リシャールのために 5
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ピリピリと肌を刺すような緊張感がグリュノ公爵邸のサロンに漂っている。
アンリエッタの前に座っている祖母は、一部ではシャルロワ国の女傑と言われた王女。
頭脳、決断力、行動力、そして気迫。どれをとっても、次期王はイザベルだと言わしめた才媛。
望めば手に入っていた玉座をすぐ下の弟に譲ったのは、ほかならぬイザベル本人だと聞いている。
王には弟エルネストを。自分よりも優れた賢君になるだろう。そう言って、イザベルは王位継承権を放棄し、あっさりと、幼馴染だったグリュノ公爵子息へ嫁いだ。当時、祖母に熱烈に求愛していたブラージ国の王太子には目もくれず。祖母は、隣国で王妃になるよりも、愛するシャルロア国に残ることを選んだ。
すべてに置いて優先することは国のこと。祖母の考え方は、昔から決して揺るがない。たとえそれが、血を分けた子や孫、甥たちであっても不要とわかれば切り捨てる。――そうして今、祖母はジョージル三世とジョルジュを切り捨てようとしている。
(そんなおばあ様が唯一執着しているのが、たぶんわたし)
イザベルによく似ているアンリエッタ。
自分よりも国を優先して生きてきた祖母は、もしかしたら、それほど幸せでなかったのかもしれない。
アンリエッタには幸せをあげると、イザベルは口癖のように言った。そして、その幸せが「王妃」にあると信じて疑わなかった。
(おばあ様はエルネスト様に玉座を譲ったけど……きっと本当は、自分が座りたかったのね)
なんとなく、そんな風に思う。
でも祖母はそれをすべて捨てた。国のために。……ある意味、自分自身の生き方を、自分自身で決めてこられなかった祖母は、アンリエッタと似ている。
祖母は、自分と似ているアンリエッタに、自分を重ねて見ているのだ。
でも、アンリエッタが望むものは、イザベルとは違う。
(おばあ様が優先するのは国のこと。国が安泰であれば、おばあ様が認める方が国の頂点にいれば、納得してくれるはず)
アンリエッタが知る限り、祖母が認めている人間は二人いる。
一人は言わずもがな、自分が玉座に押し上げようと画策しているリシャール。
そしてもう一人が、先王エルネストだ。
自分がつきたかった玉座をあっさり譲ってしまうほどに、エルネストは王に向いている。イザベルは、そう信じて行動した。
だから、アンリエッタは無理を承知でエルネストに頼んだ。助けてくれると、言われたから。
「おばあ様。おばあ様もお気づきの通り、このお手紙は先王陛下からのものです。ここに、先王陛下が重祚なさる旨が記されています。このことはすでに、ジョージル三世陛下と宰相閣下もご存知です。先王陛下がご連絡なさいました」
「なんですって?」
イザベルが目を見開く。
アンリエッタはそっとイザベルの前に手紙を置いた。
「お確かめください。おばあ様なら先王陛下の筆跡をご存知でしょう。まごうことなくご本人が記されたものとわかるはずです」
イザベルは手紙に手を伸ばしかけて、躊躇うように一度宙で動作を止めた。そしてゆっくり目を閉ざすと、手紙を持ち上げて中を確かめる。
「…………確かに、エルネストの字ですね。そう……エルネストが戻るの」
「はい」
「わたくしが退位は早すぎると言ったときは耳も貸さなかったのに……アンリエッタ、どんな魔法を使ったの」
「魔法なんて使っていませんよ」
エルネストは助けてくれると言った。そして彼の中にある後悔に、アンリエッタが気づいただけ。
エルネストはアンリエッタに助けてくれると言いながら、そこにはいない、アンリエッタではない別の誰かを見ていた。そう。リシャールを。
エルネストは、リシャールが玉座を望まないことを知っていた。リシャールが望むのは小さな小さな優しい家庭だと知っていながら、エルネストはリシャールに非情を突きつけた。そのことを、彼は心の中で後悔していた。それに気が付いたから――、アンリエッタは賭けに出た。
エルビスからリシャールの過去を聞かされるまで、どうしてエルネストがアンリエッタにあのようなことを言ったのかわからなかった。けれど過去を聞かされて、エルネストは、リシャールを王都から――大切な家族から遠ざけてしまったことを悔やんでいるのだとわかった。
(たぶん、陛下が早くに退位なさったのもリシャール様のため。ジョージル三世陛下とリシャール様の間の溝を埋めるために。でも、それは完全に埋まることなくリシャール様は王都を去った)
王としての最善を選んだ。けれど、父として後悔している。だからエルネストは、父としてリシャールのために動くことを選んでくれた。
先王陛下の手紙には重要なことが二つ書かれている。
一つは、先王陛下が重祚されること。
もう一つは、次代の王として、ジョージル三世の第二王子エリクを先王陛下自ら教育すること。
アンリエッタが頼んだのは前者だけだった。後者は、先王エルネスト本人が決めたこと。それは、ジョージル三世への配慮と、自分のあとにもう一度リシャールが担ぎ出されないための布石。
「陛下もご納得されているのですか?」
「はい。ジョージル三世陛下も、先王陛下のご決断の通りにとおっしゃられました」
この決断は、ジョルジュのためでもあるのだと思う。
ジョージル三世は、ジョルジュに非難が集中しないように、退位し責任を取ることで息子を守ることにしたようだ。
(あの方は昔から、息子に甘いから)
けれど、ジョージル三世がいくらかばおうとも、ジョルジュへの責任は追及されるだろう。当面は謹慎が言い渡され、そののちは、将来王についたエリクを支えるために再教育がされるらしい。セフィアがアンリエッタを殺害しようとして一件に、ジョルジュは相当堪えているようで、彼には珍しく、すべてジョージル三世とエルネストの決定に従うと言ったそうだ。
女性の嫉妬がいかに恐ろしいかを知ったジョルジュは、大勢いる恋人たちとも縁を切ると自ら言ったらしい。少しは反省したみたいだ。
「……そう」
しばらく手紙を見つめていたイザベルは短く言って、アンリエッタを見つめた。
「では、あなたはどうするの、アンリエッタ。ずっと妃教育を受けてきたあなたは? 何のために厳しい教育を受けてきたの? 今までの努力がすべて無駄になるのよ。わかっているの?」
「わたくしは……王妃になりたいわけでは、ありませんから」
「それなら何を望むと言うの」
何を望むのか。
そんな風に、祖母に自分の望みを訊ねられたのははじめてのことだった。
アンリエッタは自分の望みを口にしたことがない。
口にしたところで無駄だとわかっていたから。
でも、今は――
「できることなら……リシャール様と、のんびりと暮らしたいです」
絵を描くリシャールをずっとそばで見ながら、穏やかに。
リシャールが十年前も前回も、アンリエッタを守ってくれたように、彼のささやかな幸せを守って生きていきたいと願う。
イザベルは信じられないことを聞いたとばかりに目を見開いて、それからしばらく沈黙したのち、細く息を吐き出しながら言った。
「…………そう」
最後に祖母は、好きに生きなさいと、諦めたような顔で小さく笑った。




