1-2
秦野山を水源として、桜川は細く街を流れている。
ほぼ2メートルの川幅を守るこの川に、人口用水であった形跡はすでに見当たらない。
それを認識している住民も、そう多くなかった。
造成されたのは、今から三百年以上も昔。指揮を取ったのは、当時の六代藩主羽島隆都。彼の藩政の中核を成す、新田開発には欠かせない用水路を巡らせる為。
隆都の狙いは的中し、見る間に沃野が拡張された。現代では穏やかな中核都市の一翼を担っている。
なだらかな扇状地であった地形を測量し、図面を引いた者の名は不明と、歴史には残された。
後世の設計士は、その男の業績に感嘆した。
江戸期とは思えないほど、革新的な技術、技量、大胆な決断力の持ち主であることに。
桜川だけでなく、街の各地に惜しみなく注ぎ込まれた才能に、この地だけを愛した謎めいた男の偉大さを見た。
桜川は、隆都の城屋敷があった稜明学園を迂回し、大河である竜頭川に合流している。
両岸に点々と、名称の由来にもなった桜の木を配し、春は遊歩道を浮かれた人と花で賑わした。
逆に、秋は寂しい。
特に夜道は、示し合わせたように人影はない。
一人の哀しい女の、そぞろな散策を乱さぬように。三百年余、繰り返される、悲恋の儀式をやり過ごす為。
女の名は、生前を御鷹姫。
六代藩主隆都と同じ時代を生き、短い命を散らせし者。
神として祭られて、彼女は白楼后という。
「佐倉さん。寒いからもう帰った方が……」
もごもごと言葉を濁して、強く言えない自分が、田崎は後ろめたかった。
「平気よ。あと少しくらい」
くるんと振り返って、佐倉は微笑んだ。
茶色のハーフ・コートの胸の辺りで、白い息が浮かんで消える。今夜は予想以上に冷え込む夜になった。
すぐに佐倉は、田崎に代わって桜川通りに視線を戻した。
彼女の笑みにボーっとしてしまった田崎は、我に返ると自己嫌悪に陥った。
……俺って、何をやってるんだろ……。
張り込みをしているはずなのだ。兄貴から厚手のスポーツコートを借りて完全な防寒対策もしてきた。風避けがわりに、桜川に面したコンクリート壁に一箇所ある窪みに張り付いて、今夜の待ち伏せポイントは完璧だった。
なのに目的の女性ではなく、生きている方の女の子に全神経が集中してしまう。
このまま佐倉さんを家まで送って、今日は帰ろうか……。
真剣に考えこんでいたくらいだ。
「田崎君は、見たことがあるの? 御鷹姫を」
無闇と鼻の頭をこすって、田崎は答えた。
「それが、まだ。
彼女、出現が不規則で予測不能なんですよ。気紛れなのか、ほんとに何か考えていないだけなのか。さっぱり」
それをはっきりさせるのも、超常現象研究家の探求ポイントでもあるが。実のところ田崎はまだまだ駆け出しで、桜川通りに起きる現象に関しては、噂と文献、それと春日の講釈以外には確かな情報は一つもなかった。
稜学オカルト研究同好会、次期同好会会長の名に賭けて、接近遭遇を果たしたい。これは、田崎臨の悲願でもあった。
だが桜川通りは距離がある。慈円寺から学園までは4キロ以上はある。その上、川は緩く蛇行していた。
御鷹姫の彷徨う幽霊に住民が怯えるお陰で、年々、目撃者は激減の一途を辿ってもいた。
けれど、佐倉は笑い飛ばしもせずにいてくれた。夜食とコーヒーまで差し入れてもらっては、初志貫徹あるのみ。
御鷹姫が再び眠りにつくという11月15日まで、残された時間はほぼ二週間。田崎は決意を新たにした。
「佐倉さん、怖くはないんですか?」
川風に打たれ、桜の木の根元に分厚く吹き溜った枯れ葉が、乾いた音を立てて路上を滑ってゆく。
田崎は少しでも佐倉の風避けになれるように、背の低い彼女にそっと、近寄り過ぎないよう寄り添った。
こういう場合、アンバランスな背の高さが役に立つ。
「そうね……。三百年も前に亡くなっている人なのに、姿を見せるなんて気味が悪いけど。それだけなら、悪いことをしているわけじゃないでしょう? 怖くは、ないわ」
田崎は、目をパチクリさせてしまった。
「変かしら……?」
「いいえっ! とんでもない」
力を込めて、田崎は否定した。
一つ年上なだけなのに、越えられない壁を田崎は噛み締めた。それを打ち破れるか、不安になる。
佐倉は幻でも幽霊でもなく、目の前に居るのに。
「騎道さんも、御鷹姫のことを調べていたみたいね」
なにげなく佐倉は切り出した。田崎はもう一度、誰も居ない桜の木々を見渡してから、こくんとうなずいた。
「あの人、俺の所にも来ました。訳は言わなかったけど、今年の目撃者のことを知りたいって。今のところ一人もないって教えたに、ちょっとがっかりしてたな」
「そう……。今度は、何を追いかけているのかしら……」
いやーな気分に、田崎はどっぷりハマった。
……あいつのことなんて忘れて下さい……!
もう一度、騎道の心配を佐倉がしたら、言い放ってやる。
「田崎君。仲良くしてね」
見上げられてしまう。真剣な表情で。
「手を貸してあげてね。一人で無茶をする人みたいだから。
……こんなこと頼めるの、田崎君しか、私には居ないし」
うつむいた佐倉は、ぎゅっと手を握り合わせている。
「……。わかりました。
俺、仲良くする気はないけど、できる限りのことはしますよ。佐倉さんがそれで安心してくれるなら」
ここでしっかりと、手を握ったりできるんだろうに。
頬を明るくして顔を上げた佐倉に、不器用にうなずくだけが、田崎には精一杯だった。
「? 田崎君、何か、聞こえない……?」
佐倉が、スポーツ・コートの袖をぎゅっと掴んだ。
やけに気温が下がり始めていた。心霊現象の前兆で、よく起きる現象だと言われているが。
現れるとしたら、この近く。
「……あれは……?」
数十メートル上流から、ぼおっとした白い光が、桜川に沿って下ってくる。
白い枝ばかりになった桜の木を潜り抜け、まさに人の歩く速度で、ゆらりゆらりと近付いてくる。枯れ葉を踏み締める音はない。女の低い嗚咽だけを、伴っていた。
「……扇を……。わらわに扇をお返し下され……」
光り輝く人の影、体の内側から発光するような眩さだ。
噂や文献通りに、薄絹のかつぎをかかげた、打掛け姿の若い女。かつぎを捧げる白い二の腕。しなやかな指は、生きている者と変わりがない。瑞々しい素肌だった。
「……扇って、昨日から学園長室に展示されたものかしら」
「た、たぶん。あれは御鷹姫の唯一の遺品だそうですから。
でも始めてだ。扇を欲しがるなんて……」
田崎は息をついで、動悸をなんとか鎮めようとした。
「御鷹姫が欲しがるのは、死産した赤ん坊か、夫であった藩主隆都のどちらかで。扇なんて聞いたこともない……。
……それに……」
寒さと不気味さに震えながら、田崎は目を凝らした。
「何?」
「打掛の色が文献とはまるで違う。血の海か、地獄の業火に例えられるほど、おどろおどろしい朱色だって……」
白っぽい金色に彼女の全身が包まれているせいだろうか。
田崎は、錯覚かと考え直そうとした。
「きれいな金色ね。夢を見ているようだわ」
佐倉がうっとりと囁いて、田崎の腕を放した。
「……返しておくれ。扉を……」
女の途方に暮れた声が、生々しく風に乗った。
艶のある、妙齢な女性の肉声。
二人が見守る目前を、彼女は行き過ぎようとしていた。
「! 佐倉さんっっ……!」
足を踏み出した佐倉に、田崎は慌てた。
「聞いてあげましょうよ。私にはかわいそうな女の人にしか見えないの」
言い切って、佐倉は路上に進み出た。
さすがに、御鷹姫の進路を阻むことはためらわれた。横顔に、斜め後ろから声をかけた。
「どうしてあなたは、扇を探しているの? この道を真っ直ぐ進めば、扇のある場所に出るけど。あなたが良ければ、私が持ってきましょうか?」
田崎はその瞬間、総毛立った。
足を止めた。御鷹姫がぴたりと、静止したのだ。
「田崎君! 落ち着いて。怖がらないでちゃんと見て」
叱られて、腕を掴んでその場から佐倉を連れ出すことを田崎は諦めた。代わりに、女をギッと睨み付ける。
意に介さず、女は薄絹の下で頭を横に振った。
落胆の深さが、ほっそりとした肩に滲み出ていた。
「……学園にある扇では、だめなの……?」
うなずくかわりに、女はそろそろとかつぎを持ち上げた。
あらわになった白い顔立ちが、やはり強烈な金に包まれている。
「……いつ久しく、睦まじくお暮らし……」
微笑む。女が目を細くして。
絹を伏せると、女は来た道を引き返し始めた。
「……扇を……。罪深い者供よ……。わらわの扇をお返しなされ……」
『罪深き者』を言葉で断罪するかのように、女は厳しく呟いて、夜の中に溶けていった。
ポツリと、手の甲に雨を感じ、田崎は空を見上げた。
「……ごめんなさい、私……泣いたりして」
水滴の落ちた田崎の手に、佐倉が掌を重ねた。佐倉の頬が涙で濡れている。声を詰まらせて、佐倉は下を向いた。
「優しい人でしたね。僕らのことわかったみたいで、睦まじく、だなんて……」
皮肉な事態に、田崎は笑おうとした。
彼女自身は、引き裂かれたまま愛が終わったのに。
彼女の一面が、まだ忘れられずに彷徨っているのに。
「……どうしてあげることもできないの? まるで、出口のない迷路に居るみたい……!」
胸に飛び込んでくる佐倉を、田崎は少しかがんで抱き留めた。
ぎこちなく、結った髪を撫でて、それでも顔を上げない佐倉の肩に両腕を回した。
大丈夫。佐倉さんは、あんな目には合わせない。
佐倉同様、田崎も、今の女を生きている者のようにしか思えなくなっていた。
夜食のお茶漬けをすする父親を前に、彩子はちょっとだけ丁寧にお茶を入れた。
茶の間には、人の気配がなかった分だけ冷え切っていた。親娘二人きりでは仕方がない。これは、今日に限ったことではなかった。
「ねぇ、お父さん」
「なんだ?」
早食いは刑事の習性だ。かきこむ隙に返事を挟む。
「別に……、今まで、反対していたわけじゃないのよ? 色々なことがあって、チャンスがなかっただけなんだし」
「何が言いたいんだ、はっきり言わんか」
かろうじて箸を止めた修造に、彩子は自分の湯飲みに息を吹き掛けてから呟いた。
「再婚、してもいいわよ」
ブッ! 思いっきり、修造は吹き出した。
「やーだっ。汚いじゃないっ」
「おっ、おっ、お前がっっ……!」
むせながら、飛鷹修造は湯飲みに手を伸ばした。
「昔、取り合ったんでしょ? 篤子さんのこと。同じ警官だった親友との恋の鞘当で、お父さんは玉砕。
でも今じゃ、おばさまだって色々面倒をみて下さるし。
もう全然他人の関係じゃないわよ」
「何を抜かすか! お前が危なっかしいから、気を使ってもらってるんじゃないか!
まったく……。男親一人じゃ手が回らないんで、仕方なく、お前の入院中は付き添いをお願いしたんだ。
章浩君のこともあるから、身内同様にしてもらってるのに、お前ときたら『再婚』だ? 人の親切に付け上がるのもいい加減にせんか!」
唾を飛ばす修造に、彩子は布巾を広げて防戦した。
「言い忘れてたけど、章浩とは終わってるの。
あたし婚約破棄されちゃったー」
ピラピラっと布巾を揺らして、端から修造を見上げる彩子。息を飲んだ修造に、ニッコリ笑ってみせた。
「だからさ、遠慮することないわよ。
それにね。自分で繋ぎ止めとかないと、ほんとのほんとに赤の他人になっちゃうのよ、これから」
座り直した修造は、湯飲みを押し出した。
彩子は大人しく、またまた丁寧に出涸らしを注いだ。
「お前、誰に聞いたんだ……、昔の……その……」
「篤子おばさま。心配してたんだって。お父さんが自分で身を引いてから、すっかり落ち込むものだから。
でもその頃、お母さんに会ったんでしょ?
ちょっと、くやしかったって言ってた。うちのお母さんの方が、自分より美人に見えたからって。
ははっ。あたしはどっちも美人に見えるるけどな」
渋くなった番茶に、必要以上に渋い顔を修造は作った。
「出会って二ヶ月で電撃結婚。……ほんとは自棄だった?」
「違う!」
彩子は頭をひっこめた。賀島の母篤子から、両親の経緯とその後は、こと細かに聞き出していた。結婚前もその後も、二人は熱烈な恋愛関係にあったという。
それは、彩子の母悦子が亡くなるまで続いた。
勿論、派手なリアクション一つなかったが、二人には確かな絆があった。だからこそ、親子4人は幸福だった。
悦子の命の灯が消えて、プッツリと糸を裁たれた。まだ小学生だった彩子でさえ、深い喪失感を父の背中に見た。
それを振り切るように仕事に打ち込んだ父。
取り残された兄や彩子は、通ってくれる章浩と篤子に寂しさを紛らせた。そうやって、片親同士の家族は肉親のように過ごしてきた。
母親替わりに感じていた篤子との再婚は、特別な変化ではないと彩子は思っている。
今までは、きっかけがなかっただけだ……。
「お母さんだって喜んでくれると思うよ。二人とも、一人同士で何の問題でもないし」
それとなく、篤子の気持ちは探っておいた。口にはしないが、一生、飛鷹家とは関わっていきたいと考えているらしかった。
「……ばーか。篤子さんには、迷惑だよ」
トンと湯飲みを置いて、修造は立ち上がった。
彩子はそっと肩をすくめた。
一人で暮らす篤子が気に掛かっているというのが、修造の本心なはずだった。
勤務中でも篤子のマンションに立ち寄って、無用心がないか顔だけのぞかせ、玄関先でそそくさと帰る。篤子から聞かされた父の姿が、少年のようでおかしかった。
自分で背広をハンガーにかけ、よれたネクタイをしまい込む生活に修造は慣れていた。そんな姿を眺めながら、もう暫くは続けてもらうしかないと、彩子は諦めた。
「お母さんが生きている頃、藤井家の人がうちに来たよね?
覚えてる? ひいあばあちゃんの姪だって言ってた人」
「……嫌な、ばあさんだったな」
玄関先に応対に出た母を見るなり、真っ青になって老婦人は口走った。
『……なんと忌まわしい。瓜二つじゃ……!』
上品さをかなぐり捨てた狼狽に、小さかった彩子は、怯えて母の腕にしがみついた。あの時、母はその言葉を予期していたかのように、物静かに受け止めていた。
二、三言葉を交わして、老婦人は車で引取り、あれから二度と顔を合わせることはなかった。
あの後、修造の方が婦人の無礼さに憤っていたくらいで、悦子は普段通り穏やかなままだった。
「忘れてたけど、藤井家とは縁続きなのよね」
「は。むこうもこっちも、親戚とは思っちゃいないぜ」
修造は笑い飛ばすと、風呂場に姿を消した。
追いかけて、彩子は引き戸越しに声を上げた。
「ねぇ。お母さんとあたし、顔、似てきたよね? そう思わない? 髪は、母さんはきれいなストレートで、全然違うけど……」
決して真っ直ぐにはならない髪に、子供ながら彩子は傷付いていた。しょんぼりとする彩子を膝に抱いて、絵と子はいつも丁寧にブラシをかけてくれた。
『ほらね。フワッとしてとっても可愛いわ』
ガラッと引き戸が開いて、手鏡が突き出てきた。
「全然似とらん。どーしてこんなに似ないのか、俺は不思議だぞ。母さんに比べたらお前なんぞ鬼女だ」
……そこまで言う……?
「! 悪かったわよ! お父さんに似たんでしょう!!」
うーっ。唸ってしまう。
茶の間に引き返し、唸りながらも、鏡をのぞいてみる。
「……ははつ。やっぱり鬼だわ。母さん、こんな顔したことなかったもん……」
鏡を置いて、彩子は手早く茶碗を片付けにかかった。
『瓜二つじゃ……!』
昼間、剣道部室で聞いた幻の皺枯れた声。同じ言葉を、昔聞いた。記憶を辿ってようやく、藤井家の女当主を思い出した。決して、彩子に言ったものではなかったが。
篤子が、いつか漏らしたことがある。
『彩子ちゃん、悦子さんの若い頃に似てきたわねぇ』
ゾッとする。不吉な予言を下されていたようで、彩子は洗いものの手を止めた。
「……何が起きているのよ……」
苛立ちをかきたてて、怯えを振り払いたい。
「明日……。絶対に、騎道に全部話してもらうから……!」
小さく誓って、彩子は自分の顔に水道水を弾き上げた。
この程度で、昂りが押さえられるわけがない。彩子は布団の中に入っても、なかなか寝付けずにいた。
まんじりともせずに、暗闇で天井を見上げていたのは、彩子だけではなかった。
飛鷹修造は、彩子の奇妙な問い掛けに、生前の悦子とのやりとりを思い出した。そっと、襖の向こうに置かれた仏壇の位牌を、修造はなだめてやった。
「……心配するな。お前は気にしすぎなんだ。
彩子はしっかりしてる。あいつは、過去に憑かれたりはしない……。……炎を怖がってるうちは大丈夫だ」
目を閉じて、修造はある決意を固めた。
父親としての責任を、遅まきながら担うつもりだった。