閑話休題~ワタシの知らない先生の事情~①
「千野先生、ちょっと……」
国語研究室に戻ると、教科主任が手招きした。
「理事長からも言われているように、あまり部活動にかまけないようにね。そのために残業しても手当は出せないから」
次は教頭を狙っているという噂の、50代半ばのおっさんである。
この学校は教頭以上の役職に就くと定年があってなきが如し、という話だったが、新しい理事長になってからは、その不文律が崩れつつあるらしい。
すでにかなり年をくった校長や教頭が辞めるのも時間の問題だと言うから、今まで足踏みしていた昇格のチャンスが巡ってきた、とも言える。
理事長に気に入られれば一足飛びでの大抜擢だってあり得る、というわけだ。
新理事長の方針は、なるべく成果の少ない部活動を減らして経費削減するのと、偏差値の高い大学への進学率向上のため受験科目に力を入れる、ということだから、部下の教師がマイナーな部活動に熱心なことは喜ばしくない、と言うところだろう。
「分かってます。適当に手を抜いてやりますから。息抜きに茶ぁ飲ませてもらうくらいにしておきますよ」
なんてね。
最初は、本気でそう思っていたんだけど。
「まあ、千野先生は有名進学校でも教鞭を取られていたという話ですから、その辺りはわきまえていらっしゃるかと思いますがね……」
有名進学校、と妙に嫌みったらしくアクセントをつける。
「その実績があるからこそ、担任を持っても頂いたわけですから。教師三年目でなんて、我が校では今まであり得ませんでしたからね」
「重々心得ております」
慇懃にうなずいて見せ……心の中で、アッカンベーしてみせる。
そういえば、初めて顔を合わせた日も、嫌みの連発だったな。
『まるで学生みたいですな。そんなチャラチャラしてると生徒に軽く見られますよ』
中沢に押し倒されて砂埃だらけになったスーツを何とか整えて行ったが、崩れた髪型だけはどうにもならず、いくらか前髪を下していた。
おまけに胸ポケットに入れていた眼鏡もフレームが曲がっていたので、仕方なく裸眼でいた。
別に視力がそれほど悪いわけではなく、素顔を少しでも年相応に見せるためにかけていたから、眼鏡がなくても実務には支障はなかったんだけど。
前髪を下して眼鏡をしていないと、高校生に間違われてしまう童顔が、俺のコンプレックスだったから、教科主任の嫌味は余計頭にきた。
大人っぽく見せるための苦労をふいにされたかと思うと、突然ぶつかってきた猿みたいな女子高生に対しても恨みがましい気持ちになるところだったが、思い出したら怒りより笑みが浮かんでしまった。
キスした時の、あっけにとられたような表情が、可笑しくて。
つい浮かべた笑みを、教科主任は不敵なものと捉えたのか、ひるんだ様子でその時はそれ以上煩くは言ってこなかったのだけれど。
以来、一挙手一投足を見ては、嫌味を言ってくる。
「とにかく! 生徒に甘い顔を見せないように。かといって過度に厳しくするとクレームも入りますから。そこのところはバランスよく。あと、生徒との距離感にも注意してくださいよ。若い先生は、それだけで何かと噂の種になりますからね」
「重々承知しております」
そう言うあんたの奥さんは、この学校の卒業生だって聞いたけど?
女子高時代からここで教師やってるんなら、確かに相手は他に同僚くらいしかいないだろうけど。
自分は教え子に手ぇ出しておいて、よく人のこと注意できるよな?
「では私は、理事長に呼ばれてますから」
まだ、何か言いたそうな教科主任を遮って、俺は席を立つ。
嘘ではない。
新人は今月に入ってから毎日順番に面談することになっており、今日は俺の番。
……気が重いな。




