悲しい思い出にひたって何でもよしにしようなんて考えないで下さい!①
震えるお師匠さまについて、控え室代わりの小会議室に入った。
「先生……」
大丈夫ですか? と声をかけようとしたけれど、その言葉に被せるように「大丈夫よ」とお師匠さまは返答した。
でも、全然大丈夫そうじゃない。
顔は蒼白、という言葉どおり、血色もなく、今日は少し汗ばむくらいの気温なのに、ガタガタ震えている。
思い詰めたような眼差しは、いつもならまっすぐ私を見てくださるのに、今日は視線が合わない。
「本当にごめんなさい。今日は、失礼させていただくわ」
「お宅までお送りします」
「そんな。だいじょ……」
「大丈夫じゃないです。私を安心させると思って、付き添わせて下さい。私のためにお願いします」
卑怯な言い方かも、と思ったけど、こうでも言わないと絶対お師匠さまは聞いてくれないって思ったから。
そうして会議室に置いてあったお師匠さまの荷物の入った風呂敷包みを抱える。
ガッチリと包みを抱き締めた私を見て、お師匠さまは諦めたようにため息をついた。
「そう言うところは、本当に映子さまそっくりね」
「え?」
映子、はお母さんの名前。
もちろん、お師匠さまと知り合いだけど、今、『映子さま』っておっしゃったよね?
いや、確かにお母さんの方が年上だけど、いつもは『女将さん』とか『中沢さん』とか呼んでいるのに。
「先生……? 母と……?」
どんな関係? って訊きたいけど、うまく言葉にできない。
「あら、つい。……ついてきてくださるんでしょう? 私の家で、話しましょう」
悲しげに、でも決意を込めた目で、今度はしっかり私を見てくれた。
「中沢さん、これ」
小会議室を出ると、高村先輩が私のカバンを持って廊下で待機してくれていた。
「あとはこちらで整えておくので、今日はこのまま」
「はい。ありがとうございます」
「……千野先生は、理事長についていらっしゃるわ」
高村先輩が小さく私に耳打ちした。
けれど、お師匠さまにも聞こえたみたい。
小さくビクッと肩を揺らしたのが分かった。
やっぱり、お師匠さまの異変には理事長が関係あるんだろうか?
千野先生……リクは、関係ないよね?
もやもやした思いが胸に渦巻いたまま、私はお師匠さまを家までお送りした。
うちとは少し方向が違うけど、桜女から徒歩で20分くらい。
わりと近い。
「ありがとう、茶朋さん。どうぞ入って」
勝手知ったる、とは言え、今日に限っては、お師匠さまの家に入るのは緊張した。
お稽古に使う水屋付きの広間と、お師匠さまのプライベートエリアを備えた、小さな二階建ての一軒家。
プライベートエリアには何度かお邪魔したことはある。小さな台所と繋がった、いわゆるダイニングキッチンと、2階は寝室兼用の和室。
もともと2DKの売家だったのをリノベーションしたって聞いている。だから、お稽古用の広間以外は、ごく普通の和洋折衷のお家。
「今、お茶を入れるわ」
「それなら私が……」
「いいえ、ちょっと気持ちを落ち着けたいの」
キッチンでお湯を沸かし、お師匠さまは茶碗と急須を取り出す。
少し待っていると、沸騰を知らせるやかんの笛が鳴る。
沸いたお湯を急須に入れ、今度はそのお湯を茶碗に注ぐ。
残ったお湯を捨てて、急須に茶葉を入れると、少し冷ました茶碗のお湯をゆっくり急須に注ぐ。
しばらく蒸らしてから、茶碗にお茶が注がれる。
「おとっときの玉露なの」
淡い黄みがかった緑茶からは胸が透くような幽かな香気が立ち込める。




