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2/11

 今夜も、冴えた大気が街を包んでいた。

 大量の光の粒と闇の間を、擦り抜けてゆく赤と白の光点。

 止むことのない車の動きは、街がまだ目覚めている証しだった。

 騎道はソファの背に腕を乗せ、視線を遠くへ移した。

 パノラマ・フォーカスな壁面一杯の窓は、贅沢な広さのリビングには最高に相応しい風景画だった。

 正面左手で霞む秦野山を含めた山並みが、星の無い夜空に、墨絵のような輪郭を横たえている。

 秦野山中腹に点る孤立した光は、歴史資料館の常夜灯だろうと、騎道は見当をつけた。

 ここから、車でなら20分程度の距離。

「いい眺めですね。星空を見下しているって、気がしませんか?」

 足音に、騎道は後を振り返った。

「褒めすぎだぜ? ……まぁ、悪い眺めじゃないがな」

 それも夜だけなら。と、駿河は付け加えた。

 手を拭いたタオルを放って、着込んでいたワーク・ジャケットを駿河は脱いだ。軽く点検して、バイクを地下駐車場から引き出しただけだったが、指先はすっかり冷え切った。カラー・シャツにデニムのジャケットという騎道の薄着には、内心呆れていた。

 ……この格好で、バイクに乗ろうってのかよ……。

 もう一つ。騎道の青ざめた顔色も気にかかった。言いくるめて部屋へ上げたのは、そのせいもある。

「親父の見栄だよ。万年貧乏役者だったのが、あっという間に売れちまったから、調子に乗ってさ。

 借金を返せるくらいに、売れ続けてくれたからいいんだけどな。でなかったら離婚だぜ。お袋の性格なら」

 中央駅近くの一等地。繁華街を右手にして、閑静な住宅街とは言い難いが、眺めのいい高級マンションだった。

 一階の一角には、駿河の母親が経営する探偵事務所が入っている。騎道が玄関ホールで内線電話をかけると、まず応対に出たのが彼女だった。

 ファースト・リビングであるこの一角は、窓辺に円形のソファが並べられていた。ちょっとしたパーティーには最適だが、二人きりでは持て余すサイズだった。

「以前は、彩子さんの家とは隣同士だったんでしょう?」

「三年前まではな。あの家、まだ俺ん家なんだぜ」

 騎道の記憶では、駿河家も飛鷹家も、どちらにも引けを取らないくらいくたびれかけていた。自慢にできるほど広い屋敷でもなく、こじんまりとした木造住宅だった。

「よく、彩子の親父さんの世話になってたよ。

 うちの親父、喧嘩っ早くてさ。呆れて警察へ引き取りに行かないお袋の代わりに、身元引受人になってもらったし。感謝してるよ。

 親父はこっちに引っ越したことを後悔してるらしくて、あの家が手放せないんだ。

 けど、近所に迷惑をかけるわけにもいかないからな。ここなら警備も完璧だし、妙な芸能レポーターが来ても適当にあしらえる」

 ニッと笑った駿河は、特別に幸福そうでもなかった。

 駿河も古い家に心を残していて、彼の場合、その気持ちを彩子と幼馴染を続けることで晴らしていた。

「駿河さんも、いずれは?」

「親父は役者にしたいらしくて、妙な画策してるよ。

 ……モデル以上のことをする気はないな。芸能界より、おふくろの事務所の方が気になる。

 あの人、死ぬまで探偵屋を続ける気らしいから」

 反対する理由が、今の所見当たらないのが悩みの種だった。部屋中が完璧に磨かれて、主婦業もほぼ満点、仕事も順調。良妻賢母も備えた、若くて有能な実業家でもある。

「探偵と役者ですか。両立は難しいですね」

「…………。だから困ってるんだろ?」

 本気で、駿河は眉を寄せた。

 進路選択は高校二年生の秋の必須要項だった。進学するのだろうが、探偵と役者では専攻科目も学校も違ってくる。

 本当に母親の跡を継ぎたいのか、自分の意志も不透明だった。半ば義務感で片足を突っ込んでいる世界も、ただ華やかで浮ついているだけではなかった。スリリングな緊張感の中には、彼の血を騒がせる何かがある。

 性に合っているとは思えないが、他の人間より数倍有利なポジションに居ると、駿河は承知していた。

 親の七光りと後ろ指をさされるのは、癪な話しだが。

「そっちはどうなんだ? 決まったのか、進路は」

 進路の希望なるプリントが、配布されているはずだった。

 一時、真顔を造り考えてから、騎道は駿河を見た。

「さあ……。代行の判断次第ですね」

 他人事といった顔をする騎道を、駿河はまじまじと見た。

「彩子さんは、どうするんでしょう。刑事にでもなる気かな?」

 再び街を振り返りながら、騎道は漏らした。

 話題を引き戻すことは諦めて、駿河は頭を振った。

「警官は無理だよ。親父さんが絶対に反対するぜ。

 んでも、あいつがおとなしくできるわけがないからな。

 最悪の場合、おふくろの事務所で危なげのない素行調査でもさせとけば、丁度いいだろうとは思ってるが」

「そこまで考えてもらえるなんて。彩子さんは幸せですね」

 無言で立ち上がった駿河は、腕を伸ばし、騎道の後ろ頭をこずき倒した。

 ベッと、ソファの背に乗せた腕に顔面を打ち当て、何事かと騎道は駿河を見返した。

「どーして貴様は、そこまでクライんだよっ……!」

 言い捨てて、駿河はコーヒーを取りにダイニングへ出ていった。

 前髪をかき上げ、騎道はほんの少しだけ、駿河の言葉を受け入れ反省した。

 けれど街の夜景は、騎道の心をどうしても沈ませる、紅い陰りに覆われている。

 瞼を半ば伏せるなら、それははっきりと見えてくる。

 東西南北。四方に置かれた暗い血の篝火。

 白楼陣が醸し出す怨念の濃い霧が、渦巻いていた。

「……こう姫……。あなたは、こんな人ではなかったのに」

 彼女が彷徨っているはずの桜川通りに、目を凝らした。

 思った通り。一筋の川の流れだけが、紅い澱みに逆らって白い清浄な道を形造っていた。

 水源は秦野山中腹の湧き水である。天然の浄化作用は、街に残されていた僅かな救いだった。

 桜川は、彼女が特別な思い入れを抱く場所なのだ。

 同じ意味で、この地は彼女の誇りでもあった。

 生まれ故郷だからというわけでは決してない。彼女の出自は不幸そのものであり、自分が生まれたことで両親が死に追いやられる結果を導いた事実に、胸を痛めてきた。

 それでも愛しいと語ったその訳は。最愛の男が、この地に全精力を傾けていた。それだけの理由だった。

 彼を愛した時から、男の夢は彼女の夢となった。愛された日々の中で、生まれてきた悲しみが癒されたはずなのに。

 三百年も経って、彼女は行動を起こした。引き裂かれた日々の償いを求めるかのように。

 卑劣な手段を選び、街を怨念と呪詛に染めてまで。

 こうまでして、一体何が欲しい?

 彼女の目的は明確だ。飛鷹彩子の体が欲しい。彼女自身と同じ顔を持つ、生身の肉体を得たい。

 それから?

「……どうするつもりだ、御鷹姫……」

 現代に蘇り、ちっぽけで何の地位も力も無い少女として生まれ変わり、そうして……。

 虚しくはないのだろうか? 一人きり。彼女が焦がれた藩主羽島はしま隆都(た

かひろ)は、すでに亡い。

「! ……そうか」

 賀嶋かじま章浩あきひろが居る。羽嶋家の唯一の直系である一人の少年が、この世には生きている。

 飛鷹彩子の声で賀嶋に話し掛けるなら、電話一本でこと足りる。すぐにでも、呼び寄せることは可能だ。

 だからと言って、陰の白楼陣の作用で急速に滅びてゆく街の中で、彼女はどんな幸せを築こうというのか?

 街のどこからか、低いサイレンの音が聞こえる。

 事故や犯罪が頻発するのは、布陣の影響の可能性もある。

 それは、荒廃へ向かう前兆か?

 ここへ来る前に、東の陣にダメージを与えてきた騎道だった。こうして眺める限りでは、確かな効果はないに等しい。なのに、青白い顔立ちから、疲労感を駿河に見取られるほど疲れていた。

 コーヒー・カップを手渡され、騎道は窓に背を向け、駿河に向き直った。

「賀嶋さんとは、連絡をとっているんですか」

 まあな、と駿河は応えた。

「連絡先を教えてもらえませんか?」

 座り直した駿河が、コードレスホンを取り上げた。

「短縮の30だ」

 言って、受話器を騎道に投げる。

「遠慮するなよ。賀嶋は負け犬なんだから、言いたいことを言ってやれ」

 しばらく顔を見合わせていた騎道が、カップを置いた。

 プッシュホンを押して受話器を耳に当てる。

 高みの見物を決めていた駿河は、内心焦った。

 本気かよ……?

 沈黙が数秒間流れ、ふいに騎道が受話器から耳を放す。

 親指で、スピーカーに切り換える。

 ボーンと一つ、デジタル音。機械的な音声で時刻が読み上げられた。8時43分20秒。

 静寂の一秒。二秒。

 駿河が吹き出した。つられて、騎道も笑い出す。

 43分30秒。二人の笑い声は、ひとしきり続いた。

「この時間だと、むこうは朝ですね」

 通話を切って、騎道は平坦に言った。

 駿河は片手を上げ、掌を見せた。笑みは消えている。

「悪かったよ。短縮は嘘だ」

 アドレスを膝の上に広げ、駿河はメモを取った。

「全寮制で、監獄みたいな場所らしいぜ。

 呼び出せば何時でも必ず捕まるはずだ。セキュリティ・マネジメント・アカデミーのミドル・クラスだそうだ」

「セキュリティ? 普通のハイ・スクールじゃない?」

「そういうことだ。

 あいつの親父も警官で、警備・護衛が専門の『壁』だった。亡くなった原因は癌だったが、発見が遅れたんだ。でなければ、今でも生きていたはずさ。

 お陰で、警官を毛嫌いしていたな。彩子の親父さんも含めて。なのにコロッと気が変わった。去年の夏。ボロボロになった彩子を、立ち直らせてからだ」

「まさか、彩子さんを……?」

「本当に警官になるかはわからん。犯罪には人一倍鼻の利く彩子の先回りができるくらいには、腕を上げたいってさ。

 あいつにとっては、生まれて初めてのロマンチストだったと思うぜ。

 羽が生えているみたいに、彩子は危ない場所を飛び回りたがるからな。先回りして火の粉を払うつもりなんだろ。

 はっきり口には出さなかった。口の重い奴だから。

 けど、あいつはそのつもりだったんだろうが……」

 書き上げたメモを、テーブルの上で弾いて騎道に押しやった。

「……らしくないぜ。途中で気が変わるなんざ」

「怒ってるんですか?」

 騎道は胸のポケットにメモをしまった。

「こっちで地団太踏んでても、しかたねーだろ?」

「僕にはわかります。賀嶋さんの気持ち」

「へーえ?俺にはさっぱりわからんね」

「本気なんですよ。彼は。

 だから、怖くなった」

 怖い……?

 駿河は、騎道の妙に冷めた表情に気を引かれた。

「その先で何を考えたのかは、僕には想像もできませんけど。それに、……考えたくもない。考える必要もない」

 きっぱりと言い切って、コーヒーを一口飲んだ。

 うまいと褒める笑顔は、屈託のないものに変わっていた。

 騎道得意の微笑みのガードに阻まれて、賀嶋の話題はこれで終わった。騎道の言葉通り、この街に居ない人間のことを考えている必要も余裕も、誰にもないのだから。

 二人は、明後日の日曜に設定したグラビア撮影の打ち合わせをして、マンションの玄関前で別れた。

「ほんとに、助かります」

 メタリック・ブルーの車体に合わせた、ブルーのヘルメットを受け取って、騎道はバイクにまたがった。

 賀嶋のバイクと同じ型のRⅡ-μ。むこうは黒が基調だった。タンデム・シートには、もう一つ白いヘルメットがくくり付けてある。

「うまくやれよ」

 意味のある一言に、騎道は頭を振った。

「誤解しないで下さい。彩子さんには、話しをするだけで」

「あのな、騎道。そういう『私は下心なんて全然アリマセン』って態度が一番気に食わないの。わかる?」

「煽らないで下さい。……僕だって男なんですから」

 赤らんだ顔を、フルフェイスのバイザーを下して騎道は隠した。落ち着きのなくなった視線に、駿河はますます図に乗った。

「男ね。そいつは態度で示してもらいたいね」

「駿河さんっ!」

「……告白するのは、彩子だけのつもりか?」

 ふいの冷静な問い掛けに、騎道は駿河を見返した。

「いえ。……明日中に、事後報告を兼ねて来ます。ここに」

 ……まいったね。今度ばかりは本気らしいぜ。

 遠ざかってゆくテール・ランプを、いつまでも見送りながら、駿河は何も羽織らずにいた両肩をすくめた。

「いい身分だぜ。選挙は楽勝できるつもりかよ……」

 ま、あの演説は悪くなかったよな……。

 今日の立会演説会。気負った素振り一つないのに、騎道の体の壇上で大きく見えた。

 淡々とした態度は、騎道の得意ポーズだったが、ほんの一瞬、奴は感情を迸らせた。

『……僕はここに、居たい』

 あんな場所で言うべき言葉ではないし、騎道自身、女々しいことだとわかっていただろうに。

 崖っぷちに立たされた人間の、生々しいばかりの本音は、生徒たちを完全に沈黙させた。

「あら。こっちに連れてきてくれなかったの?」

 玄関ロビーに引き返すと、明りがついている右手の事務所のドアが開いていた。一応、駿河は中をのぞいた。

「顔見たかったのよ? きちんと挨拶のできる子だったし」

 彼女は、難しい顔をパソコンに向けたまま、早く入れとジェスチャーをした。明るいブラウンのパンツ・スーツを、グラビアから抜け出したように着こなしている。

「……冗談じゃないぜ。これが茨子さんで、俺の母親です、なんて紹介できるかよ」

「なぁに? 私のことをママとかお袋とかって呼びたいわけ? こっちこそ冗談じゃないわよ」

 ……こーれーだからっ。

 ゲッソリして、駿河は中に入らず、事務所のドアを閉めた。一瞬、一人で深夜残業の茨子さんにコーヒーでもついでやるべきか? と、ためらった。

 それができなかったのは。スネる年でもないのにと口惜しいながら、やっぱり卑屈になっているからだ。

 常に、一人の女性であろうとしている彼女に。

「……勝てないんだよな。ああいうタイプって……」


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