第四話 筐の手掛かり
リビングに戻ると、キムラさんがキッチンにいた。
グラスに入れたワインを傾けていた彼女は、僕が入ってきたのを見て口を離す。
「休憩してただけよ。喉が渇いたから」
「……勝手に飲んでいいんですか?」
「出られないのに、この家の人間に配慮しろっていうの?」
皮肉げに笑った彼女は、グラスをキッチンの端に置き「で?何か見つかった?」と僕を見る。
「奥の部屋で四十崎って名札が見つかりました。聞いたことがある気がするんですけど」
「貴方知らないの? 炎上してる有名な女性政治家じゃない」
政治家と言われてピンときた。
『意思決定の完全なる自由』というのを掲げて、大炎上していた政治家だった。
子供により良い社会を――なんて言葉を並べて政界進出を果たした四十崎議員。
子育て世帯や医療職、倫理学者、障害者団体などから『命の断捨離』だと猛反発を喰らっていたことを思い出す。
母はその彼女の掲げた法案に希望を見出し、僕は不快感と嫌悪感を感じていた。
キムラさんは階段に視線を移しながら口を開く。
「二階に彼女の部屋があったわ。多分……この家、政治家の四十崎議員の家で間違いがないと思う」
「……そんな人物の家にどうして僕達が? 選挙は……行ってない非国民だからですかね」
「あら、そういうのよくないわよ。私は世間がどう言おうが彼女の意見に賛成。だから彼女に票を入れた」
キムラさんはそう言って、忌々しそうにキッチンの正面に位置する壁一面の掃き出し窓に目を向ける。
時刻は分からないが、分厚い雲にうっすらと茜色が差し、外は薄暗くなっている。
「この誘拐が政治絡みだとしても、私はただの一般市民よ? 貴方もそうでしょう? 」
僕は小さく頷いた。
一般市民というよりは国民の税金で生きながらえているお荷物と言ってもおかしくはないのだけれど。
ただ、この不可解な状況下。キムラさんは全ての人間が怪しいとでもいうように僕に刺すような視線を向けている。
人に見られる時のいつもの癖で、咄嗟に自分の指先を掌の中に握り込んだ。
体格に釣り合わない大きめのパーカーは、そうするだけで僕の欠陥を隠してくれる。
疑うようなキムラさんの視線。
張り詰めた空気が苦しい。
「僕、二階を見てきます」
彼女の視線から逃げるように階段に足をかけた時、ヒヨリさんが丁度二階からリビングに降りてこようと姿を現した。
「あ、ユウタ。二階に行くの? 階段大丈夫?」
眉を下げて心配する彼女の言葉に少し心臓が跳ねる。
やはり彼女は僕のことを知っている。
それも詳しく。
「階段くらいは上がれるよ」
中学はほとんど通えなかった。
高校は殆ど登校がない定時制。
卒業してからは週に二日ほど、簡単な作業のバイトに行っていたが殆ど家から出ることもない生活を送っていた。
だから彼女との接点が分からない。
兄や姉の友達?
いや、それにしては年齢が若すぎる。
僕の隣まで降りてきて、一緒に階段を登ろうとするヒヨリに視線を向けた。
「二階、何かあった?」
「さっきのオジサンが子供部屋っぽいところにいてさ。入ると怒鳴るんだよね。だから各々、他の部屋探してた」
吹き抜けになっているリビングの二階は、階段を挟んで左右に廊下が分かれていた。
扉は四つ。
ヒヨリさんは先導するように前を歩き、廊下の右側、一番奥の部屋へと進んでいく。
「ここに少し写真があった。四十崎議員の仕事部屋みたい」
厚手のカーペットに採光の良さそうな大きな窓。
その大きな窓に背を向けるように、木製の大きなデスクがある。
僕はすぐに大きな窓に近寄った。
窓の外に見えるのは高級住宅街。
ただ誰も外を歩いていない。どの家のカーテンも閉まっていて、ただそこに存在しているだけの背景画のような光景だった。
鍵はもう誰かが開けたみたいだ。窓枠に手をかけて横に引くがやはり開かない。
「マツバラさんとキムラさんが、しばらく叫んだりしてたんだけど誰も家の前を通らなかったの」
ヒヨリさんの平坦な声が耳に届く。
「街から人が消えたみたいだ」
「確かにそうだね」
振り向いて、もう一度部屋を見渡した。
壁は一面収納や本棚。
まさに仕事をするための部屋と言った感じだ。
本棚は埃が入らないようにとガラス張りになっている。
近づくとガラスの向こう側にいくつか写真が並べてあった。
テレビで見たことある女性議員。満面の笑みで総理大臣や海外の政治家と思われる人々と握手を交わし合っている写真が等間隔に置かれている。
ガラス戸は開いた。写真が並べられている棚の下にある資料集のようなファイルを手に取る。
中を開くと、全て白紙だった。
驚いて他のファイルにも手を伸ばす。
どれも、これも、全て白紙だ。
急いで隣の収納扉に手をかける。
すると今度は開かない。
さっきの引き出しと、まるで同じだった。
「なんだこれ」
「私も試した。この部屋はどこも開かなかったよ。本棚の資料も全部白紙」
開いた扉にもたれかかるようにして立っていたヒヨリは無表情でそう言った。
僕は窓のそばにあるデスクに向かう。そこの引き出しの取手を引っ張るがやはりここも開かない。
「他の部屋はまだ開いたよ。ここに手がかりはないってことなのかも」
まるで漫画のデスゲーム会場だ。
手に汗が滲み、ごくりと喉が鳴った。
「……君はなにを知ってるの?」
無表情で僕を見るヒヨリさんにそう投げかけると彼女は少し悲しそうな顔をした。
「ヒヨリ……さんはさ」
「ヒヨリでいいよ」
言葉に詰まる。
女の子を呼び捨てにしたことなんて、人生で一度もなかった。目の前のパジャマ姿の女の子がとても得体の知れない生物に見える。
「ヒヨリ……は僕と仲が良かったの?」
「うん」
「僕の病気も知ってるよね。さっき僕の体調を気にしてた」
「知ってるよ」
一瞬ヒヨリの視線が僕の手に移動する。
太鼓のバチのように膨れた指先を、僕はそっと手の中に握りしめて隠した。
家でばかり過ごす僕は当然外にも殆どでない。
出る時は主に――病院に行くときだけだ。
「病院で会った?」
「うん、図書室でよく話してたんだ」
ヒヨリはそういうと少し嬉しそうに微笑んだ。
綻んだ顔にも温度を感じない。
そこで気づいた。
ヒヨリの肌は白いのではない。顔色が悪いんだ。
病院の図書室は長期入院患者にとって御用達の場所だった。
子供の時から何度も入院、検査、手術を繰り返していた僕には特に馴染みのある場所だ。医師や看護師が時々読み終わった本を寄付するお陰で漫画なんかもある。
『いつか一緒に行けたらいいね』
そんな声と共に、僕に笑顔を向けるヒヨリの顔が脳裏に浮かんだ。
咄嗟に頭を手で押さえる。他に思い出せることがあるんじゃないかと思ったけれど、霞がかかったように上手く思い出すことができない。
――これはいつの記憶だ?
「修学旅行の……やり直しをしようって話をした?」
「……思い出した?」
ヒヨリは首を傾げて僕を見る。
殆ど思い出せない。
ただ、彼女が僕にそう言った記憶が確かにあった。
僕は確か「無理だよ」と少し自虐的に笑って返した気がする。
だって歩くだけで息が切れるんだ。
血中酸素濃度なんて、本当は普段から酸素吸入をした方がいいほど常に低い。
僕の心臓はいつ止まってもおかしくなかった。
不整脈を起こして今この瞬間に倒れても不思議じゃない。
そこまで考えてふと自分の胸に手を当てる。
そういえば、また息苦しさや疲労感を感じない。
意識すると感じるが、気づくと無くなってる。
僕の様子を観察するように眺め続けるヒヨリに口を開こうとしたその時。
家中に響き渡るような叫び声が空気を切り裂いた。




