王太子は諦めない 2
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「はっくしゅん!」
「風邪かい?」
大きなくしゃみをしたアンリエッタに、リシャールが心配そうに眉を寄せた。
「いえ、ちょっと悪寒が……」
「熱が上がるのかもしれないね。手伝いはいいから、部屋で休んでいなさい」
「大丈夫だとは思うんですが、ではお言葉に甘えて」
風邪の引きはじめというよりは、何か嫌な予感がしただけだ。こう、ぞぞぞっと背筋を這いあがる何かを感じただけである。気のせいだろうけど。
アンリエッタは今、リシャールのアトリエで部屋の片づけを手伝っていた。
ただ何もせずに居候するのも申し訳なかったからである。
先日の絵を描き終えたリシャールは、次の絵を描く前に散らかった部屋を片付けることにしたのだ。
描き終わった絵たちは、執事のエルビスによってほかの部屋に運ばれている。先日の絵は、アンリエッタがもらって、部屋に飾ってもらっていた。
「新しい絵の具がほしいなぁ」
リシャールが絵の具を片づけながらぼやいているのを聞きながら、アンリエッタは廊下に出た。
自分の部屋に向けて歩きながら、ふと思う。
祖母の命令でエヴィラール公爵家に来たものの、アンリエッタは何もすることがない(リシャールを口説けと言う祖母の命令はとりあえず棚の上に置いている)。
(さすがに心苦しいのよね。雑用でもいいから何かお手伝いできないかしら?)
絵を描くのは手伝えないから、公爵家の雑務とか? だが、リシャールは優秀なので、アンリエッタの手伝いは必要としていない気がする。
うーんと悩んでいると、前方から、花柄のエプロンを何枚も抱えたメイドが歩いて来た。見ないエプロンだ。この邸で働くメイドたちは、白いエプロンを身に着けているから。
「可愛いエプロンね」
気になったこともあり声をかけてみると、メイドはにこりと微笑んで立ち止まった。
「もうすぐ近くの農村でぶどう祭りがあるんです。わたしたちメイドも、毎年参加させてもらっているのでその準備を」
抱えているエプロンは、毎年ぶどう祭りで使うものらしい。去年洗って収めていたのを、もう一度洗いなおして干すのだそうだ。
「ぶどう祭り?」
「はい。最初に取れたぶどうをワインにするためにみんなで踏むんです。ワインづくりが盛んになるのはもう少し……秋に差しかかる頃なんですけど、ぶどう祭りはその前に行うんですよ。ぶどう踏みのほかに、採れたてのぶどうがふるまわれたり、お菓子が売られたり、とっても賑やかなお祭りなんです」
「それは面白そうね」
「はい! もしよかったらお嬢様も参加してみてはどうですか? 旦那様も毎年お出かけになるんですよ」
「リシャール様もぶどうを踏むの?」
「いえ、ぶどう祭りでぶどうを踏むのは女性陣だけです。そっちの方が華やかだからって聞いたことがあります」
華を求めるのは祭りだからだろうか。すると男性陣は何をするのだろう。
気になったが、これはあまり追求しない方がいい気がした。
「もし許可がでたら、わたくしも行くわ」
「はい。ぜひ!」
アンリエッタは滅多に領地に帰らないし、帰っても勉強ばかりしていたから、領地で行われている行事に疎い。アンリエッタの父が持つソルフェーシア伯爵領はグリュノ公爵領の中にあり、あのあたりではぶどうの生産は盛んでないから、ぶどう祭りはないだろうが、きっとその土地に根差した祭りがあったはずだ。
(知らなかったのは、ちょっと損した気分ね)
妃教育で忙しかったとはいえ、もっと周囲に意識を向けていればよかった。
(その点ここは、いいところね)
王都にいたときとは違って、ゆっくりと時間が流れているような穏やかな毎日。妃教育を受ける必要もなくなった今、こうした穏やかな環境の中、静かに暮らすのも悪くない。
(……って、永遠にここにいられるわけでもないのに、何を考えているのかしら)
リシャールは好きなだけいていいと言ってくれたけれど、永遠に居座り続けるわけにはいかない。それこそ、リシャールと結婚しない限り無理な話だ。
(リシャール様はいい方だけど、わたしを相手にするはずないもの。残念だわ)
アンリエッタは小さく笑うと、自分の部屋の扉をそっと押し開けた。