王太子は諦めない 3
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ぶどう祭りの日は、雲一つない快晴だった。
エヴィラール公爵邸から馬車で三時間ほどのところにある農村には、日よけのためのテントが張られて、その下には、近くのぶどう畑からたくさんのぶどうが運び込まれていた。
大きな木桶がたくさん並べられて、半分ほどの高さまでぶどうが入れられる。
「いい天気だけど暑いね」
「そうですね」
リシャールが水を飲みながら、早くも浮かんできた額の汗を拭う仕草をしたので、アンリエッタはエプロンのポケットからハンカチを取り出した。暑い中行われるお祭りなので、参加する人たちや見学者が熱さにやられないように、給水場も作られているのだ。
今日のアンリエッタは、花柄のエプロン姿だ。
ぶどう祭りに行きたいと言ったところ、せっかくだから一緒にぶどう踏みを楽しめばいいとリシャールが言い出したのである。
貴族令嬢が平民に混ざってぶどう踏みをするなんて普通はあり得ないことだが、リシャールはあまりそういうことを気にしない性格らしい。
祖母が見たら眉をつり上げて怒りそうだと思ったが、ここにはアンリエッタの行動を監視する人はいないので、悩んだ末、せっかくだから経験してみることにしたのだ。
リシャールも、いつもの絵の具まみれの格好ではなくて、今日は白シャツにダークブラウンのズボン姿だ。本当はぶどう踏みの様子を絵にしたかったらしいが、それをするとみんなが気を遣うだろうからと毎年断念しているそうだ。その代わり、ぶどう祭りが終わったあとは、脳裏に焼き付けた映像を必死に絵に起こす作業を続けるため、アトリエから出てこなくなるのだとエバンスが言っていた。
「領主様、ぶどうをどうぞ」
リシャールとテントの下で涼んでいたら、十二、三歳くらいの女の子たちがぶどうを持ってやってきた。
「ありがとう。ほら、アンリエッタも。美味しいよ」
王族や彼らに嫁ぐ立場の人は特に、毒見ができない場所で差し出される食べ物には慎重にならなくてはならない。そう教えられてきたアンリエッタは、何の躊躇もなくぶどうを口に入れたリシャールに驚いた。彼を見ていると、自分がいかに窮屈で狭い世界で生きていたのかを思い知らされる。
おずおずとぶどうを口に入れると、口の中一杯にみずみずしい甘さが広がる。朝収穫したばかりのぶどうだからだろうか、普段食べているものの何倍も美味しく感じられた。
「美味しいだろう? 毎年帰るころに少し分けてくれるんだ。私はこれが楽しみでね」
それはつまり、ぶどう欲しさに祭りに参加していると言うことだろうか。領主が? ほしければ、命令一つで献上させることができる立場なのに?
アンリエッタはぽかんとして、それから急におかしくなってきた。
この人はかつて、四人の兄弟の中で最も優秀だと言われていた王子だった。しかし、王城での窮屈な生活よりも、ここでこうして、好きな時に絵を描いて、ぶどう欲しさに祭りに参加するようなお茶目な領主をしている方がずっと似合っている。ふと、そんな風に思ったからだ。
「笑ったね、アンリエッタ。だってね、ここのぶどうは邸のみんなも大好物なんだ。うちの使用人も貸し出しているし、ちょっとくらいいい思いをしたっていいじゃないか」
ぶどうをもらうことが「いい思い」。ああもう、おかしい。おかしすぎてお腹が痛い。
リシャールがアンリエッタが笑うのが腑に落ちない様子で何度も首を傾げていたが、次の女の子が白ブドウを持って来たのを見るところっと笑顔になった。白ブドウを口に入れて満足そうな顔をしている。
(ぶどう一つで幸せになれる王族なんて、ほかにはいないと思うわ)
幸せそうなリシャールの顔を見ながらぶどうを食べていると、ぶどう踏みを開始する時間になった。
やり方はエヴィラール公爵家の使用人たちにレクチャーされて覚えているが、ちょっと緊張する。なぜなら、スカートを持ち上げて足を出してぶどうを踏むのだ。恥ずかしい。
(おばあ様が見たらはしたないって卒倒するかもだけど……ここにはいないし)
意を決して木桶の中に入ると、プチっと足の裏でぶどうがつぶれた。それとともにぬるっと果汁が溢れ出してきて、気持ちがいいのか悪いのかよくわからない感触に戸惑う。
花柄エプロン姿のぶどう踏みの女の子たちが全員木桶の中に入ると、それを見るためにわらわらと人が集まってきた。
リシャールも笑顔で手を振っている。応援してくれているのだろう。
「せーの!」
一人の女の子の掛け声で、ぶどう踏みがはじまった。
リズミカルに足を動かしながら、女の子たちが歌を歌いはじめる。知らない歌だったがとても陽気な歌だ。アンリエッタも歌に合わせて足を動かす。だんだんと楽しくなってきて、最初に感じていた緊張や恥ずかしさは、気づけばどこかに消えていた。
木桶の中のぶどうがしっかりつぶれるまで踏み続け、終わったころにはすっかりくたくたになってしまった。なかなか体力を使う作業で、動かし続けた足がぷるぷるしている。
「おつかれ、アンリエッタ。はじめてのぶどう踏みはどうだった?」
アンリエッタは、リシャールが差し出してくれた水を受け取り一気に飲み干した。
「はー。生き返ります。ありがとうございます。ぶどう踏み、楽しかったですよ」
「それはよかった。今日アンリエッタが頑張って踏んだぶどうから作られたワインは、我が家にも少し届けてもらえることになっているからね、楽しみにしておいで。……あ、でもそのころには君はいないかもしれないね」
新作のワインが市場に並びはじめるのは冬のはじまり頃だ。何年も熟成させるワインのほかに、新作ワインのフレッシュさを楽しむために一部を販売するのである。今から数えると数か月先のことになるので、リシャールの言う通りアンリエッタは王都に帰っているかもしれない。さすがに冬まで居座るのは迷惑だろうから。
残念だな、とアンリエッタの笑顔がわずかに曇る。
リシャールはアンリエッタが王都に帰っていたら、届いたワインを送ってくれると言ったけれど、素直にありがとうと言えなかった。
リシャールの中では、当然のように、数か月先にはアンリエッタはいないことになっているのだ。
(どうしてか……淋しいわ……)
アンリエッタは僅かに感じた胸の痛みに気づかなかったふりをして、ぶどうの汁で汚れたエプロンを脱ぐと、配られた濡れタオルで汚れた足を丁寧に拭う。
ぶどう祭りはこのあと夕方まで続くそうだが、領主がいつまでも居座ると農村のみんなが楽しめないだろうからと、リシャールとアンリエッタは一足早くお暇することにした。アンリエッタと同じく参加している邸のメイドたちはもう少し残るそうだ。
お土産のぶどうをもらって馬車に乗り込むと、ゆっくりと馬車が動き出す。
来たときと同じように三時間かけて邸に戻ると、玄関をくぐったところでエバンスに呼び止められた。
「アンリエッタ様、お手紙が届いていますよ」
「お手紙?」
エバンスに差し出された手紙を見ると、差出人は長兄の名前になっていた。兄がわざわざ手紙を送りつけてくるのは珍しい。
(何かあったのかしら?)
怪訝に思って、渡されたペーパーナイフで、玄関ホールでそのまま封を切る。中には一枚の便せんが入っていて、短くこう書かれていた。
――王太子、逃亡。詳細不明。
「は?」
アンリエッタはあんぐりと口を開けた。