嵐の夜に 3
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(遠くまで行ったわよね?)
しばらく木の陰でじっとしていたアンリエッタは、男の姿が消えたことを確認すると立ち上がった。
長らく雨に打たれていたせいで、アンリエッタの金髪は洗髪した後のようにぐっしょりと濡れて顔や背中に張り付いている。夜着の下に着ていた薄いシュミーズもドロワーズも雨と泥でぐしゃぐしゃだ。
(ここにいつまでもいたら風邪をひいてしまうわ)
しかし、この嵐の夜に、このまま邸まで歩いて帰るのはなかなか厳しい。裸足で森を走り抜けたから、足の裏にもふくらはぎにも、無数の傷がついている。
(この森って、例の小屋がある森かしら?)
エバンスが、リシャールが絵を描くために利用している小屋があると言っていた。別邸から歩いて行けるところにある森は一つしかないから、ここがそうだとしてもおかしくない。
もし小屋が見つけられなくても、どこか雨風をしのげる場所を探さなくては。
アンリエッタは痛む足を引きずるようにして歩き出した。逃げているときは必死だったが、安心すると途端に痛みを覚えるのが不思議だ。
生い茂っている木がいくらか盾になるとはいえ、風も強い。
雨が体温を奪い、疲れもあってか、少しだけ意識がぼんやりしてくる。
だからだろうか。幼い日に嵐の中を庭に立たされた記憶がよみがえって、無性に不安を覚えてしまう。それと同時に、一歩間違っていたら先ほどの男に川に落とされて殺されていたのだろうと考えると、寒さとは別で理由で体が小刻みに震えはじめた。
どうして自分がこんな目に遭わなくてはならないのだろう。
「……っ」
じわりと目に涙が集まる気配を感じて、アンリエッタは小さく首を振る。泣いていても仕方がない。理不尽には慣れている。アンリエッタが理不尽な悪意にさらされることは、珍しいことではなかったから。
祖母に可愛がられ、祖母によく似ているアンリエッタは、昔から王妃に嫌われていた。王妃は何かと口を出してくる祖母のことを嫌っていたのだ。国王が、宰相が、大臣たちが、王妃よりも祖母の意見を重用するのを、王妃が忌々しく思っていたことも、アンリエッタは知っていた。
ジョルジュとの婚約も王妃の意見は関係なく強引に進められて――、だから、王妃の矛先が、そうして婚約者の座に収まった祖母そっくりのアンリエッタに向くのは自然の流れだった。
それゆえ、王妃からの嫌がらせが日常茶飯事だったアンリエッタは、自分に降りかかる理不尽な悪意は、自然とそう言うものだと認識して受け入れるようになっていた。
そんな王妃も、アンリエッタとの婚約破棄には焦って、なんとか取り下げようと必死になっていたと聞いたけれど。アンリエッタや祖母を嫌っていても、祖母やグリュノ公爵家に連なる一族がジョルジュの敵に回れば大変なことになる。現在はセフィア王女の手前首の皮一枚つながっているような状況だが、祖母が本気になれば、ジョルジュを廃嫡に追い込むことくらい容易だろう。
あれだけアンリエッタを嫌っていた王妃から、ジョルジュの行動に対しての謝罪の手紙が届いた時は思わず目を疑ったものだ。まるで、ジョルジュの命運は祖母とアンリエッタが握っているのだと勘違いしているようだった。祖母はともかく、アンリエッタにはそんな力はないと言うのに。
とぼとぼと歩き続けること数十分。
暗闇の中に浮かび上がる家らしきものを発見したアンリエッタは、はーっと大きく息を吐いた。
例の小屋だろう。窓のところに板が打ち付けてある。
(よかった。これで雨と風がしのげそう)
小屋の入口には木製の閂がされていたが、ただ扉が開かないようにしてあるだけなので、簡単に外すことができた。
中に入ると、小さな椅子と机があるだけの何もない部屋だった。当然着替えも何もない。ただ、暖炉があることだけが幸いだった。薪と着火剤の杉の葉、火打石も小屋の中にある。
アンリエッタはホッとして、すっかり冷えて震える手で暖炉の中に薪を入れると、着火剤の杉の葉を入れ、火打石で火をつける。杉の葉が燃え上がり、巻きに炎が燃え移ったのを確認して、アンリエッタは薪を足すと、体に張り付いているシュミーズとドロワーズを脱いだ。ここで裸になるのはものすごく心もとないが、濡れた下着を着たままではいられないからだ。
下着をぎゅっと絞ると、水がぼたぼた落ちてくる。下着と同様に髪も絞ると、アンリエッタは小さな机を暖炉のそばまで運んで、シュミーズとドロワーズをかけた。
裸の上に何かはおるものがほしいけれど何もないので、アンリエッタは暖炉のそばに椅子を運び、そこにちょこんと座って下着が渇くのを待つことにする。
(ここで待っていたら、嵐が過ぎ去ったあとで誰かが来るわよね? 窓の木の板もはずさないといけないし)
シュミーズとドロワーズが渇いても、下着姿で歩き回るわけにはいかない。ここに誰かが来てくれるまでじっと耐え忍ぶしかないだろう。
「はあ……それにしても、寒いわ」
暖炉にあたっているのに、寒気が引かない。背筋のあたりにゾクゾクと悪寒が走っているし、これは少々芳しくない状況かもしれない。熱が出始めている可能性がある。
心なしか熱く感じる息を吐き出し、アンリエッタは椅子をもう少し暖炉の方に寄せた。
体がひどく重たい。パチパチと薪がはぜる音が少し遠くなった気がする。瞼と頭が重くて、アンリエッタは椅子の背もたれにくたりと背中を預けた。
重たい体を叱咤して、薪を一つ、二つと暖炉に足す。だが、それすら億劫でどうしようもなくなって、だんだんと指先にも力が入らなくなってくる。
意識がプツリプツリと途切れだして、途切れた意識を現実に戻すのも難しくなる。
頭の片隅で、ここで眠ってはダメだと言い聞かせるのに、抗えない睡魔と倦怠感に、アンリエッタの意識はとうとう闇の底へ向けて沈みはじめて――
「アンリエッタ!」
ぐらりと体が傾いだとき、遠くで誰かがアンリエッタの名前を呼んだ気がした。




