もう一つの物語6
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ー アベル ー
初々しく垢抜けない二人の背中を見送る。
自分の手から離れていく妹を見ながら、少し寂しくも、そして虚しさをも感じていた。
ダナと同い年だと言っていたテオドールの背中に、亡き少年の姿を重ねてしまう。
「いい加減、諦めろ……」
そう呟くと、遠くへ消えていく二人から視線を逸らせた。
重くなった息をゆっくりと吐き出すと、周囲を見回す。
太陽が昇るにつれ、市場前の道路には人が増え始める。まだまだ地方都市とは比べ物にもならないが、それでもこの街はこれから活気が出てくるであろう様相を見せていた。
ここへ来る帝国民の表情は明るい。
仕事で来ている人間がほとんどなのだから楽しいだけでは無いはずなのに、笑いながら歩く彼らを能天気だと思いながら、そしてそれを嫉ましくも眺めていた。
俺達の国は………。
そんな事を考えながら市場を歩く人の往来を無気力に眺める。そんな中、ふと見知った顔を見つけた。彼らは俺と目が合うと、迷わずこちらへと歩いてくる。
「……お客様、何かお探し物ですか?」
「トリス王国産の敷物を探していますが、ありますか?」
「もちろん扱っています。店内奥にありますよ、どうぞ」
俺の案内で店の奥へと入ってきた男達は、各々に被っていた帽子やフードを外す。
そんな彼らの顔を確認すると、おもむろに質問をした。
「……それで、どうだった?」
「北にあるダウタでの許可証をいただくことは出来ました。二週間後からの日付になっています」
「そうか」
彼らから渡された許可証に目を落とすと安堵の息が溢れる。
本当なら寄り道などせずに目的地へ真っ直ぐ向かいところだが、それこそ何もない砂漠の中をただひたすら移動していたら、ダナの体力は持たなかっただろう。
彼らの提案通り、行商人に扮しておいて良かった。
物資を大量に調達することを不思議がられないうえ、砂漠の中を数人の護衛付きで移動していても盗賊避けとさえ言えば疑問を持たれない。なおかつ、トリス王国のフォンターナ侯爵が運営するフォンターナ商会の名をお借りする事が出来たから、商売の許可もすんなり通って大した干渉もされない。
なんともありがたい。
「予定通り北へ行けそうだな」
そう呟くと目の前の二人は顔を見合わせる。その顔は双方困惑していた。
「何か問題でも?」
「一つご報告が」
「なんだ?」
「ダウタから目的地はそう遠くありませんが、先触れとして先方へ伺った者の話では、先方の当主様はどうやら領地には戻られていらっしゃらないそうです」
「戻られていない?」
「はい、何でも今は………」
「……待て」
俺の言葉に、目の前の男達は口を噤む。
彼らの背後には、足元まで隠れたローブを羽織った男達が、真夏の光に照らされながらこちらを見ていた。
****
俺とダナは海で仲直りしたあと、浜から丘へ向かう途中にあるスライム牧場に辿り着いていた。
目を遣れば、天を貫くかのような高さの丸太が等間隔に突き刺さり、それが大きなスライム達の柵となっている。柵の中からはスライムの飛び跳ねる振動が響き、ダナはそんなリズミカルに跳ねるスライムをキラキラした目で見ていた。
「……ダナ、面白い?」
「うん!」
そう質問すればすぐに返事が返ってくる。
子供のように目を輝かせるダナの姿は可愛い。そんなダナの視線を独り占めしているスライムに俺は嫉妬しそうだ。真横にいる俺にはスライムほどの興味はないらしい。これっぽっちも視線を向けてもらえない。
くそう。
気持ちを落ち着けようと柵の中にいるスライム達に視線を遣る。元気に飛び跳ねるスライムもいれば、太陽光に溶かされてだらけるスライムもいるが、どれもこれも肌艶は良い。
……良かった。ここはちゃんと管理されている。
「お嬢ちゃん達、見学かい?」
スライム牧場の入り口で見張りをしていた男性が近付いてきた。手には長い棒を持っていて、衛兵というよりは作業員といった感じの男だ。
勝手に牧場を覗き込んでいる俺達に警戒したのだろうかと、俺はこっそりと帽子から前髪を出して顔を隠した。
「はい。しばらく見ていても構いませんか?」
「ああ、良いよ。だけど柵の中に入る事だけは危険だからやめてくれ。それにここはリトス侯爵様御所有の牧場だから、勝手に入り込めば処罰されてしまうからな」
「わかりました。一つ聞いても良いですか?」
「何だい?」
「どうしてスライムが歩いた後には草が生えるのですか?」
「ははっ、不思議だよな。でも生えるのは草だけじゃないよ。時々、火だって放つ」
「え、そうなの?」
男性の言葉に、ダナは目を白黒させる。
「極端な例だけど嘘じゃない。だけどここにいるのは草木の魔素量を多く持ったスライムだと聞いているから、そういったことは少ないよ。送られてくる時に………ああ、いや。これ以上は関係者以外には話せないな。もういいかい?」
「ええ。ありがとう」
ダナの御礼に気をよくしたのか、見張の男は少し恥ずかしそうに頭を掻くと、喋り過ぎたなと呟きながら元の場所へと戻って行った。
……どうやらバレなかったようだ。
俺は平静を装いながら、動揺を隠す。
「お話が聞けちゃったわ。ふふ」
「楽しい?」
「ええ。だって初めての事ばかりだもの」
ダナは楽しそうに答える。
こんなに笑うダナを見たのは初めてだ。
「ダナ。面白いからといってスライムの真下まで近付いてはダメだよ?」
「どうして?」
「昼間は何かが飛び出てくるかもしれないし、夜は吸収されてスライムの体に閉じ込められてしまうんだ」
「まあ、そうなの?」
「月がよく見える晴れた夜は特に気をつけてね」
「テオって物知りなのね」
ダナは嬉しそうに目を細めると、再びスライムに目を向けてスライムの観察を楽しむ。
一方、俺はというと。
ダナの嬉しそうに笑う顔に心臓を抉られて、半ば瀕死状態である。
………可愛い。
なんでこんなに素直なんだよ。
無垢で、純粋な子供のようで。
笑う顔は触れてしまえば壊れてしまいそうで。
ー ……大事なものを守れるように
だけど時々、思い詰めた顔を見せて。
「…………」
あの時見せたダナの顔を思い浮かべると、少しだけ心配になる。だけど俺のお節介な心配なんかこれっぽちも気付かないダナは、小さな子供のようにはしゃぐ。
「テオ、テオ! 私あの一番大きなスライムを近くで見たいわ」
「それなら、あちら側へ回ろう」
「そうね!」
ダナは中に入り込まないように、柵に沿いながら目的のスライムに向かって歩き出す。その嬉しそうな背中を見ているだけでも俺は幸せだ。
「そうだダナ。お昼までにとアベルに言われているから、あのスライムを観察したら戻ろうか」
「え? もうそんな時間?」
もうそんな時間なのだ。
楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。
「残念だけどね。今度はどこに行きたいか考えておいて?」
「良いの?」
「ああ。俺からアベルに伝えるよ」
アベルからは信用されたみたいだし、この際もう少し妹離れをしてもらわねばならないからな。
「それなら私、星空を見てみたい」
「星空?」
「そう。建物に邪魔されずに星を眺めてみたいの。物語の主人公のように、草原に寝そべって夜空を眺めてみたいわ」
「建物に邪魔されず、草原にねぇ」
俺の視線は上を向く。候補となる場所はすぐに頭に浮かんだ。
だけど、夜ってアベルの許可は出るのだろうか。しかも男と二人でだ。
俺ならやっぱり許可は出せないよな、なんて考えてしまうが。
「帰ったらアベルに相談してみるよ」
「本当に? ありがとうテオ!」
ダナも夜の外出は流石に難しいと思っていたのだろう。俺の返事に、ダナは嬉しそうに笑った。
牧場からの帰り道。俺とダナは楽しく話をしながら歩いていた。
さっき見てきたスライムの話を嬉しそうに話すダナに、俺は相槌を打つ。
そんな幸せ真っ盛りの俺達の道の先から、見慣れない服を着た二人の男性が前方から歩いてきた。それは先生のように足元まで長いローブを羽織っているのだが、今は夏。変人の先生じゃあるまいし、何を考えてあんな丈の長いものを羽織っているのか。
でも暑い日差しを避けるには良いのかもしれないな、なんて考えた俺はそれ以上は気にせずに、ダナへの相槌を再会したのだが。
彼らの横を素通りしようとした時だった。不意に男達が俺に質問をしてきた。
「おい、少年。この辺りに銀色の髪をした女の子を見なかったか?」
「銀色? 知らないけど」
「……本当か?」
「俺が嘘でもついているって言うの?」
信じられないのなら聞かなきゃ良いのに。
そもそも、人にものを聞く態度でもない。
そう思っていると、少し考え込んだ男は再び俺に質問してきた。
「………この先には何がある?」
「何って、スライム牧場だよ。俺達だけで、女の子なんていなかったよ」
見学していたのは俺達だけだし、見張りも男ばかりだった。
だけど、男達は違うところに反応する。
「…………スライム……だと?……」
顔がフードで隠れてしまっている男達だったが、彼らがスライムの名を聞いて驚いたってことはわかった。
何なの、この人達。
「もう良い?」
そう聞けば男達は何を考えたのか、俺の横にいたダナに視線を流す。それがあまりにも不躾で、気になった俺はダナを背中に隠した。
「………おい、少年。その少女の瞳は銀色か?」
「は?」
俺の返事を待たずに、男達は顔を見せろとダナに手を伸ばそうとする。
「触るな!」
俺はダナに向かって伸びてきた男の手を思いっきり払う。誰の許可を得てダナに触れようとしているのか。
俺だってダナの顔にはまだ触れたことはないんだぞ?
「………少年、邪魔をするな」
「邪魔? おじさん達も俺達のデートを邪魔しないでよ」
そう牽制するけれど、ローブの男達は引こうとはしない。
「小僧、何度も言わせるな! その女を…………!」
そんな時だった。
「まずいまずいまずいー! 遅刻する!!」
そんな大声を上げながら、どこから現れたのか一人の男が突っ走ってきた。
そう、真っ直ぐに突っ走って来たのだ。
そのまま、彼は気持ち良いぐらいにローブの男達に衝突をする。
「ぐはっ!」
「がっ!」
ダナを触ろうとしていた男は、見事にその遅刻男に吹き飛ばされる。それに引き換え、吹き飛ばした方はケロッとしたままだ。体幹強すぎだろ。
「あああっ!! すみません。俺、街の時計台を見ていて!!」
ぶつかったはずの遅刻男は、あっけらかんとしながら弾き飛ばした男に手を伸ばす。心配はしているようだが、申し訳なさは彼の表情からは微塵も感じられない。
俺は遅刻男の寸劇を、半ば冷めた目で眺める。
「何だ貴様は! 邪魔をするな!」
「いやだなぁ、邪魔をしたわけじゃぁ……」
……どう見てもわざとらしいだろ?
道はそう大きくはないが、周囲は砂混じりの原っぱが広がっているんだから、避けることなんて難しい事ではなかったはずなのだ。急いでいたのなら、尚更人を避けるだろう。
心の中ではそう思うけれど、口を閉ざしたままこの続きを傍観する事にした時だった。
「おーーい、ジョッシュ!! どうしたぁ?」
さらにタイミングよく二人の男達が後ろから走ってやってきた。
その出来事に俺の目はさらに細くなる。
「あー、俺さぁ、会議に遅刻しそうで時計見ながら走っていたら、前に人がいたみたいで」
「ぶつかったのか?」
「ああ」
遅刻男の仲間なのか、彼から事情を聞くと、後から現れた友人達は吹き飛ばされたローブの男達に視線を向ける。
「それは友人が悪い事をしてしまいましたね。ここでは何ですから、場所を変えてお詫びを」
ローブの男達を囲いながら、申し訳なさそうな顔で手を伸ばしたが。
「くそ、邪魔が入った」
ダナを触ろうとしていたローブの男達は吐き捨てるようにそう言うと、勢いよく立ち上がって来た道を戻っていく。
「何だったの、あれ」
俺は冷めた目でローブの男達が走り去る姿を見送る。そしてそのまま、遅刻男とその友人と名乗る男達にも視線を流した。
「…………遅刻するんじゃなかったの?」
冷ややかにそう聞けば、遅刻男達は顔を青くさせる。
「やややっ、無駄な時間を使ってしまった。ああ、もう遅刻だ〜〜!」
「お、俺達も遅刻してしまうな!!」
そう言って男の集団は全力で街の中央へ向かって走り去って行く。
「ったく」
もう少し上手くやれなかったのだろうかとは思うが。何はともあれ、大事にならなくて済んだ。
安堵半分、呆れ半分の俺は息を漏らすが、背中に隠したダナの存在を思い出す。ハッとしてダナに視線を向けると、ダナは俺の服を掴んだまま青い顔をしていた。
「…………ダナ、大丈夫?」
「テオ。……うん、ちょっと驚いただけ」
「無理しないで」
青い顔のままどうにか笑おうとするが、そんなダナの姿がいたたまれない。
知らない人間が急に距離を詰めて来たのだ。怖かっただろうに。
「辛いなら、少し休憩する?」
「……ううん、大丈夫。それより、さっきの人達は大丈夫かしら?」
「さっきの人達?」
「遅刻していたのに、巻き込んでしまって何だか申し訳ないわ」
ダナのその言葉に俺は脱力する。
だけどあいつらの正体がバレていないようで良かった。
「大丈夫だよ、勝手にあっちがやって来ただけだから」
「え?」
「……何でもない。アベルが心配するから、歩けるのなら帰ろ?」
「……うん」
それにしても、さっきのローブの男達は何だったのか。
視線を下げると、ダナの手は震えたままだ。俺はそっと彼女の手を掴むと、引くようにして歩き出した。
俺はダナと横に並びながら、目を大きく見開いている。
何度目を開いても閉じても、目の前には路面しかない。その道路の上にあったはずの露店と馬車が見当たらないのだ。
「え、何で??」
俺は驚き、ダナは顔を青くさせる。
店どころか、アベルの姿すらなかった。
「どうして?」
俺達が出掛けている間に、一体何があったのだろうか。
俺達が顔を青くして立ち尽くしていると、隣の露店のおじさんが声をかけてきた。
「ああ、もしかして隣のお店の妹さんかな?」
「あ、はい」
「そこのお店のお兄さんね、急用が出来たからしばらくの間、ここから離れると言っていたよ」
「しばらくの間?」
驚いた俺はダナの代わりに声を上げる。
過保護のアベルがダナを置いていってしまうほどの急用だなんて、一体何があったのか。
俺は真剣に考える。
「あの、もしかしてお店に誰か来ましたか?」
「うん? ああ。珍しく数人の男性がいたね」
「それって街の兵士でしたか?」
「兵士? いやいや違うよ。 一組は商人らしき男性達で、もう一組はローブを着た男性達だったよ」
「え、二組も?」
「ああ。もしかしたら、大きめの商談でも入ったんじゃないかな? 質の良い絨毯を取り扱っていたから、貴族向けのお店や宿泊所から目をつけられたのかもね。羨ましいねぇ」
「商談………」
アベルだって商売をやっているのだからその可能性は否めない。だけどダナに何も言わずに移動してしまうほど重要な商談だったのだろうか。
俺が考え込んでいると、隣の店主は俺をまじまじと見てくる。
「君の事かな?」
「はい?」
「もう一つ伝言があってね。妹さんと一緒に出掛けている少年に伝えてくれと頼まれたんだが」
「……俺に伝言?」
「“戻るまでの間、妹を預かっていてくれ“とね」
「え?」
「これで頼まれていた伝言は全部だよ。今日中に伝えられて良かったよ。ハハッ」
「……ありがとうございます」
俺はおじさんにお礼を言うと、横にいたダナに視線を向けた。
ダナは放心していて、後ろに控えていた侍従達も初めて聞いたのか、驚きを隠せずにいた。
彼らの様子からして、出掛けるまでは来客の予定なんか無かったのだろう。
本当にただ商談が入っただけなのだろうか。
アベルが心配だけど、それよりも。
「……ダナ、大丈夫?」
「え、あ。うん…………」
「えっと、とりあえず俺が宿にしている宿泊所に行こう。同居しているケントにも説明するからさ」
「…………」
「大丈夫だよ。顔は怖いけれど、困っている人を放り出すような人間じゃないから」
ダナは不安そうにコクリと頷くと、それ以上言葉を発しなくなってしまった。
俺はそんなダナの手を取ると、ゆっくりと歩き出した。
店へ戻った俺は、ダナ達を食堂奥のテーブルに座らせると昼食を提供した。そして客が引き始める時間まで待つと、ケントと俺の代わりに食堂を手伝っていたヴァンニを厨房の奥へと引っ張ってきた。
ダナの事情を話したのだが、ケントの口から出てきた信じ難い言葉に、俺の眉間の皺は深くなる。
「…………駄目?」
「そうだ」
「何でだよ?」
「何でじゃねぇ。駄目なものは駄目だ」
「その理由を聞いているんだけど?」
やはりケントはただの鬼だったのか?
「簡単だ。先生からの許可がない人間を、ここへは置けない」
「せ、先生……」
威勢を張っていた俺だったが、その名に後ずさりする。
「そもそも、“テオドールの療養“を画策したのはあの人だ。多忙の中、お前のために全てを整えたんだぞ? それなのに当のお前と来たら、あの人の計画に水を差そうとしている」
「うっ、それは……」
「この計画の目的は療養以外にも、お前を帝都から安全に連れ出すためだったって知っているだろ? それなのに先生の尽力を無視して、身元が定かではない人間をお前は易々と寝床に連れ込もうとしている」
「連れ込もうってわけじゃ………。空いている部屋を使ってもらおうかと………」
「大差ないだろうが。しかもどう見ても軍人の護衛までついて来てるじゃねえか」
「………やっぱりそう思う?」
「流れの傭兵じゃないのは確かだな」
ケントは目を細めてダナ達が座るテーブルに視線を流す。ケントがそう言うのなら、やっぱりそうなのだろう。
「心配かけてごめん。だけど、アベルが戻ってくるまでの間で良いんだ。ダナを預かって欲しいと頼まれたから、俺は………」
「はあぁ〜。お前って奴は………」
ケントは大きなため息をつくと、組んでいた腕を解いて「困った奴だ」と天井を仰ぐ。
「ったく。仕方ねぇな。………ヴァンニ。あの妹の宿を用意してやれるか?」
「え、良いんですか?」
「俺達の寝床に入れなければ大丈夫だろうよ」
「では、ここのホテルに部屋を準備させましょうか?」
「それが良いだろう。そのほうが目が届くしな」
俺達もホテルの建物の一角に住んでいるけれど、ホテル側から俺達の寝泊まりしている部屋へは直接行けない。そのためか、ケントはヴァンニの案を受諾したようだ。
「良いの?」
「信用したわけじゃないがな。だが、急に兄がいなくなったのだろう? もしかしたら事件性があるかもしれないから、元の宿を使うのは控えた方が良いだろうな」
「………事件性?」
「来客の予定があれば、お前達が出掛ける前に伝えておくだろう。それをせずに、たった数時間で店ごといなくなったのなら、兄には想定出来ない事態が起こったのだろう」
「想定出来ない事態………」
その言葉に俺の気持ちは重くなる。
「ねえ、ケント」
「なんだ?」
「アベルの捜索をしてくれないか?」
「ちっ、……わかったよ」
意外にもすんなり承諾したケントに、俺は目を丸くする。
「え、良いの?!」
「お前が黙って勝手に捜索に行くよりかはマシだ。その代わり、絶対ここで妹と静かにしていろよ?」
やっぱりケントは俺の行動を予測済みだ。そんなケントに俺は満面の笑顔を向ける。
「わかった。ありがとう!!」
「約束だぞ?」
素直に従う俺に気を良くしたのか、ケントの表情は緩んだ。だが、相手は一癖も二癖もある俺である。
「ついでにさ、ケント」
上機嫌な俺のこの一言だけで何かを察したのか、ケントの顔は見る見る引き攣っていく。
「…………まだ何かあるのか?」
本当にケントの勘は冴えている。その勘は決して間違えてなどいない。
今のケントなら何でもお願いを聞いてくれそうだと勢いに乗った俺は、どうしてもやりたいことをケントに嬉々として打ち明けたのだ。
その後、いつも以上に鬼面になってしまったケントの顔を、俺は生涯忘れる事は出来ないだろう。
<独り言メモ>
1万3千字を超えて、やっと半分にすることを決意……。遅くなりました。
<更新メモ>
2024/05/13 誤字修正