ホールド
2028年、世界の中心で一人の学者が語った。
「もし生まれつき悪人がいるのなら、その存在は産まれた瞬間から罪なのではないか」
沈黙ののち、別の学者が応じた。
「ならば“悪人になる遺伝子”を取り除けば、果たして善人に生まれ変わるというのか」
議論は世界中で燃え上がり、人類を分断してきた。
だが、その最中に一国の科学者が告げた言葉が、歴史を変える。
「答えはすでにある。母体に“ZERO”という薬を投与すれば、胎児に“善の遺伝子”を流し込み、同時に“悪の遺伝子”を完全に封じ込められる」
その発表は世界を震撼させ、翌日には街頭も議会も、ZEROを巡る賛否で埋め尽くされた。
肯定派は叫ぶ――「悪が消えるなら、戦争も犯罪もなくなる」
反対派は訴える――「闇を持たぬ者は、光を知ることもない」
やがて、肯定派の国々は妊婦への投与を義務化し、出生届には「善性保証証明」が添付された。
一方、反対派はZEROを禁制品とし、闇市場では金と引き換えに密かに取引されるようになった。
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### 2053年 ― ZERO世代の成人
ZERO投与後に生まれた世代が成人を迎える年、世界は祝祭に包まれた。
戦争は終息、犯罪率は過去最低。街は静謐に整い、人々は平穏の中で生きているように見えた。
だが、その裏で異変が広がり始める。
ZERO世代は確かに暴力も嘘も知らない。だが同時に――誰かを救おうとする衝動すら持たなかった。
倒れた人を見ても足を止めるだけ。
泣く子どもを前にしても表情を動かさない。
心理学者たちはそれを「感情平坦症候群」と呼んだ。
悪の遺伝子を封じた代償として、強い感情も自己犠牲の本能も奪われてしまったのだ。
さらに、ZERO世代は恋愛感情を希薄化させ、出生率は急減。
やがて発表された統計は人類を震撼させる。――ZERO世代の自殺率は前世代の3倍。
その動機はほぼすべて同じだった。
「生きる意味を見いだせない」
反対派は冷ややかに言った。
「悪は人類の病ではなく、心臓の鼓動そのものだったのだ」
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### ドントクの出現
やがて闇市場には“ZERO解除薬”が流通し始めた。
投与を受けたZERO世代は怒りも愛も涙も取り戻し、生まれて初めて“生きている”と実感した。
しかし同時に、失われていた暴力も解放された。
2053年11月。
ZERO世代から初めての大量殺人犯が現れる。
名は「ドントク」。
成人式の帰り、繁華街にトラックで突入し、サイバーナイフで無差別に人々を切り裂いた。
34人死亡、45人重傷、70人以上が軽傷。
約1時間にわたる惨劇の末、彼は治安維持局に取り押さえられる直前、首に仕込んだレーザーブレードで自らの喉を掻き切った。
その手には、一枚の紙片。
「ようやく、人間になれた」
この一文は、感情の欠落に苦しんでいたZERO世代の心を深く抉り、やがて燃え上がる炎となる。
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### ドントク信仰の誕生
事件後、ネットには怒りと恐怖の声があふれた。
だが同時に、彼を“解放者”と崇める動きが芽生える。
やがて匿名ネットワーク「DON」が誕生。
解除薬の製造法や密売ルートを共有し、“目覚め”の儀式を広める秘密結社へと変貌した。
数か月後、黒いフードをまとった集団が各地で集会を開き、こう唱える姿が目撃される。
「我ら、不完全なる人類に帰還す」
政府はこれを「ドントク信仰」と名付け、過激派として徹底的に弾圧した。
だが皮肉にも、その弾圧が信者たちをさらに結束させ、ドントクを殉教者へと押し上げた。
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### 純化前夜
2060年、ドントク信仰は組織化され、「純化前夜(Pure Eve)」計画を発表。
世界中のZERO世代に解除薬を一斉投与し、“真の人間”を取り戻すという、人類史上最大規模の反乱だった。
治安維持局は阻止を試みたが、すでに計画は世界中に拡散されており、制御不能。
各国政府は国連を通じて「決して投与してはならない」と警告を繰り返したが、もはや止められるものではなかった。
そして――
2061年1月1日。
世界は一斉に、目を覚ました。