戻る日常と残る不安4
季節が移り変わり始めたこの頃では、温められたお茶を啜ると自然と心は落ち着く。小綺麗な部屋で手持ち無沙汰だった俺は、目の前に出されたお茶に手をつけていた。
俺は話が終わったから帰ろうとしたのだが、カロスから少し待って欲しいとお願いをされて、言われるがまま応接室に居残っていた。
やはりカロスの部屋で出される茶は格別に美味い。カップに残されたお茶に俺は目を落とした。
「なあ、誰を待っているんだ?」
「先ほど使いの者を出しましたので、そろそろ来るとは思うのですが」
そう言ってカロスもお茶の入ったカップを持ち上げる。待ち人が来るまでの間、カロスも休憩することにしたようだ。
「ラシェキスとの時間は、ヒカリから許可をもらえたのですか?」
「ああ。三日後にシキさんを休ませてくれるそうだから、その日は一日シキさんと出掛ける予定だ。シキさんからも了承をもらった」
「三日後ですか……」
「あ、お前は邪魔しに来るなよ?」
楽しい時間が台無しになる。
「邪魔をするつもりはありませんが、警備等について軍務省に確認をしなくてはいけませんので」
「警備って……わざわざ軍務省に確認を取るの?」
「当然でしょう?」
「当然って、俺はただシキさんに街の案内を……」
「まさか、城下町まで行こうだなんて思っていないでしょうね?」
「え、ダメなの?」
特段、どこに行こうとは考えていなかったから、帝都に詳しいシキさんに全て任せようとしていた。ただ、出来ることならシキさんと約束していた東の港まで行ってみたかったけれど、一日では帰ってこれないかもしれないから帝都内と決めて諦めていたのだが。
「貴方は何度命を狙われれば、自分の立場を自覚するのですか?」
「じ、自覚はしている」
「それに快気したとはいえ、本当に毒から回復出来たのかはまだわかっていないのですよ。ライラの時のような無理も無茶も禁止です」
「ええ〜〜……」
俺的には無理をしたつもりはない。
だけど、どうやら俺がライラで大捕物をした事が既にカロスの耳に入っているようで、帝都へ戻って来てからカロスはあれもダメ、これもダメとしか言わなくなった。陛下の信頼も厚く、この帝城では絶対的な存在に近いカロスがだ。近衛騎士達だって逆らえない。
俺は絶望する。
「じゃあ、どこまでなら良いんだよ?」
「内城」
「内城?! それって帝城の周辺だけじゃないか! 四宝城壁すら越えられないってことだろ?」
「内城と言っても、散歩をするのなら十分広いですよ。一周するにも徒歩なら半日はかかりますからね」
「広いには広いけど……」
帝城の周囲は宮殿と呼ぶにふさわしい巨大な建物群と広大な庭に囲まれているぐらいだから、広いことには広いのだが、内城には皇族や城に勤める人々しかいないから、俺としては息の詰まる環境であることには変わらない。
自由を感じるためにも、なんとか人の目が気にならない場所へ行きたい。
「せっかくシキさんとの休日だぜ? もっと羽を伸ばさせろよ」
「羽、ねぇ……」
カロスはカップを置くと視線を上げる。
「では、ラシェキスと離れないという条件でしたら、外城までの許可を出しましょう」
「外城ってことは……」
「官公庁や貴族達の館が並び立つエリアです。そこまででしたら、身分が定かではない人間はそう簡単に入ってこれませんから、ほどほど安全ではありましょう」
「外城か………」
内城とそう変わらない気はするが、それでも帝城周辺にいるよりかは息苦しさは減りそうだ。
「なあ、それならリトス邸に一度帰ってもいいか? 本当ならスライムの証明が終わった後にリトス邸に戻るはずだったんだ。大叔父様にも無事だと報告をしたい」
「リトス邸ですか。…………そうでしたね、一度帰られた方が良いかもしれません」
「本当か?!」
「ええ、こちらも準備しておきましょう」
「やった! ありがとう!」
「油断だけはしないように」
「わかってるよ」
やったぜ。大叔父様に久しぶりにお会い出来る。
ご機嫌でお茶を飲み始めれば、カロスも再びカップを持ち上げる。
「……少し遅いですねぇ」
カロスの言葉に二人で時計を見れば、使いを出してからすでに小半刻が過ぎている。誰を待っているのだろうと時間を気にしているカロスを横目で見遣れば、彼の視線は動く。少しずつだが、廊下から早足で近づいてくる音が聞こえてきた。
「ようやく来ましたか」
そのタイミングで扉から衛士の声が聞こえてきた。
「クシフォ宰相補佐官殿、へーリオス宰相補佐官殿がいらっしゃっております」
「お通ししなさい」
カロスがカップを置くのと同時に、扉はゆっくりと開いた。
そこに立っていたのはシキさんのお兄さんで、宰相補佐官でもあるリシェルさんだった。
その姿は同じ男の俺でさえ惚れ惚れとする。やっぱりシキさんのお兄さんは格好良い。
「これは殿下、お待たせいたしまして申し訳ありません」
扉から現れたリシェルさんは、俺に頭を深々と下げる。
「いえ、カロスとお茶をしていましたので大丈夫です」
「カロスとお茶……。はは、そうでしたか」
リシェルさんは何が面白かったのか、笑いを押し殺したような顔で部屋に入ってくると、カロスに耳打ちして、そのまま流れるようにカロスの横に座った。
「……静かに座りなさい」
「急いでいたものでな」
二人の会話を聞けば、親密だということがわかる。カロス相手にリシェルさんは全く遠慮がない。
それにしてもどうしてリシェルさんがここに呼ばれたのか。
リシェルさんは持ってきた封筒の中から書類数枚を取り出すと、テーブルに置いた。何が書かれているのかと、俺は身を乗り出して覗き込む。
「来月、殿下方はお誕生日を迎えられます」
「……誕生日」
色々ありすぎて、すっかり忘れていた。
確かに俺達はそろそろ17歳になる。
シキさんと出会ったのは去年の誕生日から半月後の出来事で、あれから一年経つと考えれば、感慨深いというよりかは、とにかく驚く事が多過ぎて落ち着かない一年だった。
「もうそんな時期だったのか……」
「ええ。今年は帝城にて殿下お二人の生誕祭を催す方向で調整をしております」
「生誕祭?」
お誕生日会とかじゃなくて?
「はい。国中を挙げての祝賀行事です」
「…………祝賀……行事??」
「今年の生誕祭の最高責任者を私リシェル・へーリオスが拝命いたしました。気になることがありましたら何なりとお申し付けください」
「ま、待ってください。俺達の誕生日が国の祝賀行事って一体どういう事ですか??」
「来年には皇太子の儀がありますし、殿下が皇帝位を継ぐ事はもう内定しています。ですから殿下の誕生日を国中でお祝いするのは当然かと」
「…………」
「それでなくても初代皇帝似がお二人も誕生された日なのです。自国の歴史上、これほどまでにめでたい日はそうそうありません」
「………………むぅ」
そう言われてしまえばそうなのかなと納得する一方で、俺達の誕生日がそこまで大袈裟に扱われるという重い事態に俺の心境は複雑だ。
「地方からも他国からも多くの人々がやってくる日でもありますので、警備には力を入れます。こちらで先に察知していたとはいえ、帝城で騒ぎもありましたし、生誕祭が反勢力に狙われやすいのも確かです」
「そうですか……」
「日程についてですが、ご体調の心配もありますので今年は生誕日から三日間だけ開催することに決まりました」
「三日間も??」
「勿論です」
「もちろん…………?」
あれ、俺の感覚がおかしいのかな?
誕生日って当日だけのお祝いじゃないのか?
俺が首を傾げれば、目の前に座る二人も心なしか首を傾げる。
「本来一週間だった計画を、リシェルの尽力でなんとか三日でご納得いただいたのですよ?」
「いっ、一週間?!?!?!」
俺は目を剥く。
「アフトクラートの誕生日ですしね。陛下や回顧派の重鎮達にはなかなか首を縦に振っていただけず、削るのに大変苦労しました」
「………来年もこの日程でお願いします」
「どうでしょう。今年はともかく、来年は皇太子としての生誕祭になるでしょうからねぇ?」
「そこをなんとか!」
俺はカロスに拝み倒す。
その横でリシェルさんはテーブルに置かれた書類の一枚を俺の目の前に置き直した。見るからに日程表のようで、予定はぎっしりと書かれている。
「来年はまた来年に考えるとしまして、今年の初日ですが、午前は陛下や皇族へのご挨拶と帝城での顔見せ、それが終われば昼食会。午後は大貴族院への挨拶と夜はそのまま彼等との晩餐会になります。二日目と三日目の日中はパレードを行い、夜は国内外の貴族を招待しての夜会ですね」
「ん? ……昼と夜?」
「ええ」
「まさか三日って、夜会だけじゃなくて、本当に丸一日…………三日中??」
「そうですよ」
「イヤァーーー!!」
絶叫する俺とは対照的に目の前の双璧は平然としている。スライム狩りだろうが魔物討伐だろうが怯む事などしないのに、あの衣装だけは本当に嫌だ。そのうえ愛想笑いも要求される。そんな状態で三日間も拘束されるだなんて、これ程に辛い事があろうか。
「きゅ、休憩は?」
「もちろん休憩は箇所箇所に入りますので、心配は要りません。それにパレードから夜会までの間には時間が空きますから」
「夜会までの時間は衣装替えで忙しいですがね」
「カロス!」
リシェルさんは意地の悪いカロスの口を塞ごうと、カロスの顎を抑えつける。
「ねえリシェルさん、パレードって何ですか?」
取っ組み合っている二人は俺の言葉にハッとすると、すぐさまパレードの意味を教えてくれたのだが、その答えに俺はますます精神を削られる結果となった。
「うへぇ……」
心の声が口からダダ漏れる。
「そもそも何で馬車に乗ってまで俺達の顔見せを?」
「爵位の継承式を経験した人間が、今更何を」
「規模が違うだろ? 帝都一周って……」
東西に分け、それを二日掛かりで大勢の騎士兵士や官吏達を率いながら、俺達が馬車で城下町や外城を周回するらしい。
日和る俺にカロスの視線は冷たい。
「する理由なんて貴方の元気な顔を多くの国民に見せる為に決まっているでしょう」
「か、顔?」
「将来の皇帝ですからね」
「そんなに俺の顔なんか見たいものか?」
「平民は知りませんが、国内の領地を守る貴族達が貴方の顔すら知らずに、一体誰に仕えろと言うのですか? 特に地方にいる貴族は特別な時だけしか貴方の顔を拝謁出来ないのです。そのうえアフトクラートですからね。神を拝むような目で見られますよ」
「ええ〜〜………」
「遠方から来る彼らを思えば、三日間だけというのは大変短い期間なのです」
カロスに得得と説明されるが、俺は渋い顔だ。
未だに帝国のこういった文化には慣れないし、かといって帝国を支える貴族や官吏達の気持ちも軽視出来ない。
「それでなくとも、つい最近まであなたは表には出ていないのです。意図的に病気の噂を流したとは言え、この機会に元気な顔を見せねば、国民に余計な不安を煽るだけになりますからね」
そう言われてしまうと弱くなってしまう。
受けた側ではあるが、それで大勢の人に心配をかけたこともわかっているから。
それでも継承式の時のような品定めされる視線は今思い出しても堪らない。「だけど」「でも」と、気持ちが定まらない俺は、うだうだとソファに倒れ込む。
「ラシェキスも初日から参加しますよ」
「え、シキさんも?」
ソファに横倒れになった体は、カロスの一言で気力を取り戻す。
「彼も皇族の血を引くへーリオス家の人間ですからね。護衛の任はあるでしょうが、午後からは合流しましょう」
「本当?!」
シキさんがいると思うだけで、俺はやる気が出てくる。嫌な気持ちが消えるし、何でもやり遂げられる気がしてくるのはなんとも不思議だ。
急に血の気が戻った俺の顔を、二人はガン見してくる。
「リシェル、このようにラシェキスの名を使うと良いですよ」
「なるほど」
「罠?!」
「リトス侯爵のやる気が落ち込んできたら、時々ラシェキスを差し込んでください」
「わかった」
「納得しなくて良いです、リシェルさん」
俺の声は虚しく響く。まるでシキさんは俺を動かす餌のような扱いだ。……あながち間違えていないのが悔しい。
俺は口を窄める。
「では、殿下。以上が生誕祭の簡単な説明になります。今後変更が出るかもしれませんが、その場合は追ってご連絡致します」
「……わかりました」
「生誕祭ではお妃候補も探しましょうね」
「……………はい?」
驚きのあまり俯いていた顔を上げれば、目の前のリシェルさんは満面の笑顔だ。
妃ってあれだろ?
王様とか皇帝の奥さんだろ??
つまりは俺の???
どういう事だよとカロスを睨みつければ、カロスは俺と目を合わさないようにそっぽを向いた。どうやら自分が口を出せば俺に猛反発されるとわかっているのか、ここをリシェルさんに任せたようだ。
「帝国のご令嬢達は皆美しいですよ」
「えっと俺は……」
「………」
「別枠でご令嬢達と語らうお時間をお取りしています。ですから、良き伴侶を時間をかけて探しましょう」
「いや、まだ早いんじゃないかなと……」
「………」
話を進めようとするリシェルさんに強く言えない俺はチラチラとカロスに視線を向けるが、カロスはやっぱり目を背けたままだ。だけど耳では俺達の会話をしっかり聞いている。
なんて厄介な二人なんだ。俺が拒否できないように、さっきから自分達の特性を上手く使い分けてくる。
事実、俺はシキさんのお兄さんであるリシェルさんにはカロスの時のように強い拒否が出来ない。
「会場で気になる女性がいましたら殿下が直接お誘いいただいても結構ですが、一から探されるのも大変でしょうから、こちらで年齢家格が殿下と釣り合いそうなご令嬢達を選定しました。招待状の準備も万端です」
「選定?」
そう言ってリシェルさんは封筒からさらに書類を取り出してきた。
目の前に広げられた書類は貴族名と令嬢名が並べて書かれている。
そのトップに書かれてた名前に俺は自分の目を疑う。
「上から皇務省が推奨している令嬢です。身分的にも素性的にも将来の皇后となられても問題のない令嬢ばかりです」
「シェリー・ポース? ……エレノア・フィレーネ??」
「シェリーは2歳年上になりますが、身分も釣り合いますし、何よりフィーリングが会うと考えております。ライラでは殿下とは随分と大変楽しい時間を過ごしたと聞いておりますし」
「……嘘だろ?」
リシェルさんはニコニコとしている。
楽しい時間って、あの忙しい食堂を朝から切り盛りしたり、真夏の炎天下でぐだぐだと文句を言いながら買い出しに出かけた事ぐらいしかシェリーとの記憶はない。時々高飛車な態度が鼻につくことはあったが、ケントからの口撃にも怯まず、仕事には実直で俺よりも働いていた猛者だ。
あのシェリーが第一候補だと?
そもそもライラでは令嬢には見えなかったし、今でも思えない。それどころか、彼女は忙しい食堂で助け合った“戦友”だと思っている。
「シェリーは環境のせいか、外への憧れが強い子でしてね。家に閉じ込められてしまう前に、ライラで最後の冒険をさせてあげたかったのです。ですが、よく働く娘でしたでしょう? 頭の切り替えが早い子なんですよ。そして自分の立場も理解している………。気は強いですが、冒険好きなところは殿下と同じですから、彼女なら殿下の気持ちを汲んで助けになってくれると信じております」
「……………」
リシェルさんの丁寧な説明を聞けば、彼がどれほどシェリーを大事に思っているのかがよくわかる。
リシェルさんの言う通り、ライラでのシェリーは常に動き回り、外の世界を興味深そうに見ていた。そして乱暴な兵士達が食堂に入ってきた時なんかはたじろぐどころか、寧ろ頭に血が上った俺を止めたんだ。
彼女の肝が据わっているのは確かだ。それは認める。
だけど、だけどな? リシェルさんのシェリー推しが強すぎる気がするのだ。
「えっと、贔屓目とか……?」
「贔屓目に見ても、シェリーはじゃじゃ馬ですけどね」
リシェルさんの笑顔は崩れない。
「じゃじゃ馬な上に、権力者でもあるアクの強い兄二人に護られているのですから、何度婚約候補者が逃げ出したことか。おかげで婚約者もなかなか決まらずにこの年まで……」
「カロス!」
口を塞ごうかと、リシェルさんは再びカロスの顎を閉じようと躍起になる。本当に仲が良い。
じゃれ合う二人を横目に、俺はご令嬢リストにもう一度目を落とす。
シェリーに対して心は全く動かないのだが、シェリーの下に書かれている名前には大いに心が揺れ動いている。その理由は恋愛とか親愛とかではなく、恐怖心からだ。
足だって小刻みに震えて来ちゃうし、背中に冷や汗だってかいちゃう。
なんで、ここに名前が書かれちゃったのかなぁ………。両手で顔を覆い隠す。
夢なら覚めて欲しいぐらいだ。
「どうしてエレノア嬢の名が ……?」
消えそうな声で質問すれば、カロスの口を押さえ込んでいたリシェルさんはカロスから手を離した。
「大層評判の良いご令嬢のようですね。エレノア嬢は近衛騎士からの聞き取り調査で名前が上がっておりまして、フィレーネでは殿下とはそれは仲睦まじくお過ごしになられとか。さらにはお傍に置かれるためにフィレーネから呼び寄せられたと聞いています」
「傍に……呼び寄せ………?」
「本命では?」
「…………」
茫然自失としてしまう。
そもそもエレノア嬢が俺の本命だと思ったのに、なぜシェリーの名をそれよりも上に置いたのか。
いやいや、それよりもだ。
エレノア嬢は帝国に慣れないヒカリのために来てもらったのに、どうしてか周囲はエレノア嬢を恋人として呼び寄せたと思っている。だけどそれは事実ではない。思いもよらない話に俺の意識は宇宙まで飛んでいったが、その間にも走馬灯のようにフィレーネ地方での出来事が蘇ってくる。
二人きりの朝食、朝日を見ながらの乗馬、緑化した村と笑うエレノア嬢……………。
………………あれれ??
思い出せば思い出すほど、勘違いされる要素があることに気づく。
意外とリシェルさんの言うことは的を得ていた。
だが、こればかりは勘違いさせたままにはしておけない。俺の人生もかかっているが、一番は大事な友からの信頼が揺らいでしまう。
「ち、違います!! フィレーネではヒカリの件で迷惑をかけてしまったから、お詫びに……!」
「お手ずから令嬢を抱き上げて、殿下の馬に乗せたと聞いていますが?」
「それは道案内のために……」
「…………護衛達の馬でも良かったのでは??」
「う、うわーー!」
俺は頭を抱える。
ー キツキ、勝手に令嬢に触れてはいけないよ。
あの時のシキさんの注意はこういったことを懸念したからなのか。後々面倒になるからと注意されていたのに俺は素直にそれに従わなかったんだ。
何であの時に、もっと真剣にシキさんの言葉を聞いておかなかったのか。
今更後悔しても大変遅いのだが。
だけど、この名前だけは本気でダメなんだ。シェリーよりもやばいんだ。
まずい、まずい、まずい!
俺はそっと振り向いて、後ろに控えていた男の顔を見遣る。いつもは朗らかなエルディの面影が、そこには微塵も無かった。
「エ、エルディ。これは何かの間違えだからな?」
「いえ、私は何も…………ははは。エレノア嬢でしたらキツキ様と大変お似合いですから…………は、ははは」
白目になりそうな顔で何を血迷った事を言っている!
「おや、選定にはかなり時間を費やしましたので、間違いはないかと」
おかしいなぁと、リシェルさんは書類を見ながら首を傾げるが。
「殿下達の戯言は捨て置きなさい、リシェル。考えても答えはそこにありませんから」
「ん?」
カロスは目を細めて汚いものでも見るかのような目で俺らを見遣る。どうやらコイツには俺達の事情がわかったようだ。
側近の想い人を婚約者候補になんか出来るわけが無い!
エルディからの信頼が揺らいでしまうじゃないか。
カロスはため息をつくと、令嬢達の名が連なった書類を持ち上げる。
「とにかく、この予定で進めますので。どう転んでも、宿命だと思ってください」
「そんな宿命はいらん! 俺は自分で相手を探すから余計な事はしなくていい!!」
「時間は設けますので!」
「要らん!!!」
珍しくカロスが強気で言い返してきた。
いや、いつも通りか??
俺はカロスの言い分を遮るように立ち上がる。
「リシェルさん、もう話は終わりましたよね? 俺達は用事が済んだのでこれで失礼します。エルディ、帰るぞ!」
ここにいては力ずくで同意させられてしまう。
下手したら相手まで勝手に決められてしまいそうだ。
俺は放心してしまっているエルディの腕を掴むと、力のない彼を引っ張りながらカロスの応接室から飛び出した。
<独り言メモ>
次まで入れて1話だったのですが、1万5千文字オーバーしたところでぶつ切りにする決心をしました(次の話はまだ試行錯誤中)。心配になるほど大変お待たせいたしましたorz。
<人物メモ>
【リシェル・ヘーリオス・ワールジャスティ】
シキの兄。カロスと同じ宰相補佐官。
真面目なのか不真面目なのかよくわからないところがある。




