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桑道家抄:日常の小さな謎からつながる共感ミステリー  作者: コワモテ
思い出の味

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6/9

諦念

卵はどうやら温度変化に弱いらしい。もしスーパーで卵を冷やして売っていた場合、購入してから自宅の冷蔵庫に入れるまでの移動時間で、卵が常温に戻ってしまう。冷やしたほうが鮮度を保てることは間違いないのだが、温度変化の回数を減らすことの方が、卵の品質には影響が大きいようだ。


「お会計をお待ちのクワミチトオルさーん」


スマホをしまって受付で支払いを済ませる。先ほど診察室で聞いた先生の説明によると、特に味覚に関係する異常は見当たらなかった。受付でもらった検査結果の紙を、自宅に帰ってミサキに手渡しながら、味覚異常ではなさそうなことを伝えると、安堵の表情で買い物に出かけていった。


「今日はブリのお刺身だよー」


台所から何度目かのミサキの声が飛ぶ。もうすぐ晩ご飯だというのに、子どもたちは食卓で遊ぶのをやめようとしない。私も子どもたちも魚が大好物だが、海が近い実家にいた頃は、そのありがたみをまるで感じていなかった。冷蔵庫に海産物が溢れていても嬉しくないし、父が苦労して取り分けてくれた、丼いっぱいのカニ味噌でさえ当時の私には響かない。

「肉がいい!」

そう言っては父を困らせたが、笑いながら、「これも魚の肉だ」と冗談で返すのがお決まりだった。


「うわっ!」


末っ子のアキラの手が当たり、醤油のボトルが勢いよく倒れた。大きな音が大惨事を連想させたが、それに反して被害はほとんど無く、テーブルの上に跳ねた雫を拭くだけで済んだ。ボトルから出た量よりも、開いたフタの裏についていた醤油の方が多かったのではないか、と思えるくらいだった。


夕飯が終わり、子ども達を寝かしつけたあと、私は久しぶりにバーの階段を上った。スガイさんは顔を上げて微笑むと、カウンターの右端の席に案内してくれる。

「何かウイスキーをソーダ割りで」

スガイさんは瓶からグラスにソーダを注ぎながら言った。

「トオルさん、そういえばこの前のオールドパーの話ですけど、別の可能性もあるんですよ」


アルコール度数の高いウイスキーは、開栓後に緩やかな酸化が進むことで、好ましい風味の変化が起こることがあるらしい。時間が経ちすぎると平坦な味わいになってしまうが、飲み慣れていない高校生の私たちには、それがちょうど良かったのかもしれない。


父のウイスキーを友達とこっそり飲んでしまった後、同じ銘柄をコンビニで見つけて買ってきた奴がいた。みんなで開封の儀を執り行い、厳かな雰囲気で飲んだのに、「味が違う」「偽物だ」と、結局は悪ノリで盛り上がり、後片付けが大変だった。


あっ


ふいに別の記憶が蘇ってきた。実家の食卓の上に広がった黒い水たまり。倒れたガラス製の醤油差しと、その真っ赤なフタ。子どもの頃、私が倒してしまったとき、母は大慌てで拭いていた。しかし今日、家で倒れた真空ボトルは、ほとんどこぼれなかった。


「そうか…」


実家では醤油を、流し台の下に一升瓶で保管していた。使うときは醤油差しに移し替えて、そのまま食卓に出しっぱなしになる。記憶の中の醤油の味は、一升瓶と醤油差しの中で、常に空気に触れ続けることで変化したものだったのだ。


「酸化も含めて、思い出の味だったのか」


私は小さく呟いた。スガイさんが微笑んで、グラスに水を注いでくれる。


帰宅すると、まだ起きていたミサキに、私は少し興奮気味に話した。ウイスキーと醤油の味が記憶と違っていた謎が、ついに解けたのだと。ミサキは楽しそうに聞いていたが、途中で表情を変えた。

「へえ、良かったじゃない。……まさか一升瓶で買うなんて言い出すんじゃないでしょうね?」

視線が、あの時の検事のように鋭くなる。

「うっ……」


思い出の味は懐かしい。だが、それにこだわりたいわけじゃない。子ども達にとっては今のありのままの我が家の味が、思い出になっていくのだから。


「あら、これ汚れてるわね」


食卓に置いてあった紙に、ボトルが倒れたときの醤油の雫が飛んでしまったようだ。ミサキが紙を手に取って汚れた場所を確認する。


「ねえトオル、尿酸値の横の印って何?」


血液検査の結果、味覚は正常でも別の異常が見つかっていたようだ。すかさずミサキからの小言が飛んでくる。私も下調べしておいた情報で応戦する。


「卵と醤油はプリン体少ないんだよ」


「卵と醤油が合う料理は、逆にプリン体が多そうですけどねぇ」


ミサキは私の苦しい言い訳に呆れながらも、楽しそうに笑っていた。


真空ボトルが当たり前になった我が家では、思い出の味を再現することはできそうにない。それでもいい。次の連休あたりに、みんなで実家へ行こう。酸化した醤油を味わうためではなく、母と子どもたちを久しぶりに会わせるために。

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