私の好きな卑怯者(3分で読める百合ショートショート)
【私の好きな卑怯者】
付き合い始めるのが好きになった時なら、別れるのはどんな時だろう。
嫌いになった時?興味がなくなった時?
それとも理由なんてなにもなくて、ただなんとなく?
恋なんて何故落ちたかすらわからない、とてもあやふやなもの。
“心”がわからなくなったから。
それなら、そのくらいが一番良いと思う。
「なぜ私と別れたいの?」
私から告げた言葉に彼女はそう返した。
当然だろう。
仲は良かったと思うし、愛し合ってもいた。
私はあなたを大切にして、あなたは私を支えてくれる。
そんな日々は尊くて、どんなものよりも輝いていた。
でも、どこかで抜け落ちていた。
今日だったのか、昨日だったのか。
それすら曖昧で。
「わからない、ただ……。ほんとにごめん」
2人っきりの私のマンション。
日曜日の昼過ぎという心の休まる時間。
そこにいる最愛だった人。
手を伸ばせばふれられる距離で、見えない壁が2人を隔てている。
どれだけ時間が経ったのだろう。
好きだった人が静かに立ち上がり、黙って部屋を出ていった。
1人になった部屋の中。
何年もかけて積み上げた思い出だけが脳裏を占めた。
春のあの日、少しだけ寒かった日。
薄着だったあなたは、私の貸したマフラーを気恥ずかしそうにしていたね。
夏のあの日、夜明けの空が水平線まで広がった日。
ふたりで砂浜をどこまでも歩いたね、未来を語りながら。
秋のあの日、世界が黄金色に染まった日。
部屋から見えた夕日があまりに綺麗で瞳をそらせずに、でもあなたは私を見ていた。
冬のある日、あなたの誕生日。
遊園地の観覧車で夜景を見ながら言いあったけど、最後には手を差し出してくれた。
たくさんの思い出。
喧嘩もしたし、しばらく会わなかった時期もある。
それでも思い出すのは――。
「なんで楽しいことばかりなのよ」
泣くことさえできない私はどこまで薄情なのだろう。
部屋を出るあいつの最後の表情は。
「私と違ってた」
歪み、唇を噛みしめ、悲しんでくれていた。
ああ、わかった。
私は今も彼女を愛している。
出会ったあの日、瞳を奪われ、恋をした。
告白して、受け入れられて、嬉しくて、とても嬉しくて、毎日少しずつ好きを積み重ねて。
いつしか積み重ねすぎちゃったんだ。
息ができないくらい大切になって、全てが不安になって、好きが見えないように蓋をした。
でもこれで良かった。
こんな不安定な私じゃいつかあの人を困らせる。
すっかり暗くなってしまった部屋の中。
彼女の香りが残るこの空間が嫌で、財布を片手に立ち上がった。
行き先なんて決まっていない、相談する相手もいない。
ドアノブに手をかけ、扉を開けると――。
「……なんでいるのよ」
あなたがいつもする、何でも知っているかのような表情。
私が好きな表情。
「君は私にここにいてほしいと思うはずだから」
差し出された手。
思わずつかみそうになるが躊躇い、宙で止まる。
私にはこの指を――。
「ところでお嬢さん」
舞台女優のように演技がかった派手な声。
「私はさっき彼女に振られてね、少し話を聞いて慰めてくれない?」
芝居がかったセリフと顔。
そして、もう一度差し出された手。
いつもいつもたくさんの思いを重ねて、ずっと差し出されていたその手。
呼吸が止まっていた私は、大きく、苦しく、吐き出したあと、指先にふれた。
「……許してくれるの?」
聞かない方がいい事。
言葉にしなければ、曖昧なままで関係を続けられるかもしれない。
優しい君は今までと同じように溺れる愛をくれる。
それは、きっとすごく心地良い。
でもそれは、彼女を一方的に傷付けた私があまりにも卑怯だ。
「君だって生きてるわけだし」
何でも知っているかのような少しいやらしい表情。
「辛いことがあって全てが嫌になるときもある」
笑顔のつもりなのだろう。
口角を少しだけ上げた。
「その時そばにいる役目は私なんだって、そう信じてる」
卑怯なのは私じゃなかった。
私よりも強く、深く、愛してくれて、どれだけ歩いてもその心に追いつけない。
本当に卑怯なのは彼女の方だ。
それ以外の言葉で想うことができない。
誰よりも大切に思っているのに、一番愛しているのに、それでも、敵う気がしない。
見つめた彼女の瞳は少し腫れていた。
ほんとにずるいな、もう。
頭を何度か振って嫌な思い出は消す。
ふたりの楽しい記憶をもっと詰め込みたいから。
やっぱり別れるのは嫌いになった時なのかな。
もしそれが正解なら、私にはしばらくできそうにない。
差し出された手をもう離したくなくて、深く、強く、震えながら握り返す。
私よりも少しだけ大きな手が、優しく包み返してくれた。
不意に吹いた風に乗り、私の好きな卑怯者の香りがした。