青きDr.の最後の御話
いつまで私は筆をとっていられるだろうか。
そんなことをふと、輪切りにされた檸檬の飾られたアッサムティーを飲みながら考える。
今なら私は何を書くだろうか。そもそも書き出せるかの時点で不明である。
ここ暫くは何も書いていない。必要最低限にしか筆は使わない。今の時代の便利なワープロとやらも、使ったことすらない。
私のような人間が作り出せるものなど、たかが知れている。
見知らぬ街へと行ってしまうようなファンタヂア?主人公は人ではなく?
それとも誰か、私の半生に興味がおありか。そんなノンフィクションも悪くない。
間違うことなく、私のペン先は黒い染みを作るだけで、右手の側面に汚れだけを残していく。
雪解けを目の当たりにした物語は春を喰らう。私の故郷は春や秋らしさはあまりない。どいつもこいつも情緒がない。
桜などはただの肴、儚いものの代名詞だがそれもまた使われぬ。あるが、ないものだ。
そうだ、桜で思い出したのだが。ひとつ小咄を話してやろう。私と君らの秘密の話だ。
これは私が体験したことだが、まあ恐れることもあるまい。
桜の下には死体が埋まっていてな。いや、それを知っている前提の話だ、急かすのはやめたまえ。それを見たことがあるだろうか。
ある桜は不気味だが美しかった、この世のものとは思えぬほどに。百年に一度咲く、大紅の桜だ。正式な名はない、普通に見られるものではないからな。
花は真っ赤に燃え、遠くから見れば街ひとつ焼けているように見えるだろう。だが近寄ると大きな桜の木が一本あるだけである。
一番の特徴は何か。花弁が喋るのだ。「もっと綺麗になりたい」と。いやそれで十分ではないか、と私は言った。
すると花弁たちは一斉にこちらを見、口々に叫んだ。「いやまだだ、まだ足りない」と。
しかしそれでは一体何人喰らえばよいのか。「いや喰らうのは死体だけ。あとはここで眠る人間から少しずつ貰う」
では私のも吸うのか。「お前の血など吸えるか。紫になって百年の努力も無駄になっちまうよ」
そのときだった。私と反対側の幹の向こうから、男たちが何かを運んできた。顔は見えない。それはやはり死体だろうか。
おい、それを喰らうのか、私は聞いた。「見てろ、我々の輝く姿。人間の血でこんなにも綺麗に咲けるのだ」
微かに音を立てて、どうやってか分からないが上手く血を吸っているらしい。桜は赤さを増す。
綺麗だ、と思わず感想を漏らす。
「そうだろう、そうだろう。我々は人の子が想像しうるほど稚拙なものではない」
なるほどな、ではお前、それをいつまで纏う気だ。他の者に見られちまうよ。「お前が特別明るく見えるだけだろう」
本当にお前、ずっとここにいるっていうのかい。「ああいるさ」
また来れば会えるのか。「いや我々は眠らねばならぬからな。確かにお前は運が良いのだ、百年に一度の開花を見られたのだから」
運がいいのか、そりゃあ良かった。だが会えぬのは寂しいな。かといって百年後は生きていない。「当たり前だな、人間がそんな年まで生きられんだろう。ほら、さっさと行け。葬儀屋に見つかったら死体にされちまうよ。そんなもの、我々がお前の血など吸うのは御免だからな、これ持ってさっさと行けばいい」
桜がくれたのは一輪咲いた小枝。数里先まで照らしそうなそれは、来た道を戻る唯一の現実。
では、元気でな。「人を喰らう桜にお前は優しいのだな。いや、人は皆優しい。だから我々は更なる美しさを求めるのだ。人が我々を誉め愛でるから」
私は小枝に導かれ、その場を去った。最後に一度振り返ると、やはり堂々とその桜は枝を広げて燃えていた。
では今その桜はどうなったのか。最早それはないのだ。いくら探しても分からぬ。花弁があろうがあるまいが、分かると思っていたのだが違うらしい。
きっと別の場所で、咲いているのかもしれぬ。この土地で咲くのが百年後なのだ。
忽然と消えていたのだから、私は夢かとも思った。現で夢。しかしあれが本当に私の思い違いでないと証明するものがある。色褪せたが未だに淡いピンクに光る桜だけ。その一輪は枯れずに咲き続けている。
きっとその一輪が咲いているうちは、あの桜は元気なのだと思う。そう思うことにしている。
それを夢で終わらすにはあまりに甘美で、そして儚いから。
もしかすると、君らの所にいるのかもしれない。ならば君はこういうと良い。
「真っ青なDr.が貴殿を呼んでいる」と。きっとそれだけで桜は嬉しさを募らせるだろう。
このくらいが私に語れる最後の話だ。私は筆を置く。もうインクも書き心地も気にすることもない。私は自由だ。
君らが良い話と出会えることを願って。
……ああ、それと。もしその桜に逢えたならば、宜しく言ってはくれまいか。頼んだぞ。