もう一つの物語3
パチパチと薪が燃える音に目を覚ます。
ゆっくりと目を開ければ、滲むような視界が開けた。
目の前に人影が映るものの、はっきりとは見えずに視点を合わせようと、目を細めて眉間に力を入れる。
「ケント?」
そう聞けば、返って来た答えは違った。
「ああ、見えないのか」
そう言って、近くにいた人物は俺にメガネを掛ける。
しばらくして見えてきたのは、ケントではなくてアベルの姿だった。
「あ、あれ。アベル??」
「よう、頭はしっかりしているようだな」
「なんで??」
俺はメガネを持ち上げて目を擦る。もう一度人影を見やれば、やっぱりそこにいたのはアベルだった。
状況が掴めずに混乱するが、俺は自分がベッドに寝かされている事に気がついた。
首を横にして周囲を観察する。
木目の床に簡素な家具が置かれただけの質素な部屋で、アベルは椅子に腰を掛けて俺の様子を窺っている。部屋の隅にある小さな暖炉には火が焚べられ、その前には小さな机からぶら下がるように俺の服が干されていた。
「やっぱり間に合わなかったんだな」
「間に合わなかったって……?」
「だから、さっさと帰れと言っただろう」
「………」
アベルのその言葉で少しずつ記憶を辿って思い出すと、俺はあわてて首に手を当てる。首に巻いていたスカーフが無い。
俺は勢いよく上体を起こした。
「おい、急には……」
「ねえ、俺のスカーフは?!」
「ん? あの薄いのならもう乾いているかな?」
アベルは椅子から立ち上がると、暖炉の前に干されていたスカーフを持って来てくれた。
「ほれ」
「ありがとう」
俺は慌てて首を隠す。
「あの、首の事は………」
「それ、生まれつきか?」
「あ……うん、そう。アベル以外は見ていない?」
「俺が脱がせたからな。言うなと言うのなら、誰にも言わないから安心しろ」
「……ありがとう」
「それよりも、どうして裏道なんかで倒れてたんだ?」
「……たぶん、力尽きたんだと思う」
「力尽きた? あれしきの雨で力尽きるとは情けないな」
そうは言っても、あの土砂降りは凄かったぞ?
「アベルが助けてくれたの?」
「助けたのは俺じゃなくて……」
真面目な顔で話すアベルの背後から、部屋の扉が開くのが見えた。
「あ、テオ。目が覚めた? 良かった」
「………ダナ?」
扉から顔を覗かせたのはダナ。首からタオルをかけた彼女の前髪は、少し濡れていた。
「ちゃんと温まったか?」
「うん、女将さんがお湯をサービスしてくれた」
「そうか、それは良かった」
アベルはダナに優しく笑いかける。
「ダナが戻ってくる途中、お前を見つけたようでな。宿まで連れて来たんだ」
「え?」
「おかげでお前だけじゃなくて、ダナ達もびしょ濡れだ」
「ダナが俺をここまで運んでくれたの?」
「運んだのは従者だ」
「従者………」
大きな商会って言っていたから、従者がいたっておかしくはない。むしろダナが俺をここまで運んだって思う方がおかしいよな。
「ダナ、助けてくれてありがとう」
「どういたしまして。大事にならなくて良かった」
ダナは嬉しそうに笑う。
その顔を見ると、自然と自分も笑顔になった。
「ダナも雨に濡れてしまったんだね。ごめん」
「ううん、これくらい平気! だからテオは気にしないで」
ダナは力強く答える。そんな彼女の対応に、俺の心は救われる。
良い子だな、なんて思っていた時だった。部屋の外から床の軋む音が聞こえた。
俺の目は自然と扉へと向かう。俺の動きにいち早く気付いたアベルは、どうしたと訝しがる。
「誰か、廊下にいる………」
「……ああ。気にするな、うちの従者達だ」
従者と聞いて一旦は納得するものの、それでも気になってしまう。
元々傭兵でもしていたのだろうか。なんだか動きが軍人っぽい。
「それにしても、テオは体力が無さすぎだな。公園からそう遠くない場所で倒れてたぞ?」
「あー、ははは………」
確かに公園からそう離れてはいなかった。
自分が思っていたよりも、雨雲は街に近付いていたのだ。
「実は俺、ライラへは療養に来ててさ」
「………療養? 出稼ぎじゃなかったのか?」
「うん。最近まで寝たきりだったんだけど、だいぶ良くなって起き上がれるようになったから、医者の承諾をもらって静かな街で静養しようってなってさ」
「そりゃ、失礼なことを言っちまったな。すまなかった。だけど、どうしてこの街に? 確かにまだ人は少ないが、あちこち工事中で騒がしいだろう?」
「俺は工事の音は気にならないよ。むしろ活気があって好きかな。それに従兄弟がライラにいたから……」
「従兄弟?」
「うん。ラプチェホテルに併設されている食堂を切り盛りしている」
「ラプチェ……ホテル。ああ、ここより丘側にあるホテルか」
「知ってるの?」
「地理的にな。どれ、元気になったのなら送って行ってやろう」
「え、いいの?」
「……ここに居座られても困るからな」
「あ、そうか……」
「それに、療養中なら薬もあるんだろ?」
「……うん」
超絶絶妙な味の薬が。
「薬は大事だ。家で休んで落ち着いたら、また店に遊びに来い」
「え、行っても良いの?」
「……客としてな」
アベルはどこか照れくさそうに答える。
「それに、ダナも喜ぶだろ?」
アベルの口からそんな言葉を聞けば、ダナの顔はみるみる明るくなる。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
「だがな、ダナ。友達としてだぞ?」
「もちろんよ、お兄ちゃん。ふふ、友達が出来て嬉しい!」
俺も。
「はあ。本当にわかっているのか……」
無邪気に喜ぶ妹を、アベルはどこか複雑そうな顔で見守る。
「お兄ちゃん、テオを送っていくのなら、私も一緒に行きたい」
「もう夜だからダナは駄目だ。宿で待っていろ」
「夜………?」
二人の会話から、今更そんな事に気付いた俺の目は窓へと向く。カーテンで閉じられていたけれど、窓とカーテンの隙間から光は見えない。
血の気が引いていく。何ともやばい状況だ。
「やばっ! 帰らなきゃ!!」
絶対みんな心配している。
特にケント。
黙って俺がいなくなったなんて知ったら、鬼の顔で地の果てまで探しにくるじゃないか。
あれが暴走したら、誰が止めるんだよ。俺は絶対に嫌だぞ。
慌てて立ちあがろうと床に足をつけば、上手く力が入らずによろけてしまう。そんな俺の腕をアベルは反射的に掴んだ。
……びっくりした。
「ありがとうアベル」
「気をつけろ。自分では治ったと思っても、そうじゃない事もあるからな」
アベルがそんな優しい言葉をかけてくれる。
お店でもそんな優しい言葉が出れば、客も寄って来るものの。
間近でアベルを見れば、なかなかに顔が整っている。ケントと良い勝負だ。
「テオ、大丈夫?」
「うん、ダナ。ありがとう」
情けない姿をダナに見られて少し恥ずかしくなる。
ダナは思い出したかのように部屋の隅にあった棚まで歩くと、その上に置いてあったポーチを持ち上げる。
「テオ、テオ。これを忘れないで」
よくよく見れば、自分のポーチだった。俺を着替えさせた時にきっと外したのだろう。
「ありがとうダナ。助かるよ」
「ふふ、どういたしまして」
うん。笑う顔がやっぱり可愛い。
せっかく会えたのだからもう少し話をしたかったけれど、今は帰る事に集中しよう。
……帰りたくは無いけど。
「テオの服も乾いたようだ。もう忘れ物はないか?」
「あ、この服……」
自分の着ている服を見やる。少し緩いぐらいだから、アベルの服だとは思うが。
「いい、いい。その服はやる。着ていけ」
「でも……」
「着替える時間も惜しいほど、早く帰りたいんだろ?」
そう言われると、ケントの鬼のような顔が思い浮かんだ。
俺を確実に仕留めようとする顔だ。身体中に寒気が駆け抜ける。
「か、帰る!」
「わかった」
俺の返事を聞いたアベルは椅子の近くに立てかけてあった剣を持った。
「剣?」
「そうだ。夜は物騒だろ?」
「……この街、そんなに物騒なの?」
「………時々な。ダナ、侍従達は置いていく。気をつけてな」
「うん、わかった。お兄ちゃんも気をつけて」
「ああ。行くぞ、テオ。歩けるか?」
「うん………」
二人の会話に少しばかりの違和感があったが、考えている間にもアベルはゆっくりと動き出す。ゆっくりなのは、多分俺に合わせてくれているから。
俺はそんなアベルの背中を、無言で追いかけた。
宿に戻れば、やっぱり表側の扉は閉まっていた。だけどカーテンには灯りが薄らと見える。
当然、起きているよな。寝ないよな。
歩きながら知ったのは、今は夜どころか真夜中に近い時間。通りには酒に酔う男達を見ただけで、それ以外の人影はなかった。
周辺は静かで、食堂の中からも何も聞こえない。
あー、怖いなぁ。
あー、入りたくないな。
「アベル、表は閉まっているから裏に行こう」
「ああ」
アベルは宿泊所の建物を見上げる。
「どうしたの?」
「いや、意外と良い宿だなと思ってな」
「え、そう?」
「テオを褒めたわけじゃない」
「……知ってる」
いいだろ、優越感に浸っていてもさ。そんな即座に否定しなくても。
「こっちから」
俺はアベルに裏口の案内をする。
大きな建物をぐるっと回り、裏道に入ってすぐの場所に食堂の扉が見えた。
俺は深呼吸はしたものの、扉を目前にしてドアノブを握ろうかどうかと躊躇する。
「どうした、入らないのか?」
「……回避方法を考えてから」
「………回避?」
アベルはさっさと入れと言うけれど、彼はこの先の地獄を知らない。
何度か息を吸ったり吐いたりする。
「まどろっこしいな。家に帰るのに、何か問題があるのかよ?」
俺がなかなか入らないものだから、痺れを切らしたアベルが俺の代わりに扉を開けてしまった。
「あああっ! ダメ、アベル!!」
「おん?」
扉が開いた瞬間、中からは異様な殺気が流れ出てくる。
やばいやばいやばい。
だけど、俺の目の前にはアベル。
俺は見事にアベルの背中に隠れてしまっていた。
「……貴様、誰だ? 誰の許可を得て入って来た?」
中からケントの機嫌の悪い声が地を伝うようにして聞こえて来た。初対面の人間に向かって貴様呼ばわりするほどに御乱心のようだ。
「テオの従兄弟とも思えないような言葉だな」
「……テオ? 貴様、テオの知り合いか?」
「知り合いってほどじゃない。すれ違った程度の関係だ」
「いやいや、せめて知り合いにしておいてよ」
出会って既に半日は過ぎたじゃないか。
アベルの冷たい返答に、俺は思わず横槍を入れてしまった。
「テオ?」
俺の声に反応したケントは、目の前のアベルを押し退けて俺を見つけると、安堵した顔をほんの一瞬見せただけで、一気に鬼面へと変わる。
「テオ! てめぇはどこまでほっつき歩いていた!!!」
怒った顔も怒声も半端ねぇ。
俺は思わず耳を塞ぐ。
「おいおい、怖がっているだろ?」
アベルはケントの肩をぐっと掴んだのだが、それに反応したケントはバシッとアベルの手を振り払った。
アベルは目を細め、ケントはアベルを静かに睨みつける。
「警戒心が野良犬並みだな……」
「………人の肩に気安く手を掛けるな」
ひいぃぃぃ。
あわわわわ。
ケントもケントだけど、アベルもこれっぽっちも引かない。
厨房の裏口付近だけ、冥界の入り口にでもなったような雰囲気だ。
視線を動かせば、食堂にいたであろうヴァンニや数名の男性は、俺のように顔を青くさせながら何事かと覗き見るが、小さくなって誰も動こうとはしない。
俺も出来れば動きたくはない。動きたくはないけれど。
「ケ、ケント。アベルは俺を助けてくれたんだよ」
慌てて二人の間に入る。このままじゃ、助けてくれたアベルに被害を与えるだけだ。
「助ける?」
俺はコクコクと大袈裟に首を縦に振った。
「俺、帰り道で倒れてしまったみたいなんだ」
「倒れ…………テオ、また倒れたのか?」
アベルは眉を顰める。
「う、うん。散歩に出たら、急に大雨が降って来て引き返したんだけど………」
「だけど?」
「………力尽きまして」
それを聞くと、ケントは大きく息を吐いた。
「そうか………。お客人、失礼した。弟を助けていただいたようで感謝する」
「いや、妹が勝手にずぶ濡れの彼を拾って来ただけだ。感謝されるほどのものでもない」
「それはお手間をおかけした。大した礼は出来ないのだが………」
「妹は礼が欲しくてテオを助けたわけじゃ無いので気になさらず」
「……それはどうも」
表面的には大人な対応になったのだが、それでも今にもお互い飛びかかろうとしている猛獣二匹にしか見えないのは何故だ。いい加減、お互いの殺気を仕舞って欲しい。
もしやこれは、同族嫌悪というやつなのだろうか?
「では俺はここで失礼する。テオの体を労ってやってくれ」
「……言われずとも」
「じゃあな、テオ。きちんと休めよ」
「ありがとうアベル」
その言葉に、ケントは少しだけ反応する。
アベルは裏口の扉から出ていくと、こちらを注視していた男達から安堵の息が漏れてきた。
こっちにも心配をかけたなと、俺はヴァンニ達の集まっている食堂へと足を向ける。
「ごめん。心配をかけたね」
「無事で本当に良かった。もう、急に姿を消さないでよ?」
「うん。ごめんね、ヴァンニ」
「体は大丈夫?」
「今はなんとか」
「そうか。寝室はベッドメイクしてあるから、すぐにでも寝られるよ?」
「……じゃあ、そうしようかな」
ヴァンニはほっとした顔をしながら穏やかに話しかけてくれる。ヴァンニのその顔に俺も安堵した。
「じゃ、おやすみ。みんなも早く休んでね?」
そう言って二階へ向かおうとしたのだけれど。
「待て、テオ」
うちのボスがそんなことを許してくれるはずもなく。
「寝る前に、食堂を出た後のことを簡単に説明していけ」
「ケ、ケントさん。さすがに今日は……」
「お前を預かっている身で、知りませんでしたは通らないんだよ」
ケントは止めに入る周囲の声なんて無視だ。顎をクイッとあげ、俺の道を塞ぐ。
「……そうだね」
「さっきの男は?」
「公園の脇で露店商をしているんだよ。今日、そこで敷物を買って来た」
「……露店商?」
俺は頷く。
「……流れの商人にしては、あの雰囲気はおかしいな」
ケントの言葉に、ヴァンニは同調した。
「沸騰中のケントさんを目の前にして、引き下がらない人間はそうそういませんからね」
「……ヴァンニは黙っていろ」
「ただの似たもの同士だよ、ヴァンニ」
「………テオも余計な事を言うな」
ケントは眉を顰める。
いいじゃないか。今やらずに、どこでやり返すって言うんだよ。
「散歩に出掛けると言いつつ、午後もあいつの店に行っていたのか?」
「………はい、アベルのお店に寄っていました」
「そのアベルは何を売っているんだ?」
「色々な大きさの敷物」
「敷物だけ?」
「うん、敷物だけみたい」
「敷物か………」
ケントは考え込むと、カウンターに腰をかける。
「それで?」
「………それでって?」
「あんな目つきの悪い男の店に、どうして午後も足を運んだんだ? 家具にこだわらないテオが何枚も敷物を欲しがるとは思えないんだが」
ケントの鋭い指摘に、俺の足はたじろぐ。
俺の視線は横へと逸れた。
「……その反応。あやしいなぁ」
「ドキ」
「確か、妹が助けたとか言っていたな?」
「ドキィッ!」
「奴の妹、ねぇ……」
ケントは俺の顔を覗き込んで俺の表情を窺う。
「兄とは違って、妹はふんわりとした雰囲気の女の子だったりして?」
「………そうだよ」
何故わかったのか。
「それでもう一度行きたくなったのか。困った奴だな」
「と、友達になろうと……」
「おいおい。まじか、テオ」
「何だよ、友達作ったら駄目なの?」
「俺達の仕事が増えるだろ」
「はあ?」
「いかがわしい事はするなよ?」
「するかーー!!」
俺を何だと思っているのか。
「そんなことが聞きたかったの? 俺の行動を聞きたいんじゃ無いの?」
「これも必要な聞き取りだ。我慢しろ」
「要らない話だよ!」
アベルは面倒とばかりに舌打ちすると、仕方ないと話を戻し始めた。
「どこまで話したっけ?」
「アベルのお店に寄ったって話まで」
「あー、そうだったな。それであの男の露店に寄った後、どこへ寄り道したんだ?」
「寄り道ってほどじゃ無いけど、大雨が降って来たから近道しようと大通りから裏道に入ったんだ」
「裏道?」
「うん」
俺の話を聞いたケントは、天井を仰ぎながらため息をついた。
「………そこで見失ったのか」
俺達の話を聞いていた他の男性達も一斉に消沈する。
「奴の妹に助けられたのは、その裏道か?」
「多分」
「多分?」
「俺、そこで力尽きちゃったみたいで、通りかかったダナが助けてくれたみたい」
「ダナ? ああ、奴の妹の名前か。その妹がお前を運んだのか?」
「いや、俺を担いだのは侍従みたいだけど」
「そうか………」
そう呟くと、ケントは黙り込む。
「わかった。今日はもう寝ろ。寒いようなら風呂を用意してもらえよ?」
「あ? うん……」
「わかったのなら、さっさと休め」
俺を引き留めていたケントは、手の平を返したかのように急に俺を邪魔者扱いする。本当、気分屋で嫌になる。
だけど、これ以上からかわれるのは御免だ。
ケントの気が変わる前に、俺は皆を残して二階へと上がった。
明かりの消えた暗い部屋で、さっき寝ついたばかりの俺は目を覚ました。静まっている部屋の外から、男性二人の声が聞こえる。
俺はそれが気になって寝ていたベッドから起き上がると、そっと扉へと近付いた。
厨房からの階段を上ったあたりに、区切られていない居間のようなスペースがあるのだが、どうやら声はそこから聞こえてくるようだ。
「……思っていたよりも、回復していませんでしたか」
「表向きは元気に見えたのですがね」
俺はそっと扉ににももたれ掛かると、二人の男性の会話に耳を澄ませた。
「仕事は控えさせたほうが良さそうですね」
「ええ、俺もそう思います」
「では、代わりの者を………」
「ヴァンニに依頼済みです」
「そうですか。私のほうでも探してしましょう」
「………はい?」
「それで、今日彼を送って来た男の身元はわかりましたか?」
「俺の疑問は無視ですか。……どうやら流れの商人のようです。部下に探らせましたが、届けはトリス王国のフォンターナ商会として届けているようですね」
「フォンターナ?」
「ええ、届けはそのように出ていたそうですよ」
「そうですか………」
「どうしますか?」
「………少し気にはなりますが、害がなければ放っておきましょう。ですが念のため、その男の動向には留意なさい」
「もちろんです。それに、少し不可解な事もありまして」
「不可解?」
「奴の妹は裏道を通ってテオを発見したようです。そのおかげでテオは助かったと言えばそうなのですが、でもまだ人が居住していない建物群の裏道に、一体どのような用事があってその妹は通ったのかと」
確かに俺の通った裏道は出来立ての建物群で、まだどこも入居していない。民間の建物というよりも領主や国が管理している建物がほとんどだからかもしれないが。従者付きだとはいえ、女の子がわざわざ通る道にも思えない。
そう聞くと、ダナの行動を疑問視するのは理解出来るけれど、きっと何かしらの事情があったのだろう。
俺みたいに近道として使った可能性だってある。
「………つけられていたと?」
「可能性はあります」
「これ以上の接近は?」
「街には人が少ないので、後をつけていれば目立つでしょうね」
「そうですか」
「これ以上の投入も控えた方がいいかと」
「わかりました。その塩梅は任せましょう。ですが、危険だけは許されませんよ?」
「勿論です」
「とりあえず、あなたは仮初めの食堂を軌道に乗せる事に専念なさい」
「繁盛していますから、心配無用です。我々が身を隠している人間だなんて、誰も思わないでしょうね」
「その自信に溺れない事ですね。帝都から来ている騎士達に、こちらの正体は気づかれていませんか?」
「今のところ」
「そうですか。……わかっているとは思いますが、今後も駐留している騎士達には気付かれないように。彼らの中には、こちらの顔を見知っている人間がいるかもしれませんので」
「ええ」
俺はただ二人の話を盗み聞きする。口出すことなんて出来やしない。
天井を見ていた視線は、暗い床に落ちた。
「もう一つ報告が」
「何でしょう」
「街で変な噂をヴァンニが聞きまして」
「噂?」
「それが………」
「……お待ちなさい」
一斉に二人は口を閉ざしたのか、扉の向こうは静かになる。耳を澄ますけれど、何も聞こえてこない。
バレたかなと不安に思っていると、俺は何か強い力で背中を押し出された。
「うわっ!」
どうやら、誰かが寄りかかっていた扉を力任せに開けたようだ。俺のいた部屋側に引かれる扉だったから、それに寄りかかっていた俺は思いっきり押し出されたのだ。
床で膝を殴打する。
「あたたた……」
「泥棒のように盗み聞きしていないで、子供はさっさと寝なさい」
「言い方!」
盗み聞きしていたのは確かに悪かったけれど、言い方ってものがあるだろうが。
だけど俺がなんと言おうとも、俺を見下す先生は仁王立ちのまま何一つ揺らぐ事はなかった。
<更新メモ>
2023/11/1 加筆(最後の二行を修正)