「雪の刻印など偽物の証だ」と婚約破棄されたので、加護もお返しします~十年間ひとりで吹雪を抑えてきた元・過労死研究者令嬢は、南国の残念な竜人将軍に溶かされる~
「あなたとの婚約を破棄する。雪の刻印など、しょせん偽物の証だ!」
建国祭の夜。松明が煌々と灯る大広間で、王太子ジェラルドが高らかにそう宣言した。
ざわ、と広間がどよめく。数百の視線が、わたし――公爵令嬢セレスティア・フォン・ヴィンターゼの白銀の髪に突き刺さった。
(はいはい、出ました。断罪イベント。前世含めて数え切れないほど読んだやつね)
わたしは内心で溜め息をつく。
前世で北国の気象研究者だったわたしが、観測データと格闘したまま過労死し、この世界に転生してから十九年。ようやく訪れた「お約束」の展開に、涙も驚きも湧いてこなかった。
「聞いているのか、セレスティア! お前のその冷たい態度、氷のような無表情、私はもう耐えられん!」
ジェラルドの隣で、平民出身の「聖女」ミレーヌが両手で口元を覆い、いかにも怯えたように震えてみせる。
「ジェラルド様……わたし、そんな、令嬢様を追い出すつもりなんて……」
(へえ。じゃあ、あなたの手のひらに彫ってあるその刺青、なんのために用意したのかしら。……墨、滲んでますよ)
彼女の手のひらには、雪の結晶を模した紋様。だが、あれは墨だ。滲みひとつで分かる。
本物の刻印は――こう、生きている。
ミレーヌはさらに声を震わせた。
「冷たい方って、やっぱり怖い……あんな目でわたしを見て。ジェラルド様、わたし……震えが止まりませんの……」
「見ろ、セレスティア。これが真の乙女の姿だ。冷たいお前より、心温かいミレーヌこそが相応しい!」
わたしは右手を持ち上げ、そっと開いた。
手のひらの中心。生まれつき宿った、雪の結晶の刻印。淡く青白い光を放つそれは、王家に伝わる建国神話の証。
「王太子殿下」
喚きもせず、わたしは静かに一礼した。
「なんだ、今さら命乞いか?」
「――承知いたしました。では、加護もお返しいたします」
「……加護、だと? 何を言っている。喚くでもなく、涙のひとつも見せぬのか。まったく、可愛げのない女だ」
(十年間。凍える国境で、ひとりこの国の吹雪を抑えてきた。もう、いいでしょう。溶けなさい)
その瞬間。
手のひらの雪の結晶が、すぅ、と溶けた。まるで春の陽に触れた霜のように、跡形もなく。
広間の誰も、その意味を知らない。
「……あら。手のひらの光が、消えた? なんだか、部屋の空気が……ひやりと……」
ミレーヌが不安げに呟く。だが誰も気に留めなかった。
わたしは踵を返す。
「ではごきげんよう、殿下。偽物の証など、この国にはもう不要でしょう」
「ふん、勝手に去れ。誰も引き留めはせん」
(さようなら、ヴィンターゼ。溶けたのは忠誠――そして、この国の加護そのものよ)
*
馬車が凍てついた街道を進む。窓の外には、月光に青く沈む万年雪の平原。
「奥様も、そうやって笑わずに逝かれました」
御者台の隣から、侍女のハンナがぽつりと言った。四十代の彼女は、公爵家に長年仕える古参で――そして、わたしの母に仕えた唯一の生き証人だ。
「母のこと、まだ話してくれないの?」
「……いずれ。今は、お逃げになることが先でございます」
ハンナの横顔は硬い。わたしは膝の上で手のひらを見つめた。刻印の消えた、ただの手。
(この刻印は神秘でもなんでもない。体温と魔力で雪の結晶構造を制御する、ただの実務スキルよ。データも取ったわ。再現性も確認済み)
吹雪が来れば、国境へ向かう。凍える手で結晶に干渉し、大気の水分を制御して雪雲を散らす。作物を守り、街道を通し、井戸を凍らせない。
それを十年。三歳で刻印の使い方を悟ってから、ずっと。
誰にも感謝されなかった。「氷の令嬢」「冷たく愛想のない娘」――陰口だけが降り積もった。
感情を表に出す余裕なんて、とっくに凍えて使い果たしていた。
「ハンナ。わたしね、決めたの」
「はい」
「この国は一度、本物の雪を思い知るべきよ」
ハンナは何も言わなかった。ただ、温めた葡萄酒の入った革袋を、そっとわたしの手に握らせた。幼い頃、国境から震えて帰るたびに彼女がくれた、あの温もりと同じ。
「……この温もり。国境から震えて帰るたびに、あなたがくれたのと同じね」
「あの頃のあなた様は、まだ泣くことができました」
わたしは目を伏せた。
馬車が国境を越える。
背後で、遠く――ゴォ、と大気が唸る音がした。
(抑える者を失った吹雪が、目を覚ました。……ああ、想定通り。仮説は正しかったわね)
馬車は、南へ。温暖な隣国ソレイユへと向かった。
*
ソレイユは、噂に違わぬ温暖な国だった。
陽光は柔らかく、街路にはオレンジの並木。空気が――暖かい。生まれて初めて、指先が痛くない冬。
「亡命の令嬢殿。将軍がお会いになる」
案内されたのは、国境警備を司る竜人将軍の館。
扉を開けた先にいたのは――毛布にくるまって震える、大男だった。
「……寒い」
褐色の肌、金の瞳、こめかみから伸びる黒曜石の竜角。歴戦の英雄と名高い将軍アイゼン・ドラークヴァルト。兵たちからは「雪女みたいに冷たい男」と恐れられる無表情の英雄。
その英雄が、暖炉の前で湯たんぽを抱えていた。
(……え? 何、この人。歴戦の英雄が、暖炉の前で湯たんぽを抱えて震えている……?)
「アイゼン将軍、でいらっしゃいますか」
「そうだ」
彼は毛布から片目だけ覗かせ、じろりとわたしを見た。無表情。確かに、冷たそうな相貌。
そこへ、侍従が茶を運んできた。アイゼンは一口すすり――びくりと肩を跳ねさせて、そっとカップを置いた。
「……熱い」
(猫舌!?)
さらに侍従が蜂蜜菓子の皿を差し出すと、鉄の無表情がわずかに緩み、金の瞳がきらりと光った。
「……蜂蜜菓子」
(甘党!? しかも、隠しきれてない)
「北から来たと聞いた。雪の国だと」
「はい。ヴィンターゼの」
途端、彼の竜角がしょんぼりと下がった。
「……雪。寒いのは、嫌いだ」
(……だめ。十年ぶりに、口角が動きそう)
あまりに残念な将軍の姿に、わたしは――ほんの少しだけ、口角が動きそうになった。
背後でハンナが小さく呟く。
「これはこれで……お守りしがいがございます」
*
――一方、その頃。ヴィンターゼ王国、首都。
終わらぬ吹雪が、街を呑み込んでいた。
井戸は底まで凍りつき、市場の作物は一夜で全滅。街道は雪に埋もれ、物流は途絶えた。凍死者の報告が、日ごとに積み上がっていく。
王宮の広間で、ジェラルドは青ざめていた。
「なぜだ……なぜ吹雪が止まらない! ミレーヌ、雪解けの奇跡を起こせ! お前は真の乙女なのだろう!?」
「そ、そんな……起きて……起きなさいよ、奇跡! 温かい心があれば起こせるって……!」
ミレーヌは手のひらを掲げた。雪の結晶の刺青。だが、それはただの墨。何度掲げても、大気はびくともしない。窓の外の吹雪は、嘲笑うように激しさを増すばかり。
「そんな話は聞いてない! 刻印があれば、奇跡は勝手に起こるはずでしょう!? どうして、どうしてわたしにはできないの!?」
喚き散らすミレーヌの手のひらを、ジェラルドは掴んで凝視した。爪でこする。
墨が――滲んだ。
「……墨、だと」
沈黙。暖炉の火が、ぱちりと爆ぜる。
「刺青……偽物か。ならば、セレスティアの刻印は……本物だったのか?」
「ち、違うんです、ジェラルド様……! これは、その……!」
遅い。あまりにも遅い理解だった。
「そういえば、あの娘……」老臣が震える声で言った。「毎年、建国祭の後、決まって国境へ発っておられました。あれは……まさか、たった一人で吹雪を鎮めておられたのでは……」
ジェラルドの膝から、力が抜けた。
「冷たいと切り捨てた。愛想がないと蔑んだ。……その手のひらが、この国を十年間、支えていたというのか」
「わ、わたしのせいじゃありません! あの女が、勝手に加護を持ち去っただけで……!」
ミレーヌの叫びは、もう誰の耳にも届かなかった。
「連れ戻せ……セレスティアを連れ戻せ! 今すぐだ! ……頼む、間に合ってくれ」
窓の外では、吹雪が唸り続けている。
抑える者は、もういない。
*
雪原を、一人の男が這っていた。
王太子の衣装は雪と泥に汚れ、金髪は凍りつき、頬は凍傷で赤黒い。ソレイユの国境にたどり着いたジェラルドは、迎えに出たわたしの前で、雪に膝をついた。
「セレスティア……! 戻ってくれ……! お前がいないと、国が滅ぶ……!」
わたしは温かな陽の下で、彼を静かに見下ろした。
「まあ。わざわざ雪の中を、ご苦労さまです」
「頼む……! 私が悪かった! お前の刻印が本物だったと、今なら分かる……!」
「今なら?」
わたしは首を傾げた。淡々と。
「殿下は、こう仰いましたよね。『雪の刻印など、しょせん偽物の証だ』と。数百人の前で、高らかに」
「それは……! あれは、ミレーヌに騙されて……!」
「わたしは承知いたしました。加護をお返ししただけです。偽物の証など、この国には不要でしょう?」
「そんな……! たった一言、去ると告げただけで……!」
「あら」
わたしは、とどめに微笑んだ。生まれて初めて、心から。
「偽物に国を任せればよろしいのでは? 温かい心があれば、奇跡は起こせるのでしょう?」
言葉が、雪原に落ちて凍りついた。
ジェラルドの顔が、絶望に歪む。
そこへ、後ろから低い声が響いた。
「――彼女は、ソレイユの客人だ」
毛布を肩にかけたアイゼンが、わたしの前に立った。震えながらも、竜角を隆と掲げて。
「な……竜人将軍……!」
「これ以上、この方を煩わせるなら――竜として相手をする」
金の瞳が、燃えるように光った。ジェラルドは尻餅をつき、後ずさる。
「ひっ……!」
(……震えながら角を掲げてる。寒いくせに。……ふふ)
程なくして、ヴィンターゼから使者が来た。ミレーヌの刺青詐称が全国に暴かれ、王家は加護の後ろ盾を失って失墜。ジェラルドは廃嫡された、と。
(さて。ようやく、幕が下りたわね)
*
その夜。ソレイユの館の暖炉の前で、ハンナがついに口を開いた。
「奥様――先代の刻印持ちも、あなた様と同じでした」
わたしは葡萄酒のカップを置く。
「……母のこと、聞かせて」
「王家は、刻印持ちを『無償の道具』としか見ておりませんでした。奥様も、来る日も来る日も国境で吹雪を鎮め……感謝の一言もなく、酷使され続け」
ハンナの声が、わずかに震えた。
「凍える国境で、たった一人、お亡くなりになりました。誰にも看取られず。最期まで、笑うことを忘れたまま」
(そう。だからわたしは、決めていたのね。母の死は、事故じゃない。使い潰されたのよ。愛されぬまま、道具として)
わたしは自分の手のひらを見つめた。刻印の消えた、冷たい手。
「冷たいな」
不意に、その手を大きな手が包んだ。アイゼンだった。
「……!」
「冷たいのは――まだ誰も、温めなかっただけだろう」
ぶっきらぼうな声。だが、その手は温かかった。褐色の手のひらから、じんわりと熱が移ってくる。
「わたしの手は、雪の国の手です。あなたは寒いのが、嫌いでしょう」
「……ああ。嫌いだ」アイゼンは目を逸らさなかった。「だが、お前の手なら――握っていたい」
凍えていた指先に、体温が沁みていく。
(溶けていく。十年分の霜が。母の代から続いた、凍てついた何かが)
「あなたの手のひらでなら……この雪、溶けてもいい気がする」
そう呟いた、その時だった。
アイゼンの手の温もりが、わたしの手のひらの中心に集まっていく。
すると――ふわり、と光が灯った。
消えたはずの、雪の結晶の刻印。
だが今度は、青白い冷たい光ではない。温かな、金色の輝きだった。
「……! これは……光が。消えたはずの、雪の結晶の刻印が……それも、金色に?」
(前世の知識でも説明がつかない。刻印は『国を守る意志を手放した時』に消えた。ならば、蘇ったのは――守りたいものが、できたから?)
「見ろ」
アイゼンが、自分の胸元から古い金属の紋章を取り出した。竜人の里に代々伝わるという、色褪せた金属の紋章。
そこに刻まれていたのは――雪の結晶。わたしの刻印と、寸分違わぬ形。
「その紋章……雪の結晶。わたしの刻印と、寸分違わぬ形」
「竜人の里では、これを『雪解けを呼ぶ竜妃の証』と伝えている」アイゼンは静かに言った。「意味は、誰も知らなかった。だが……お前を見た時、分かった気がした」
(雪の国の刻印と、南の竜人の紋章が、同じ形。偶然? それとも――凍える北と、温かな南。冷たさと温もり。それが、巡り会うべくして)
ソレイユの女神は、雪を憎まない。冷たさも含めて、丸ごと愛してくれる。
「セレスティア」アイゼンが、しょんぼり下がっていた竜角を、初めてまっすぐに掲げた。「これからも、俺のそばで――雪を溶かしてくれるか」
わたしは金色に輝く手のひらを、彼の頬にそっと当てた。
「ええ。喜んで。……ただし、猫舌は直してくださいね」
「それは……善処する」
無表情の英雄が、ほんのわずかに、けれど確かに微笑んだ。
暖炉の火が、二人を暖かく照らす。
傍らで、ハンナが目元をそっと拭った。
「奥様。……いえ、お嬢様。ようやく、笑って逝けそうな気がいたします。あなた様のその顔を見られただけで」
(北の国では、まだ吹雪が唸っているだろう。けれどわたしは、もう振り返らない。ここが――わたしの、本当の雪解けの場所だから)
わたしは、消えたはずの――今は金色に灯る手のひらを見つめた。
(さて。この紋章の謎、いずれ竜人の里で確かめなくちゃ。……前世の研究者魂が、久しぶりに疼くわね)
古い紋章が、暖炉の光を受けて、金色にきらめいた。まるで、まだ語られぬ物語の続きを、そっと予告するように。




