嵐の夜に 2
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夕食を終えて、アンリエッタは早めに就寝することにした。
灯りを落とした部屋には、風が窓を叩く音が響いている。
昼間、子供のころのことを思い出したからだろうか。激しい風や雨の音に不安を覚えて、図書室から兎の絵のしおりを持ってきてしまった。
このしおりが近くにあると、不思議と不安がなくなるような気がしたのだ。
(明日の朝には、嵐が過ぎ去ってくれているといいけれど)
そんな風に思いながら目を閉じて――どのくらい時間が経ったころだろうか。
風の音とは違う物音が聞こえて、アンリエッタは暗闇の中で薄く目を開ける。
(パール?)
かちゃりと部屋の扉が開いた音。ついで、微かな足音。――パールではない。パールなら、こんな、足音を殺すような歩き方はしない。
アンリエッタはきゅっとシーツを握りしめた。
全身に緊張が走り、シーツを握りしめる手のひらが汗でじんわりと湿る。
(誰……?)
この邸にいる使用人ではないだろう。つまり、どこかからか侵入してきた誰かということだ。
アンリエッタは寝返りを打つふりをして、ベッドサイドのテーブルの上に置いてあるベルに手を伸ばそうとした。――瞬間。
「――――っ」
「騒ぐな!」
一瞬でベッドの上に飛び乗った誰かの手に、アンリエッタは口をふさがれて目を見開く。
男だ。知らない男。
悲鳴が喉の奥で凍り、呼吸の仕方を忘れそうになる。
暗闇の中に浮かび上がるシルエットでは、大柄な男のようだった。かちゃりと鳴ったのは、剣の音かもしれない。男は剣を持っている。
「悪いな。姫様のご命令だ」
(姫様?)
姫様とは誰のことだろうか。
わけがわからないが、この状況は非常にまずい。
男はアンリエッタを荷物のようにひょいと抱え上げる。
「あんたが騒いで誰かが起きたら、そいつも道ずれにすることになるぞ」
咄嗟に暴れようとしたアンリエッタは、男のその一言でピタリと動きを止めた。
パールは大切な侍女だし、ここにいるのはリシャールが大切にしている使用人たちだ。彼らに危害を加えられたくない。
男はアンリエッタがおとなしくなったのをいいことに、そのまま部屋を出て大胆にも玄関から外に出た。
横殴りの風と雨が、アンリエッタの体をビシバシと叩く。
男は嵐の中を平然と駆けだした。闇の中だと言うのに躊躇う気配はない。夜目がきくのだろう。
(どこに連れて行く気……?)
馬も馬車も見当たらない。この嵐の中を、アンリエッタを抱えたままどこまで走っていくつもりだろう。
隙を見て逃げ出したいところだが、この場で暴れて男の腕が離れたところで、アンリエッタの脚力では嵐の中をまともに進めない。
第一、雨と風が強すぎて、まともに目も開けられなかった。
ただ、男の足取りはしっかりしているので、男が目的をもってどこかにアンリエッタを運ぼうとしているのだけはわかる。
男はしばらく嵐の中をひた走り、森の中に入った。そして木の間を縫うようにしながら、奥へ奥へと進んでいく。
雨の音に交じって、川の音が聞こえてくる。それは、ゴーッと、まるで巨大な獣の咆哮のような音だった。
(川の方に進んでる? どうして? 増水して危険なのに……)
この男は何が目的なのだろう。姫様とは誰のことだろうか。
アンリエッタは薄く目を開けて男が腰に佩いている剣に視線を向けた。雨水が目に入って霞むが、視界は暗闇に慣れて、ある程度ははっきり見えるようになっている。
何か手掛かりになりそうなものはないものかと目を凝らし、剣の柄の部分にある紋章を見つけて瞠目する。
(ブラージ国騎士団の紋章……。もしかして、姫様ってセフィア王女?)
まさかとは思ったが、それ以外考えられなかった。
セフィア王女がアンリエッタに何の用だろう。いや、アンリエッタをどうしたいのだろう。この男に何を命令した?
川の轟音が近くなっている。
この男はもしかしなくても川に向かっている?
川に向かうことがセフィア王女の命令? ――何故? 川で、何をするつもりだ。
どんなに楽観的に考えても、アンリエッタに何かしらの危害を加える気なのは間違いないかもしれない。そうでなければ夜に忍び込んでアンリエッタを攫い、嵐で増水している川に向かうはずがない。
(……わたしを消すつもり?)
考えたくはなかったが、この状況から考えると、それ以外に考えようがなかった。
セフィア王女は、ジョルジュを追ってリシャールのエヴィラール公爵邸に向かった。そこにアンリエッタがいることは把握済みに違いない。恋人が元婚約者の元を訪れれば、不貞を疑ったとしてもおかしくない。ならば、ジョルジュと結婚したいセフィア王女が、アンリエッタを邪魔に思っても不思議ではないだろう。
そんな理由で危険にさらされるのはまっぴらだが、相手は、状況によっては命令一つで他人の命を奪える権力を持った王族だ。邪魔者は消してしまえばいいと極論に走っても、おかしくないかもしれなかった。
(冗談じゃないわ)
アンリエッタはきゅっと唇をかみしめた。
何とかしてこの男の手から逃れなくては。
(川に行ったらどうするつもりかしら。腰の剣で斬りつける? いえ、それだとわたしの死体が見つかったときに怪しまれるわ。だったら……川に落とす)
それが一番足がつきにくい方法かもしれない。上手くいけば、増水した川の勢いで海まで流れていくかもしれないし。そうなれば、アンリエッタの遺体は上がらない。アンリエッタがどこへ消えたのかもわからないまま、真実は永遠に闇に葬られる。
ゾッとした。
川に落とされて殺されるなんて絶対に嫌だ。
これだけの雨だ。男の足跡はすぐに消える。誰も気づかない。
川に到着するまでに逃げなければ。
アンリエッタはさっと周囲を見渡した。山の中には木に巻き付いた蔦がたくさんある。――一か、八か。アンリエッタは大きく息を吸い込んで、叫ぶ。
「きゃあああああああ! 蛇――――――‼」
暗闇の中だ。いくら夜目が聞いても、一瞬で蔦と蛇は見分けられないだろう。アンリエッタの叫び声で一瞬の隙さえできればいい。
案の定、男は驚いたように足を止めた。――その瞬間。
「っ!」
アンリエッタは男に担ぎ上げられた体制のまま、これでもかと体重をかけて体をひねった。
雨でぬかるんだ森の中。激しく風も吹いている。この状況下では、片手でアンリエッタを肩に担ぎ上げている以上、バランスが崩れればいくら鍛えている男でも体勢を崩す。
「おいっ、暴れるな!」
思った通り、男の手が緩んだ。
アンリエッタはぬかるんだ地面に落とされて、ころころと二回転ほどして木の幹にあたって止まる。
「蛇! 頭の上!」
「な!」
男がぱっと上を向いた直後、アンリエッタは駆けだした。
「ちっ!」
男が気づいて追いかけてくるが、足元がぬかるんでいてなおかつ木が生い茂っている森の中だ。靴を履いている男より、裸足のアンリエッタの方が駆け抜けやすい。
(川……こっち!)
アンリエッタは木をの間を縫いながら川の音がする方へ急いだ。
そして川の近くまで到着すると、木が生い茂って見つかりにくい場所に身を潜ませ、着ていた夜着を脱いで、思い切り川に放り投げる。
「きゃ――!」
悲鳴を上げて、水にぬれて重くなった夜着が川に落ちたのを確認したあとは、息を殺して男が来るのを待った。
男はすぐにやってきて、轟音の中勢いよく流されて行く夜着を見て鼻で笑った。
「バカな女だ。自分から川に落ちてくれるなんてな」
夜着はあっという間に流れされて行く。
ややして、男はくるりと踵を返すと、北道を歩き去って行った。




