突撃隣の王女様 4
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「今日の夕方くらいから嵐になるかもしれませんね」
朝食を食べていると、エバンスが窓の外を見ながらそんなことを言った。
窓の外はどんよりと重たい色をしていて、なるほど確かに雨が降りそうな雰囲気ではあるが、嵐とはどういうことだろう。
「毎年この時期になると嵐が来るんですよ。風が少し強いですからね。反れてくれればいいですが、少なくとも雨や風の影響は出ると思います」
「だから朝からみんな慌ただしそうだったのね」
「ええ。飛ばされそうなものは片づけないといけませんからね」
王都は嵐の影響をほとんど受けない恵まれた地域のためアンリエッタはあまり嵐に遭遇したことはない。何気なく窓外を見やれば、ダイニングの窓から見える木の枝が激しく揺れていた。
「今日は窓を開けないでくださいね」
「わかったわ」
揺れる枝の先を見ていると、小さな不安を覚えてしまう。邸の中にいれば安全だとわかってはいるものの、何かが起こるのではないかといらぬ心配をしてしまうのは、自然の力の前では人が無力だと知っているからだ。
朝食を取り終わると、アンリエッタはここに来てからの日課になっている読書をするため、図書室へ向かった。
ソファに座って、テーブルの上に出したままにしている本を開く。『迷子のウサギ』に挟まっていたしおりは、あの日からずっと読書のお供として手元においていた。
本を読んでいるとメイドがお茶を運んでくれて、たまにパールが様子を見にやってくる。
昼前になって雨粒が窓を叩く音が聞こえて顔を上げると、窓の外は朝よりも重たい灰色に染まっていて、これから本格的に荒れそうだと言うのが見て取れた。
窓からろくに明かりが入らないので、部屋の中に灯した燭台の炎が小さく揺れている。
(……胸の中がざわざわするわ)
窓を叩く雨音。薄暗い室内。揺れる炎。
アンリエッタがまだ六つか七つのとき、同じような経験をしたことがある。
王都には滅多に嵐は来ないが、まったく来ないわけでもない。頻度としては十年に一度くらいだが、ごく稀に王都を直撃する嵐に見舞われることがある。
あの日アンリエッタは城から派遣された教師から教育を受けていて、風の音や雨の音、暗い室内がひどく怖かった。
幼い日のアンリエッタには、まるで、外に見えない大きな怪物がいて、家ごとアンリエッタを飲みこもうとしているのではないかと思えたのだ。
怖くて怖くて、勉強どころではなかったアンリエッタに、教師は冷ややかな目を向けてこう言った。
――将来王妃になろうという方が、嵐ごときで怯えるなど情けない!
そして彼女は、嫌がるアンリエッタを無理やり庭に引きずり出して、風と雨が吹き荒れる中に立たせた。
――怖くなくなるまでそこにいなさい。
それは、幼い子供にする所業ではなかったように思えたが、「将来王妃になるアンリエッタ」は、怖いとか寒いとか冷たいとか、そんな言い訳は許されなかった。
アンリエッタを邸の中に入れようとする使用人を金切り声で止める教師の声と、そんな教師に激怒している母の声が玄関から聞こえてくる。
父は仕事で城にいて、嵐が来るから城に泊ると連絡が入っていた。
母も教師相手に怒ってくれるが、城から派遣されてきている正式な教師の行動を覆すだけの権限を持たない。
体をなぶる風に立っていることもできなくなって、アンリエッタは水たまりの中に両膝をついた。
水を吸って重たくなったドレス。否応なく体温が奪われて行く。
夏の終わりで温かいはずなのに、アンリエッタの体はまるで真冬の寒空の下に放り出されたかのように冷えて、歯の根が合わなくなってきた。
風にあおられて飛んできた小枝が、容赦なくアンリエッタの体を殴っていく。
寒くて、怖くて、でも泣いたら家に入れてもらえないから、アンリエッタは歯を食いしばって耐えた。耐えていたらそのうち家の中に入れてもらえる。だから、耐えなければ、と。
どのくらいそうしていただろうか。
馬の足音が遠くで聞こえてきたが、顔を上げる気力すら残っていなくて、ただぼんやりと聞こえてくる音に耳を傾けたその時だった。
――何をしている!?
風の音も雨の音もすべてかき消すほどの怒声が庭に響き渡った。
水を跳ね上げながら誰かが駆けてきて、アンリエッタの体を水たまりの中からふわりと抱き上げる。
水を吸ってもなお綺麗に輝いている銀色の髪。それは、十四、五歳ほどの少年だった。
ああ、これで助けてもらえる――
アンリエッタは安堵して、くたりと体の力を抜いた。
少年はぎゅっとアンリエッタを抱きしめて、そのまま玄関まで走っていく。そこでアンリエッタの体は母に預けられて、部屋に運ばれた。
階下から少年と教師が言い争う声が聞こえてきたけれど、アンリエッタはそれ以上意識を保っていることができず、ぽろぽろと泣く母に手を握られながら眠りについた。
目を覚ました時、嵐はすっかり過ぎ去っていて、少年もいなくなっていた。
不思議だったのは、その日を境にアンリエッタの教育を担当する教師が変更になったことだ。次にやってきたのは、城で王子相手に教鞭をとったことがあると言う優しそうな初老の教師で、アンリエッタを嵐の中庭に出した女教師は、それ以来アンリエッタの前に一度も姿を現していない。
(……そう言えば、『迷子のウサギ』を読みはじめたのもこのころだったわ)
何故忘れていたのだろう。そうだ。嵐の中に放り出されて、アンリエッタはそのあとで熱を出して数日寝込んだ。そのとき、誰かがアンリエッタにお見舞いで『迷子のウサギ』の童話をくれたのだ。
(そう! しおりが挟んであったのよ。これとよく似たしおり)
しおりは手書きで、今ここにあるしおりと若干異なる部分はあるが、同じ構図の兎の絵の描かれたしおり。
「……どうして」
このしおりは明らかに手作りだ。アンリエッタが持っていたしおりもそう。
「あの本をくれたのは、リシャール様?」
リシャールは絵を描くことが好きだ。そしてここはリシャールの別邸。アンリエッタが持っていたのと同じ構図のよく似たしおり。このしおりが、リシャールの手作りだとしたら? リシャールが『迷子のウサギ』を贈ってくれたのだと考えると、ここにこのしおりがあることも頷ける。
(でもなんで本を……待って)
あの時、アンリエッタを抱き上げて邸の中まで運んでくれたのは銀色の髪の少年だった。今からおよそ十年前だとすれば、あの時の少年の年齢とリシャールの年齢は釣り合う。
(あのとき助けてくれたのは、リシャール様だった?)
リシャールが公爵位を賜って領地に移り住んだのは、彼が十八歳くらいの時だった。およそ十年前には、リシャールはまだ王都にいたのだ。
あの時のアンリエッタは意識が朦朧としていたから、助けてくれた人の顔がはっきり見えなかった。ただ、銀色の髪が綺麗だと思った。でも、知らない相手ではなかったはずだ。知らない相手だったら、アンリエッタが安心して身を預けるはずがない。霞んだ意識の中、アンリエッタはこの人は味方だと判断したのだ。
子供のころ、アンリエッタは数回だけリシャールに会ったことがある。勉強で忙しかったアンリエッタはリシャールと長い時間をすごしたことはなかったが、城に出向いた時に何度か様子を見に来てくれて、頑張っているねと頭を撫でてもらった記憶がある。
そう――褒めてくれたのは、リシャールだけだったから、褒められた記憶だけはしっかりと覚えているのだ。
父も母も祖母も、頑張りなさいとは言うけれど、頑張っているねとアンリエッタを褒めてくれたことはない。
頑張ることが当たり前で、しかしその頑張りは評価されない。アンリエッタはずっとそうして生きてきた。
そんな中、子供のころ、リシャールだけが褒めてくれた。……あれは、嬉しかった。
アンリエッタはそっとしおりの兎の絵を撫でる。
リシャールがどうして『迷子のウサギ』を贈ってくれたのか、手書きのしおりをくれたのかはわからない。
「もしかしたら……勉強を頑張っているご褒美だったのかしら?」
だとしたら嬉しい。
別に誰かに褒められたくて頑張っていたわけではなかったけれど、リシャールの「頑張っているね」の一言がなければ、アンリエッタはどこかで心が折れていたかもしれない。
(しおり、探せばまだ残ってるよね)
読みすぎてボロボロになった『迷子のウサギ』の間に、手垢で汚れてしまったしおりが挟んであるはずだ。ボロボロになってしまった本は母に取り上げられたけれど、捨てないでほしいと頼んだから、きっとまだ家に残っていると思う。
アンリエッタは口端に笑みを乗せると、読みかけの本に視線を落とした。




