第五話 混乱
叫び声がしたのは二階。
僕達がいる部屋を出てまっすぐ進んだ、反対側の部屋だった。
扉の前には腰を抜かしたマツバラさん。
そして少し離れたところに立つオウスケ君がいる。
「どうしたんですか?!」
「あれ……!!」
マツバラさんは上手く言葉を紡げず真っ直ぐ指を差す。
その指の先へと視線を向けると、オジサンが大量の血を流して死んでいた。
部屋の中央からベッドの方角に頭を向け、うつ伏せに倒れている。
その彼を中心に、部屋中をどす黒い血液が汚していた。
鉄臭い独特な血液の香りが、入り口からでもわかって思わず鼻を袖で覆う。
部屋にあるラグは大部分が血液を吸って赤黒く染まっていた。そして彼の遺体のすぐ隣には、血が飛び散った透明のレインコートが無造作に投げ捨ててある。
「なによ大声出して」
後ろからの声に振り向くと、キムラさんがコツコツと足音を響かせてこちらに向かってきた。
部屋の中を見た彼女は、鼓膜を突き破るような甲高い叫び声を上げる。
「どう……なってるのよ!!!」
彼女はそこから突然駆け出した。
追いかけると、リビングにある大きな掃き出し窓を開けようと、またもがいていた。
「出しなさいよ!!」
叫びながらリビングにある装飾品や置物を次々と窓に投げつける。オウスケ君の手を引いて追いかけてきたマツバラさんも気が動転していた。
そして勿論――この僕も。
キムラさんは投げるものがなくなると、その場にしゃがみ込み頭を掻きむしった。
その瞬間、彼女の髪がずるりと地面に落下する。
化け物を見たかのようなオウスケの叫び声。
叫んだオウスケを睨みつけながら、髪のないキムラが怒鳴る。
混沌とした音の不協和音がリビングを支配していた。
不規則な鼓動が胸を叩く。
絶対に興奮してはいけない。
なにがきっかけで重篤な不整脈を誘発するかなんて分からないんだ。
心臓を押さえつけるように、上から手で覆って息を深く吸って吐く。
空気に飲み込まれるな。
心臓を落ち着かせろ。
ただ無心で、それだけに脳を動かした。
すると僕の肩に温かい手がそっと触れる。
「ユウタ、大丈夫? ちょっと離れよう」
ヒヨリは心配そうにこちらを覗き込みながら手を引いた。
一階にある客間に入ると扉を閉める。
その途端、先程まで響き渡っていたキムラさんのヒステリックな叫び声がぴたりと遮断された。
「……音が」
「聞こえないね。ここ、一部屋一部屋の防音性がすごく高いのかも」
ヒヨリはそう言って客間の扉を拳で叩く。分厚いコンクリートが中に入っているみたいに、叩かれた扉は音が殆どしなかった。
心臓を落ち着かせるように集中しながらも、脳は嫌でも先ほどの光景に引っ張られる。
大量の血で赤く染まった部屋。
遺体の隣に投げ捨てられたレインコート。
そういえば、部屋の出入り口に付近に変な血の跡があった気がした。
まるで自分がつけた足跡を無理やり足で消したみたいな――。
ああだめだ。
鼓動がどうしても早くなる。
時々飛ぶ不規則な心臓の鼓動が耳の奥に響いた。
死が、常に隣で微笑んでいるようなこの心地。
元々二十歳まで生きられないと言われていた。
二十二歳まで生きたことすら奇跡だと。
だからなるべく未練を残さないように、何にも心を動かさないように生きてきた。
じゃないと『どうして自分だけ』という負の感情に飲み込まれそうになってしまうから。
閉じ込められた僕達が落ち着いたのは、そこから何時間も経った後のことだった。
♦︎ ♦︎ ♦︎
リビングに集まった僕達は、誰もが上手く口を開けなかった。
キムラさんはウイッグを元に戻し、唇をキツく結んでいる。
マツバラさんも張り詰めた表情だ。
泣き疲れたのであろうオウスケ君はマツバラさんの膝に頭を預けて眠っていた。
そして彼の幼い心を守るように、マツバラさんはそっと彼の腕に手のひらを乗せている。
ヒヨリは僕のそばに寄り添って、ただじっと全員の顔を観察するように静かに眺めていた。
あの死体の話をする勇気はなくて、そっとキムラさんに視線を向ける。
「キムラさんの髪ってウィッグだったんですね」
肩で切り揃えられた真っ直ぐな茶髪。
それにそっと手を当てたキムラさんは嫌そうに口を開く。
「そうよ。私、乳がんなの。抗がん剤の副作用よ。と言ってもこんなしんどい思いをしたのに効果がなくて、たくさん転移してる。もう長くないわ」
「乳がん……?」
ドクンと心臓がまた少し音を鳴らした。
病院で出会ったのであろう僕とヒヨリ。
乳がんのキムラさん。
視線を向けると、僕の視線の意味を正確に読み取ったマツバラさんが驚いたように目を見開く。
「自分も……癌なんです。スキルス性胃がん」
マツバラさんはそう言って作業着の裾を少し捲った。
そこには彼の身体つきからは考えられない、腹部の膨張がある。スキルス胃がんの進行の早さと致死性の高さは知っていた。
そして僕はマツバラさんの膝に頭を預けて眠っているオウスケの顔を見る。
オウスケは……ここに来る前、すぐに意識を失うほどの事故にあったと言っていた。
「僕は……心房中隔欠損症っていう心臓の病気で……重度の心不全を合併していました」
少し震える手を開き、長い袖の先から自分の指を出した。
指は太鼓のバチのように大きく広がっている。
その指先にある爪は青紫に変色し、異様な形をしていた。
心不全特有の症状らしい。
痛む心臓を無視して隣にいるヒヨリを見る。
彼女は少し諦めたように俯いたまま震える唇を開いた。
「全身性エリテマトーデス」
ヒヨリはそう言って左腕の袖を捲り上げた。
そこには異様に盛り上がった血管が浮き上がっていた。
いくつも針を刺した跡がある。
その血管は彼女が人工透析を受けていたことを示していた。
――僕達の共通点。
それはいつ死んでもおかしくない重篤な疾患を抱えているという事だった。




