第十話 望み
ここは意識の世界。
そのはずなのに呼吸が浅く、早くなる。
心臓はまた不規則に強く胸を叩く。
こんなのは僕の思い込みだ。
狼狽えた時に感じるいつもの生体反応を、ただなぞらえているだけ。
それを否定するかのように、口の中が急に乾いた。
喉がギュッと締め付けられる。
ノシーボ効果の極地とも言えるこの反応。
ああ……だからあの二人は死んだんだ。
首を裂かれたら死ぬ。何度も刺されたら死ぬ。
それは人間にとってひどく当たり前の認識だから。
六人の脳。
四十崎聡太と最も意識が適合した人間が、彼の身体を手に入れる。
ということは、ここから出られるのは一人だけ。
一人だけが健康な肉体を得て、生き延びられるという事だ。
思わず立ち上がった僕に合わせて、ヒヨリも手を床についてゆっくりと立ち上がる。
彼女は嬉しそうに笑いながら僕を見つめた。
『生きたくないの?』
ヒヨリは僕に何度もそう聞いた。
ここでも、人の来ない病院の図書室でも。
たわいない話もたくさんした。
でも、よく考えるといつも話を振ってくるのはヒヨリばかりで、彼女のことをどれだけ知っているのかと聞かれるとあまり知らない。
知らないようにしてきたんだ。
もし友達になってしまったら。
好きになってしまったら。
生きることに未練ができてしまうから。
そのせいで彼女が何を考えているか分からない。
背中にスッと冷たいものが走る。
「ヒヨリは知ってたの?」
「うん」
「最初から?」
「勿論。全部覚えてた」
死んだオジサンが見つかった時、キムラさんが殺されていた時、ヒヨリがどんな顔をしていたか覚えていない。
ずっとずっと僕は自分のことばかりだったから。
これはミステリーでもなんでもない。
ただの勘と消去法──
「ヒヨリが、オジサンとキムラさんを殺したの?」
ヒヨリは驚く事もなく、軽く手を叩く。
「そうだよ。リビングにあった包丁で。この家の防音性がとても高かったのはただの幸運だった。人ってさ、切ったり刺したりしても思ったよりすぐに死なないんだよ」
ヒヨリはそう言いながら、背中に手を回して布に包まれた何かを取り出した。
細い指先で解かれた布から出てきたのは、雑に血が拭われただけの鉛色の刃。
でもその鈍い刃物の光よりも、それを包んでいた布の方に嫌でも視線がいく。
布にはベッタリと鮮血がついていた。
まるでついさっき、誰かを刺したばかりみたいに。
「マツバラさん……オウスケ……く……ん……」
ゆっくりとヒヨリは笑みを深める。
その笑みと、家の中の静寂だけが答えだった。
「ヒヨリ……なんで笑ってるの? なんでこんなことできるの? 人を殺したんだよ?」
「法律には違反してないよ。だってここ、私たちの意識の中だもん。私を裁く法律はまだ存在してないよね?」
「だってここで殺されたら――」
「そう、リタイヤだね。でもこれは殺人じゃない。法律にはまだ記されていないもの。死にたい人の身体をもらう事が罪じゃないのと一緒だよ。罪かどうかは法律が決める。私は私なりに戦っただけ」
四十崎聡太の日記が手から滑り落ちた。
ヒヨリから距離を取りたくても、ここから逃げるための唯一の出口は彼女の真後ろ。
笑顔を浮かべながら包丁を握る彼女から、どう考えても逃げられない。
僕はゆっくりと手を下ろした。
「いいよ。殺しても。元々……生きることなんて諦めてたから」
声に出して、そうだったと思い出す。
怯える必要も、怖がる必要もなかった。
僕は元々諦めていたんだ。
脳の移植に同意したのは、泣きじゃくる母のため。
移植希望者が複数人いること。
その希望者の中で『生体ドナーと適合するための鍵を見つけた人だけが身体を手に入れる』という話を医師から聞いた時、心の中で母に謝りながら真っ先に諦めた。
きっと記憶があったら、僕は何もしなかっただろう。
生きたい人が生きればいいんだ。
ヒヨリがそこまで生きたいならそうすればいい。
僕はゆっくりと目を閉じた。
彼女ができるだけ苦しまずに殺してくれることを祈って。
――暗闇の中、痛みに身構えていた僕の胸を叩いたのは一冊のノートだった。
恐る恐る目を開けると、ヒヨリの顔がすぐそばにある。
「何を言ってるの? ユウタが生きるんだよ」
先ほどまでの笑みは消え失せ、熱の籠った瞳で彼女は真っ直ぐに僕を見ていた。
ヒヨリが僕の手を握る。
そしてその手を、押し付けられた胸の日記に導いた。
「四十崎聡太の心が詰め込まれたノート。彼の心を知ることが、適合の鍵なの。それを知ったユウタは、玄関の扉から出ていける」
本当に意味が分からなくて声が出ない。
ただヒヨリの後ろに、布と一緒に投げ出された包丁が地面に転がっているのが見えた。
「私が参加したのは、貴方を生かすため。それだけのために参加したの」
「な……んで」
「私ね、病気になった時に全部を恨んだの。私だけなんでこんな不幸なんだろうって。なんで周りには未来があるのに、私にはないんだろうって。みんなみんな私くらい不幸になってほしいって。そんな時、貴方に出会った」
最初はただの挨拶だった。
そこから少しずつ会話を交わすようになった。
距離が縮まる中でされた質問の数々。
『生きたくないの?』という彼女の問い。
彼女と交わした沢山の言葉が脳裏を巡る。
「全部諦めてきた貴方をね、可哀想って思ったの。でも、それで私は勝手に救われた。自分より不幸な貴方を見て、勝手に救われたの。それで思った。私は貴方より沢山恵まれていたのに、生きてやりたいこともなかったなって」
そしてヒヨリは笑った。
彼女の真っ白な肌に、瞳に生気が宿る。
それは彼女と関わった中で見たことのない、やりたいことをやり切った満面の笑みだった。
「私を救ってくれた貴方を、今度は私が救う。生きてよユウタ。誰よりも優しい貴方に、諦めなくていい人生を送ってほしい」
日記を持つ手が震えた。
僕はもう四十崎聡太を理解し、脳に受け入れてしまっている。
でも読んだのは僕だけじゃない。
生きるのは僕じゃなくてもいい、と小さく首を振った。
そもそも、誰かを蹴落としてまで生きることを――
僕は望んでない。
生きる事なんて最初から諦めていた。
夢も希望もなく、静かに穏やかに死ねるようにだけ望んでいたんだ。
「僕に……生きることを押し付けるな!」
掠れた僕の叫びが部屋に響いた。
それと同時に受け取った日記を床に投げ捨てる。
ただヒヨリはそれを見て、悲しそうな笑みを浮かべた。
「本当は生きたいくせに。自分と周りを傷つけたくないからって、諦めたふりするのはやめなよ」
心の核心に触れられて、胸が傷んだ。
ヒヨリは床に投げ捨てられた日記を一瞥し背を向ける。
そして彼女は先ほど捨てたはずの包丁をもう一度手に取った。
「誰よりも臆病で優しい貴方は、きっとこれで生を投げ捨てられない。五人分の命を背負って生きて。どんな人生を送ったか、聞かせてくれるのを待ってるね」
痩せ細った手に、逆さに握られた包丁。
ヒヨリはそれを自分の首に突き立てて、思いっきり横に引いた。
大量の血が彼女の細い首から吹き出して、部屋を、日記を、僕を赤く染めていく。
咄嗟に駆け出した僕は、崩れ落ちる彼女を抱き止めた。
裂かれた喉からはヒューヒューという空気の漏れる音。
抱き止めた僕を見るヒヨリの瞳には、まだ小さな光が宿っている。
彼女の唇が微かに動いたが、それは言葉にならなかった。
何度も彼女の名前を呼ぶ。
『生きたくないの?』
そう聞かれた時、本当の気持ちを答えていたら、この結末は変わっていただろうか。
『私達、友達?』
そう聞かれた時、友達だと答えていたら、何か変わっていただろうか。
血を失った彼女の身体は、あっという間に冷たく、硬くなった。
見開かれた瞳に、もう光は映っていない。
命の抜けたヒヨリの肉体を、ゆっくりと床に横たえた。
人の命を犠牲にして生き残るなんて間違っている。
法律が認めれば罪にならないのか?
法律に書かれていなければ罪にはならないのか?
誰かを蹴落として生きる命に価値はあるのか?
僕も、もう終わりにしたかった。
でもそれが本当に自分の気持ちなのか、もう分からない。
彼女とのやり取りだけが脳内で反芻される中、僕は五人分の命と四十崎聡太の日記を拾い上げる。
部屋を出て、階段を降り、リビングを横切って廊下に向かった。
客間と脱衣所から血が流れ出ているのが視界に入ったが、立ち止まることなく玄関へ向かう。
玄関のドアノブを押し込むと、それはガチャリと音を立てた。
小さく開かれたドアの隙間からは、五人の死と一人の絶望によって贖われた、美しく残酷な光が溢れ出した。
了
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