている自分は、飛鷹彩子ではないのだから。
騎道は、海の色か水の色が好み。
青や緑、、薄水色に、視線が引かれる傾向にあった。
騎道は水っぽい揺れが好き。
ウォーター・ベッドから、なかなか離れようとはしなかった。金銭的なゆとりと、自宅の構造上の理由で即却下。
決断するのは素早くて、ソファ一つを選ぶのに、5分とかからなかった。リビングに置くのだという。
アイス・ブルーのプレーンな布張、肘掛け付きの三人掛けのソファ。こんなに寒い色を選ぶなら。彩子はソファ・カバーも必要だと主張した。
それも暖色系。アイボリーの地に茶色がかったオレンジのチェック柄に決めた。
カーテンも同じ柄でと、次を物色する彩子を遮って、騎道はさっさと宅配伝票を書き上げてしまった。
支払いは、自分のポケットマネーで。こんな所は、几帳面にけじめをつける男だった。
「いいわよ。あたし、いらない」
「そうはいかないよ。このコート、いい品ですよ。ただで貰うわけにいきませんから」
「そうは思えないけど? 古くなったからいいのよ」
「このデザインで、古めだから価値が出るんです」
アンティーク物には、とんと弱い彩子だった。
「……どーでもいいわよ。黙ってもらいなさいよっ」
尻込みする彩子をなだめ、二人はファッション・フロアに降りていった。
季節を先取りして、フロアには真冬が溢れている。
クリスマスのデコレーションの中で、真紅のコートとロング・ブーツのマネキンたちが取り澄まして立っている。
かたや、雪の精そのものに、白一色の一角もある。
一転して、彩子は目を輝かせてしまった。
そうだよね。新しいコート、今年は欲しいって思ってたんだ……。などと、数分前に自分に言い訳する始末。
女の子はショッピングが大好きな人種である。彩子にも当てはまるという騎道の読みに、間違いはなかった。
たっぷりと時間をかけて、コートのフロアを巡る。
選ぶつもりはなくて、眺めるだけでも楽しいし。
賑やかな音楽が、頭上から降っている。
時間や、いろいろな事が、彩子の頭から消えていった。
「あ……、それステキ……」
騎道のいる場所に、自然と出くわした。ベルベット・ブルーの壁に飾られた白いハーフ・コートを、騎道は見上げていた。
純白というわけではなく、シルバーがかった光沢のアイボリー。大きな襟とつながった、たっぷりした帽子。毛足の長い、フェイク・ファーの縁取りが、手首にも巡らせてある。
「雪の中に紛れてしまいそうだね……」
ハンガーごと取り上げた騎道。彩子は少しためらった。
着てみるだけなら。促されるまま袖を通してみた。
「……軽い……」
思ったよりも、軽い素材だった。遠目には高級感があるのに、カジュアルな布地が洒落ていた。
さほど厚地でもない。十分、動きやすい。
ぱふん、と帽子を被せられ、彩子は騎道を見上げた。
「……、あたし……」
あわてて、彩子はコートを脱いだ。ハンガーに掛け直す彩子に、騎道は預かったミニ・リュックを差し出した。
「お母さんのお金を使って下さい。僕、下に行ってバイクを取ってきますから」
「ちょっと待ってよ。勝手に決めないで」
「ん……。じゃあ、物々交換」
コートを取り上げて、騎道は店員に渡した。
「……騎道っ!」
「他のが、いいですか?」
彩子は押し黙って、騎道の目前に立った。
二人を見比べ、女店員は困惑顔で足を止めた。
「すみません。強引で」
彩子に言って、店員にはお願いしますと促した。
強引で……。最後の一言に、彩子は目を見張った。
「物々交換よね。フィフティー・フィフティーで嬉しいわ」
念を押してから、言い継いだ。
「あたし、手袋も欲しいな」
彩子は、売り場を探しに歩き出した。
「ついでにマフラーもどうぞ。バイクは風が冷たいから」
軽い足取りで、彩子はその場でターンして向き直った。
「騎道? ありがと」
にこりと、笑い掛けた騎道の頬が強張った。
「その調子で、本当のことを聞かせてね」
かわりに、彩子が唇を引いてみせた。
胸に鋭い剣を打ち込まれたような騎道の表情が、すぐに溶け出し、答えを出した。
「ええ……。勿論」
黒縁眼鏡の奥の瞳が、彩子を射抜いて離さない。
先に目を逸らしたのは、彩子の方だった。