第三話「記憶」
「水戸って何があるんですかね」
橘次郎はネクタイを締め、スーツの埃を気にした。常磐線特急のスーパーひたちの背もたれに身を預ける姿はどこにでもいるサラリーマンのようだ。だが内ポケットには彼の身分を証明する警察手帳がある。
特殊班の薄暗い資材庫でビデオ鑑賞に明け暮れていたことから解放され、気分は晴れやかだった。身だしなみを整えて外に出ることが、捜査のためとはいえ気持ちがいい。
「水戸と言えば水戸黄門だ」
佐々木は朝刊を折りたたんで咳払いした。誰に言うわけでもないが大ファンだった。
「ああ、時代劇のあれですよね。見たことないけど」
橘は佐々木が睨んでいることに気づかない。
「食い物は納豆、アンコウ、梅だ」
「納豆ですか……嫌いじゃないですけど、警察学校で食べ飽きました。アンコウは見た目がグロいんですよね。梅はすっぱいし」
「なあ、ツグロー」
「ジローです。コーヒーおかわりしますか」
橘は車内販売のワゴンを探した。
「子供の遠足じゃないんだ。あまり、はしゃぐな」
佐々木は丸めた新聞紙で新米刑事の頭をはたいた。
監視カメラで確認したランドクルーザーは水戸ナンバーだった。
所有者をデータベースから照会した結果、水戸市内に居住するスーパーの店員と判明した。加藤輝彦。妻と子供二人の家族を持つ平凡な男だ。前科もなく、借金も住宅ローンだけで無理な額ではなかった。
「そんな人が脅迫するなんて世も末です」
「まだ被疑者と決まったわけじゃない」
動機に欠けるというのが佐々木の見立てだ。恐喝を思い立ったのは何故か。強請るネタさえあれば、ごく普通の男でも事件を起こしてしまうものなのか。生活に困っているわけでもないのに。
「車を貸しただけという線もある」
佐々木の独り言は尻つぼみになった。
東京と違い、水戸の交通の便はよくない。加藤の家まで歩くと三十分かかるとわかり、駅前でタクシーを拾った。
加藤宅にタクシーで乗り付けるわけにはいかない。住宅街にほど近いホームセンターで降車した。そこから目立たないように歩くことにした。
「あの車だ」
二人は遠巻きに黒いランクルを確認した。ベランダは窓があいており、掃除機をかける音が聞こえた。おそらく加藤の妻が在宅しているのだろう。
「おかしい」
「何がですか?」
佐々木は煙草を取り出した。煙草の先で家のほうを指し示す。
一戸建ての駐車場は車二台分のスペースがある。今、駐車しているのはランクルが一台だ。
「刑事の目」
佐々木の口癖を聞いて、橘は背筋を伸ばした。
「えっと」
橘は隣接する家々の様子を窺った。
同じタイプの家屋が並んでいる。それぞれに駐車場があり、車が駐車していた。都内と異なり付近に月極駐車場は見当たらない。自宅に駐車スペースを持っているのが一般的のようだ。
「軽自動車が多いですね。おっと」
結構なスピードの車が走ってきた。身を隠すというよりは危険を感じて、橘は電信柱に身を寄せた。
「今の運転手は女性……主婦でしょうか。助手席に二歳くらいの女の子。チャイルドシート使わないと危ないなあ。後部座席にはブルーのエコバック。ペットボトルのダンボール箱。メーカーはわからないですけど、茶という文字がこううねっていた感じからすると烏龍茶かな」
「お前、よく見えたな」
佐々木は運転手はわかったが、後部座席の様子までは目で追えなかった。
「そんな褒めないでくださいよ」
橘は照れ笑いを浮かべた。
「それで、わかったことを言ってみろ」
佐々木はズボンのポケットに手を突っ込んで聞き流した。
「このあたりは交通の便が良くないようですから、車の需要は高いでしょう。通勤手段も電車ではなく、自家用車が多いと思います」
橘が佐々木を見ると頷きが返ってきた。橘は続ける。
「ほとんどの家に軽自動車が停まっています。軽自動車は税金が安くて二台目の車として所有するケースが多い。運転するのは主婦たちでしょう。今さっきの車もそうでしたし。それに対して加藤宅はランクル、つまり普通車が停めてある。加藤夫人が在宅していると考えると軽が停まってないと不自然」
佐々木は煙草をふかして先を促した。
「でも」
橘は別の見方をした。
「もう一台のスペースに停めているのは普通車かもしれません。あるいは、加藤が通勤に使っているのが軽自動車かも。自転車だってありえる」
橘は得意げに推理した。
「かもしれないな。だが、そんなことは問題じゃないんだよ」
佐々木は煙草をアッシュケースにしまった。
「いいか、ツグロー。思い出すんだ。ビデオを舐めるように見ただろ。カメラに映ったランクルと、そこのランクルには違いがあるぞ」
「違い、ですか」
佐々木が口にした刑事の目が示唆していたのは、観察力ではなく記憶力だと気づいた。
橘は目薬を指して目を閉じた。ビデオ鑑賞で疲れきっていたまぶたの震えは収まっていた。
脳裏に浮かぶコンビニの映像。バックでランクルが入ってきて停止する。少し縁石に触れ、前後に揺れる車体。雑誌の置かれたウィンドウに映るナンバー。角度はきつかったがギリギリで水戸という文字が読めた。
「記憶の中を観察しろ」
そんな無茶なと思いつつも、橘は腕を組んで頭の中に組み上げた映像を再生した。細部まできっちりと舐めるように見る。
しばらくして橘は目を見開いた。
「そうか!」
探り当てた部分を間違い探しの要領で見比べる。目の前の光景と脳に刻み込まれた映像の静止画を交互に見る。
違いはひとつ。
いや、四つだった。