開かれたパンドラの箱は、何を飲み込んだのか
SFミステリーものの短編を書いてみました。
後味が悪いです。
1.
窓のない会議室。
会議室の中には、何本吸われたかもわからない紫煙の臭いと、すっかり冷めきって酸化したコーヒーのひどい匂いが澱のように沈殿していた。
分厚いマジックミラーで仕切られた薄暗い空間で円卓を囲む数人の男女の顔には、一様に濃い疲労と、そして拭い去ることのできない深い後悔の色がへばりついている。
「――今すぐ、事の顛末をまとめたレポートを持たせて、別の人間を実験前に送り込むべきだ」
血走った目で沈黙を破ったのは、プロジェクトの進行を管理していた男だった。
擦り切れた声には、すがるような響きが混じっている。
男は更に言葉を続けた。
「そうだ……ッ!実行直前の一月前に飛んで、即刻プロジェクトを中止させよう!そうすれば、我々は歴史介入などという、取り返しのつかない過ちを犯さずに済むはずだッ!」
「……正気ですか?」
青ざめた顔のデジタル担当の青年が、乾いた声で即座に反論した。
「何だと……?」
「泣いても笑っても、あの装置を起動すれば滞在時間は七時間に固定されます」
「何が言いたい?」
「で、誰が行くんですか?」
「誰かって……それは……」
「いいですか?過去へ送られた人間が、『アイツ』と同じようなことを絶対にしないという保証はどこにあるんです?」
「か、考えすぎだ!目的はあくまで計画の阻止だ。我々のうちの誰かが、あんな狂行に走るわけが……」
「証明など不可能じゃないですか?過去の世界では、この世界線の我々の監視の目など一切届かないんですよ。七時間という絶対的な無干渉の特権を与えられた時、人間がどれほどのエゴを剥き出しにするか、我々はたった今、嫌というほど思い知らされたばかりじゃないですか。それに、別の世界線の自分と遭遇した時のパラドックスについては、まだ未知数過ぎます。もし、これ以上事態が拗れたらどうするつもりですか」
「……だったら『ケース002』だ!今回の歴史干渉を失敗とみなし、直ちに事後検証と修正フェーズに移行――」
「発動できるわけがないでしょう!」
デジタル担当の青年が、吐き捨てるように遮った。
「……トリガーは『帰還しなかった場合』だったな」
「そうですよ。無事に帰還し、あろうことか本来のミッションすら完璧にこなしてみせた。システム上は『大成功』なんです。今回は条件を満たしません」
反論の言葉を見失った進行管理の男に代わり、年配の政府高官が低く重い声で口を開いた。
「そのとおりだな。それに……今更一ヶ月前に飛んでプロジェクトを中止させたところで、もう改変された歴史を元に戻すことなどできんだろう……」
皆の視線が集まる中、高官は忌々しげに頭を振った。
「我々がいるこの世界には、すでに五十年前の時点で『被害者』は存在していない。ターゲットが最初からいない世界線にいる実験前の『アイツ』が、再び過去へ飛んで同じ過ちを繰り返すとは到底思えん」
「……まあ、確かに」
進行管理の男が、自問自答するように腕を組み、虚空を睨みながら呟いた。
「……あいつが誰かと致命的なトラブルを起こしているなどという話は、これまで一度も聞いたことがなかった。怨恨の対象が端から存在しない世界線ならば、計画を中止させても矛盾は生じない、か……?」
己を納得させようとする男の呟きを、高官は冷酷な現実で叩き潰した。
「尤も、その仮説すら、我々には確かめるすべがない」
「そうです……ね」
「もし過ちを取り消すために過去へ行き、その者がまた別の目的で過去を弄れば、さらに過去へ行くことになる。もしくは、我々の世界線から受けた忠告をするために、またそちらの世界線の我々がプロジェクトを中止させるべく過去へ行き……キリがないのだ。修正の連鎖は、いつか必ずこの世界の因果律そのものを崩壊させる」
高官はテーブルに両手をつき、絞り出すように言った。
「我々は、決して開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったんだ」
その言葉を最後に、会議室は再び、冷たい深海に沈んだような静寂に包まれた。
誰もが、解決策のない袋小路で立ち尽くし、ただ時間だけが無為に過ぎていくことへの恐怖に息を潜めている。
彼らの視線の先――マジックミラーの向こう側に作られた、真っ白で無機質な監視室。
パイプ椅子に腰掛けた件の天才科学者は、自分へ向けられた憎悪と恐怖の視線など気にも留める様子もなく、手にした紙媒体の小説に視線を落としていた。
この世界で唯一、「誰かを歴史から消し去る」という完全犯罪を成し遂げた怪物。
それにもかかわらず、その横顔はまるで日曜日の昼下がりを過ごすかのように、酷く穏やかなままだ。
――ペラリ
分厚い防音ガラス越しには聞こえるはずもない、古い紙のページを捲るかすかな音が、取り残された彼らの耳の奥で、不気味なほど鮮明に響いた。
2.
時は一ヶ月前へと遡る。
地下深くの巨大な隔離施設は、人類史上最大のパラダイムシフトを目前にして、熱を帯びた喧騒に包まれていた。
青白いLED照明が煌々と照らし出す空間の中央には、巨大な金属の円筒――タイムトラベル装置が鎮座し、内臓を揺るがすような重低音を響かせている。
「各パラメーター、正常値!座標設定、五十年前の今日に固定!」
「量子ゲート、解放準備よし!」
歴史的な瞬間に立ち会う研究員や政府の高官たちの顔は、一様に紅潮し、興奮冷めやらぬ様子だった。
そんな熱狂の渦の中心にあって、特殊な防護服に身を包んだ天才科学者だけが、まるで散歩にでも出かけるかのような飄々とした佇まいを見せていた。
「……皆さんがそんなに興奮していてどうするんですか」
科学者は苦笑いを浮かべながら、円筒の入り口で振り返った。
進行管理の男が興奮気味に声をかける。
「し、仕方ないだろう!?我々はこれから弩級の歴史的偉業に立ち会うのだぞ!?君こそなぜそこまで冷静にいられるのだ!?」
「肝心の私が冷静じゃなければ、過去の改変に失敗する可能性だってあるんですよ?」
「ハハハ、違いない!だが、頼んだぞ先生。我々は今、歴史の特等席にいるんだからな!」
進行管理の男の言葉に、科学者は事も無げに頷いた。
「こちらの準備は既に万端です。……あとは、時間を行き来する際に、この電子機器が故障しないことだけを祈っていてください」
そう言って、科学者は自身の腕に固定された堅牢なデバイスを軽く叩いた。
そこには、現代の歴史の絶対的な証明となる、総理大臣や官房長官、そして警察組織のトップの署名入りデジタルデータが収められている。
この実験の要であり、彼が過去へ持っていく唯一の『フェイルセーフ』だ。
そしてその中には、これから介入する予定の、50年前の今日に起きた未解決の殺人事件についての詳細なレポートのデータが納められていた。
「万が一、七時間経ってもしも私が帰ってこなかったときは――」
科学者はふと真顔になり、管制室の面々を真っ直ぐに見据えた。
「しっかりと『ケース002』に移行して、失敗の検証をしてくださいね。我々の犠牲を、決して無駄にしないように」
その言葉に、誰もが息を呑み、そして深く頷いた。
(――だからこそ、この男が選ばれたのだ)
進行管理の男は、胸の奥で静かな感嘆を覚えていた。
未曾有の事態にも決して動じない冷徹なまでの理性と、自己犠牲すら厭わない探究心。
過去という未知の領域を託すにふさわしい、完璧な知性。
彼以外の誰に、この大役が務まるというのか。
「では、行ってきます。七時間後にまた会いましょう!」
眩い閃光と、オゾンと焦げた銅線の匂い。
凄まじいエネルギーの奔流とともに、科学者の姿は陽炎のように揺らぎ――次の瞬間、完全に消失した。
残された管制室は、割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。
誰もが、計画の成功を信じて疑わなかった。
この時、彼らの送り出した「完璧な知性」が、五十年前の世界でどのような牙を剥くのか。
誰一人として、想像すらしていなかったのだ。
3.
そして、七時間が経過した。
冷却ガスの極寒の白煙が吹き荒れる中、金属の円筒の重厚な扉がゆっくりと開いた。
防護服に身を包んだ科学者が、静かに姿を現す。
顔には疲労の色が濃く滲んでいたが、その口元には確かな達成感の笑みが浮かんでいた。
「――成功したか!?じゃあ……!」
進行管理の男が身を乗り出して叫ぶと、科学者は事も無げに頷いた。
「ええ。被害者は死んでいないことになっているはずですよ」
「そうか、そ……ん?死んでいない?」
急速に熱せられようとしていた施設内の空気が、ピシリと固まる。
しかし科学者は小さく肩を竦めたまま口を開いた。
「ええ、そもそも私が過去で介入したことで、殺人事件自体が起きていませんからね」
「いやいや!待て、何の事件の話をしているんだ……!?」
進行管理の男が、狐につままれたような顔で首を傾げた。
周囲の研究員たちも、顔を見合わせて戸惑っている。
「……?えーと、どういうことですか?五十年前の今日起きた、あの凄惨な未解決殺人事件ですよ。『保谷市宝石商殺人事件』です。私が過去へ飛んで、犯行を阻止してきたじゃないですか」
「保谷市……?殺人事件……?いやいや、待ってくれ。き、君に任せたのは、五十年前の今日起きた『田無市現金強奪事件』の阻止だろう!?」
男の言葉に、今度は科学者が眉をひそめた。
話が完全に噛み合わない。
進行管理の男が慌てて現代のデータベースを照会するが、過去五十年の記録のどこを探しても、科学者が言うような「殺人事件」など存在していなかった。
今現在の世界線において、彼らがモデルケースとして選んだのは、死者どころかけが人一人出ていない未解決の『現金強奪事件』だったのだ。
一方で、科学者の口から出たのは、プロジェクトチームが全く想定していないチンプンカンプンな事件だった。
「……なるほど!そういうことか!」
戸惑うチームをよそに、科学者はふいに声を上げて歓喜し始めた。
「素晴らしい!世界線の干渉がどこまで及ぶのかが浮き彫りになった!」
「お、教えてくれ!どういうことだ……!?」
「ええ!私が過去で殺人事件を消滅させた結果、歴史の因果律が自動的に『次に相応しい事件』をピックアップして、あなた方の記憶を再構築したんだ!」
その言葉に、進行管理の男はハッと息を呑んだ。
「つまり――君のいた世界線では、現金強奪事件はあくまで候補のうちの一つでしか無かったと……?」
田無市現金強奪事件。
それは確かに、科学者がいた世界線の、このプロジェクトの最終候補として、最後まで残っていた未解決事件のうちの一つだったのだ。
しかし、犯人がバイクや車を足として逃走する以上、こちら側が介入に失敗する可能性が高いと結論付けられ、候補として見送られていた。
「確認してください。この中にある『改変前のデータ』と、あなた方が用意していた、この世界線のバックアップデータを」
科学者が腕のデバイスを取り外し、デジタル担当の青年に手渡した。
そこからの検証作業は、まさに驚愕と熱狂の連続だった。
青年が震える手でデバイスを専用の端末に接続する。
そこに収められていたのは、彼らの手元にある『現金強奪事件』のバックアップデータとはまるっきり異なる、見知らぬ『殺人事件』の詳細なレポートだった。
そしてそのデータには、内閣総理大臣、官房長官、警察組織トップの、偽造不可能な絶対的デジタル署名が付与されていた。
でっち上げなど物理的に不可能な、正真正銘の国家機密データ。
自分たちが持たせたフェイルセーフが、見事に別世界線の記録を保持したまま帰還したのだ。
紛れもなく本物であるその証拠を前に、管制室は遅れてやってきた歓喜の渦に包まれた。
「歴史が変わったんだ……!」
「我々は本当に、過去を修正することに成功したんだッ!」
「人類はついに時間に介入する力を手に入れたのねっ……!!」
「いいかッ!?外部漏洩だけは注意してくれ!!ここから先は公表まで、私も含め、全員が外部との接触は厳禁だからな!!」
絶対的な証明を前に、誰もがタイムトラベルの完全なる成功に大興奮し、互いに抱き合って涙を流した。
この時、彼らは歴史の勝者だった。
4.
違和感に気がついたのは、それから一ヶ月後のことだった。
完全な情報統制下。
プロジェクトメンバーたちは外部との接触を一切断たれたまま、地下施設での軟禁状態を受け入れ、来るべき公表の日に向けて最終的な報告書の作成とデータ精査に追われていた。
深夜の薄暗い資料室。
デジタル担当の青年は、充血した目を擦りながら、科学者が持ち帰った「改変前の世界線」のデータを漫然と眺めていた。
改変前の歴史を証明する、絶対的なファイル。
そのメタデータ上の相違など、これまで誰も気にも留めていなかった。
五十年前の事件のすり合わせと歴史干渉の検証にばかりリソースが割かれ、システムの裏側に残る無機質な文字列など、些末な問題でしかなかったからだ。
「――ん?」
しかし、青年の手は、マウスのホイールを回したままピタリと止まった。
「……なんだ、これ……?」
ファイル作成者の項目。
そこには、改変後の世界のバックアップデータにあるはずの進行管理の男の名前ではなく、デジタル担当である自分の名前でも、上司の名前でもなく、見知らぬ名前が刻まれていた。
『作成者:森灘 誠』
青年は首を傾げ、プロジェクトの関係者名簿を検索した。
ヒットしない。
政府の職員データベースを照会する。
存在しない。
特権アクセスを用いて国民の戸籍情報までくまなく浚ったが、現在この国に、該当する年齢や経歴を持つであろう『森灘 誠』という人物は存在していなかった。
そもそも、この『森灘』という苗字自体が、現代日本において100人にも満たない、かなり希少なもののようだ。
青年の背筋を、じわりと冷たい汗が伝った。
総理の署名がなされた絶対的なファイル。
その大元を作成した人間が、この世界に存在していない。
適当な偽名で作ったアカウントで作成するなどという、軽い気持ちで作れるファイルではない。
「まさか……いや、そんなはずは」
青年は血の気が引くのを感じながら、持ち帰られた『改変前のデータ』の隅々を、他にも改変の痕跡がないか必死に洗った。
すると、どうだ。
ファイルの作成者項目どころではない。
プロジェクトの電子承認履歴、当時の会議の議事録、さらにはシステムのアクセスログに至るまで。
改変前のデータには、『森灘 誠』という男がプロジェクトの中核メンバーとして確かに存在し、活動していた痕跡が無数に刻み込まれていたのだ。
それが、今の改変後の世界線では、すべて別の人間の名前に置き換わっているか、不自然に空席のまま処理されている。
ただのエラーやバグではない。
この『森灘 誠』という人間は、かつて間違いなく、自分たちの同僚だったのだ。
そして青年は、その改変前の議事録のログの中に、もう一つの奇妙な事実を見つけ出していた。
あちらの世界線で行われた実験前夜の会議の記録。
そこで科学者は、やけにあの『保谷市宝石商殺人事件』をモデルケースに推していた。
逆に、こちらの世界線で採用された『田無市現金強奪事件』に対しては、介入へのリスクが高いなどとあれやこれや難癖をつけて、相応しくないと執拗に反対していたのだ。
当初青年も他のメンバーも、単なる世界線の違いによる意見の相違だろうと、大して気に留めていなかった。
しかし、『森灘』という不自然に消滅した男の存在が浮かび上がった今、その議事録のやり取りは、ひどく作為的で不気味なものに見えてくる。
「……そういう、ことか……?」
青白くなった顔が、モニターの光に不気味に照らされる。
青年は震える手で、あの日科学者に与えられた「タイムトラベルの条件」を再度確認した。
滞在時間は、七時間。
男が『保谷市宝石商殺人事件』の阻止という本来のミッションを、ほんの数十分で終わらせていたとしたら。
残された六時間以上の猶予を使って、彼がもし、個人的な目的を果たしていたとしたら。
データに記されていたロケーションから、いくら50年前とはいえ、西武池袋線を駆使すれば、かなり広範囲まで移動が出来る。
対象がどこにいようと、十分に辿り着けそうな時間的猶予がある。
『森灘 誠』。
それが誰なのかは分からない。
彼本人を殺したのか、彼の父親や母親を殺して血統ごと歴史から消し去ったのか。
ただ一つ確かなのは、科学者が五十年前の過去でそれを実行した瞬間、世界は再構築され、自分たちの記憶からも記録からも『森灘 誠』という人間は最初からいなかったことになった、という事実だけだ。
慌てて過去の事件のデータベースにアクセスしようとするも、青年はピタリと手を止めた。
――もしも、事件性のない事故として処理されていたら。
絶望的な気分のまま、『森灘』というキーワードで検索をかけてみるも、何もヒットすることはない。
そして、それ以上、何をどう検索すればいいのか、皆目検討がつかない。
科学者本人にしか知り得ない、怨恨か、あるいはひどく合理的な理由か。
自分たちのあずかり知らない過去の世界で、見知らぬ誰かが一人、歴史の闇に葬られた。
そして、それを証明する手立ても、彼を裁く法律も、この世界には一切存在しない。
青年は恐怖で歯の根を鳴らしながら、ゆっくりと背後を振り返った。
その視線の先、分厚い壁の向こう側の居住区画で、あの怪物が今も穏やかな顔をして眠りについていることを想像し、深い絶望の底へと突き落とされた。
そして物語は、あの重苦しい紫煙が立ち込める「会議室」へと回帰していく――
5.
「――森灘 誠?さあ?存じ上げませんね。戸籍すら存在しない人間でしょう?」
「殺した?私が?いったい誰をですか?」
「被害者も遺体も存在しないのに殺人罪が成立するとは、ずいぶんと斬新な法解釈ですね」
「あのファイルのメタデータですか。歴史干渉のバグか、ただのシステムエラーでしょう。そもそも、そのデータに法的な証拠能力があるんですか?存在しない人間の名前が載っている、出所不明のオカルトデータですよね」
「ええ、もちろん逮捕していただいても構いませんよ。ですが、調書にはどこまでを、どう記載するおつもりで?……ほら、誰も答えられない」
会議室での果てしない議論が導き出した結論は、ただ一つ。完全なる「沈黙」と、計画の「永久凍結」だった。
地下施設の最深部で胎動を続けていた巨大な金属の円筒は、メイン電源を落とされ、二度と目覚めることのない長い眠りについた。
人類が初めて時間の流れに干渉したその大掛かりな装置は、分厚いコンクリートの壁の向こう側で、歴史の表舞台に出ることなく静かに朽ちていく運命を決定づけられた。
天才科学者が罪に問われることは、ついぞなかった。
当然である。
現代のいかなる法律をもってしても、「最初から存在しない人間」を殺した罪を裁くことなどできないのだから。
そして、外部に漏れることなど絶対に許されない情報があまりにも多すぎた。
改変されたこの世界線において、彼はただ『現金強奪事件の介入に失敗して帰還した、優秀で少し運の悪い科学者』でしかない。
防護服からいつものスーツへと着替えた彼は、監視室を出る間際、マジックミラーの向こう側にいるであろうプロジェクトチームに向けて、労うような、あるいは嘲るような一瞥をくれ、小さく会釈をした。
小脇には、読み終えたペーパーバックが抱えられている。
彼はそのまま、何事もなかったかのように、見慣れた東京の日常へと歩み去っていった。
その後ろ姿を引き止める権利は、この世界の誰にもなかった。
手元に残されたのは、ただ一つ。
決してでっち上げることの出来ない国家トップの署名がなされた、あの改変前のデジタルデータだけ。
そこに刻まれた『作成者:森灘 誠』という無機質な文字列だけが、かつて確かにこの世界で呼吸をし、生活を営み、そしてある日突然、過去の因果律ごと歴史から根こそぎ削り取られた一人の人間の、世界で唯一の墓標となった。
プロジェクトチームの面々は、ただ立ち尽くすことしかできない。
これから先、彼らは残りの人生をかけて、底知れぬ恐怖に怯え続けることになるだろう。
自分たちの機嫌を損ねたあの天才科学者が、いつかまた別の手段で時間を遡り、明日には自分たちを「最初からいなかったこと」にするのではないかという、終わりのない疑心暗鬼の中で。
厳重にロックが掛けられ、静寂に包まれた地下施設。
闇に葬られたタイムマシンというパンドラの箱。
果たして、開かれたパンドラの箱は、何を飲み込んだのか。
ひとつの命か。
人類の傲慢さか。
それとも、世界の真実そのものか。
それを知る術は、もう永遠に失われている。
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